第三章 影の献金
午前九時、東京・品川。
小雨が降る高層ビルの谷間を、黒い傘の群れが流れていく。
その中を、記者・杉本は小走りで抜け、ビルの一室に入った。
「被害者家族の会」――事件以来、急速に組織されたグループだった。
部屋の中には十数名の男女が集まり、それぞれが書類や証言記録を手にしていた。
机の上には、献金の記録簿、通帳のコピー、そして破られた誓約書の断片。
部屋の空気は重く、湿っていた。
まるで人々の祈りが、いまだ蒸発せずに残っているかのようだった。
「これが、母が最後に教団に送った金額です」
女性の一人が封筒を差し出した。
中には銀行の振込票が数枚入っている。
合計で二百万円。生活保護を受けながら、二か月のうちに三度。
「“信仰の証し”って言われました。断ると“信仰が足りない”って」
その声は、怒りよりも、虚しさに近かった。
杉本は彼女の顔を見つめた。
その瞳の奥には、「信じたい」という思いが、いまだに消えずに残っていた。
――信仰は、奪われてもなお、人の中に生き続ける。
それが、最も残酷な救いの形なのかもしれない。
*
会合が終わったあと、杉本は代表の弁護士・大浦に呼び止められた。
五十代半ば、白髪混じりの痩せた男だった。
「記者さん、あなた“宗教事件”に詳しいんですって?」
「多少は……ただ、これは“宗教”の枠を超えてますね」
「そうですね。信仰を利用した“マネーシステム”です」
大浦は机の上に一枚の資料を広げた。
「これを見てください」
そこには、複数の宗教法人名義の口座が矢印で結ばれていた。
中央には、ある中間団体の名前が大きく記されていた。
“救済文化振興会”。
「聞いたことありますか?」
「いや、初めてです」
「この団体は宗教法人ではありません。でも、旧統一教会の資金が、いくつもここを経由してる。
献金が寄附金名目で集められ、ここを通して“文化事業”として還流してるんです」
「つまり――」
「信仰を“経済活動”に変える装置ですよ。
しかも、すべて合法に見えるように作られてる」
杉本は息をのんだ。
宗教が“救済の物語”を売り、信者が“罪の安堵”を買う。
その交易の中心にあるのは、紙幣と印鑑と数字。
そこには、神の姿はどこにもなかった。
*
その夜、杉本は帰路につく途中で、靖国通りの古書店に立ち寄った。
書棚の間を歩いていると、手に取った一冊の表紙に視線が止まった。
『贖いの貨幣論』――戦後に書かれた哲学書だった。
ぱらぱらとページをめくると、こう書かれていた。
〈金とは、現代における“神の言葉”である。
それは贖いの象徴であり、同時に罪を覆い隠す手段でもある。〉
その一文が、胸に刺さった。
金が“贖罪の象徴”――それは皮肉だが、どこか真実を突いている。
杉本は本を閉じ、静かに考えた。
もし、金が神の代弁者だとすれば、現代の信者たちはみな“献金”を通じて祈っていることになる。
その祈りは、もはや聖書ではなく、通帳の残高に書かれている。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。
都心の灯が雨粒に滲み、まるで無数の涙のように光っていた。
*
翌朝、杉本は大浦弁護士とともに、ある元幹部信者の家を訪ねた。
東京郊外の古い住宅街。
呼び鈴を押すと、やつれた顔の男が現れた。
「取材なんて、もう勘弁してください」
「教団の資金の流れを知っていると聞きました」
「……知ってる。でも話せば、俺の家族が消える」
杉本は静かに言った。
「あなたが沈黙している間にも、誰かが同じように金を失ってます」
男の表情が揺れた。
やがて、彼は震える手で机の引き出しを開け、一枚の書類を取り出した。
「“文化事業”の契約書です。名義は別の団体。
でも、実際の資金元は教団です。献金者の名前も全部……」
彼は言葉を詰まらせた。
「……信者の中には、“神様のために自分の家を売った人”もいます。
俺は、その金の流れを整理する役目でした。
最初は、救いのためだと信じてた。でも途中で気づいたんです。
“救い”は組織の外には存在しないように、設計されていた。」
杉本は言葉を失った。
信仰の輪郭が、いまや冷たい計算式のように整えられていた。
*
取材の帰り道、杉本は電車の窓から外を見つめた。
都会のビル群が流れ、ガラスに映る自分の顔が重なっていた。
記者である自分が、いつの間にか“信者”のように真実を探している。
彼にとって“神”とは、もはや宗教の象徴ではなく、
人間が作り出した「正義」の幻影そのものになっていた。
――もし、神がいるなら、なぜ人はここまで神を商売にするのか。
答えは出なかった。
ただ、沈黙だけが、神の存在を証明しているように思えた。
*
夜、ホテルの部屋。
杉本は机の上に、取材メモと献金の契約書を広げた。
窓の外には、高速道路を走る車の光が流れていた。
「救いとは何か」――その言葉が頭から離れなかった。
母のノートを開く。
〈私は、神に金を返したい〉
その一文の意味を、彼は初めて理解した。
母もまた、“罪を贖うため”に金を捧げたのだ。
金は信仰の証ではない。
――それは、人が自らを赦すために差し出す“供物”だった。
杉本はペンを取り、ノートの端に書き加えた。
〈人は、赦しを金で買おうとする。
だが、赦しはいつも沈黙の中にある。〉
雨が窓を打った。
遠くで電車の音が響いた。
それはまるで、誰かが祈りの続きを語ろうとしているように聞こえた。
*
翌朝。
新聞社のロビーで北見が言った。
「お前、顔が死んでるぞ」
「眠れませんでした」
「宗教はな、人の心を掘る仕事だ。掘りすぎると、自分が落ちる」
「落ちても、そこに何かあるなら、それを見たいんです」
「……お前、本当に報道記者か?」
杉本は笑った。
「今は、懺悔者ですよ」
北見が煙草を消し、低く言った。
「じゃあ次は、“金の流れの裏”を追え。
ただし、そこに神はいない。いるのは“人の欲”だけだ」
杉本は頷いた。
取材鞄を肩にかけ、外に出た。
朝の光が灰色の雲を突き抜け、街を薄く照らしていた。
その光は、まるで沈黙の底に射し込むようだった。
――信仰と金。
その間に横たわる闇こそ、この時代の“祈りの断層”なのかもしれない。
杉本は手帳を開き、次の章のタイトルを記した。
第四章 沈黙する神々

その夜、杉本はひどい夢を見た。
闇の中で無数の人々が手を伸ばし、天を仰いでいた。
だが、空には神の姿はなかった。
あるのは巨大な黒い壁だけで、その壁の表面には「献金」「赦し」「救済」の文字が刻まれていた。
人々は祈りながら、その壁に金を貼りつけていく。
紙幣が風に揺れ、次第に壁そのものが金色に輝いた。
――そして、その輝きの向こうで、神々が沈黙していた。
目を覚ますと、部屋の中はまだ夜の気配を残していた。
窓の外で車の音が遠く流れ、冷蔵庫の微かな唸りが響いている。
夢の中の光景が現実のもののように胸に残り、杉本は額の汗を拭った。
「神は、沈黙しているのか。それとも、もう何も語る必要がないのか……」
彼は呟いた。
*
翌日。
杉本は都内の小さな教会を訪ねた。
木造の古びた礼拝堂で、外の喧騒とは無縁の静けさがあった。
床板の軋む音が、まるで誰かのため息のように響く。
彼は牧師に取材を申し込んでいた。
教団の信者だった家族の支援を続けているという。
牧師の名は永井。
七十代の小柄な男で、声は穏やかだが、その瞳の奥には深い悲しみが宿っていた。
「記者さん。人はね、“神を信じる”と口では言うけれど、本当は“自分の恐れ”を信じているんですよ」
「恐れ、ですか」
「ええ。孤独になること、見放されること、そして“自分が間違っていた”と知ることへの恐れです。
だから神を必要とする。だが、神はいつも沈黙している」
牧師は窓の外を見つめた。
「沈黙の神は、人に自由を与える神です。
しかし、多くの組織は“沈黙”を怖れ、“言葉の神”を作ってしまう。
命令し、裁き、指示する神……それが人間の作り出した偶像なんです」
杉本は深く頷いた。
“沈黙の神”と“組織の神”――。
その違いこそが、いま彼が追っている問題の核心なのかもしれない。
「記者さん、あなたは神を信じますか?」
永井が静かに問うた。
杉本は答えられなかった。
「……信じたいと思うことはあります」
「それで十分ですよ。神は、信じられる時よりも、疑われている時のほうが人に近いんです」
*
教会を出ると、冬の陽が街を照らしていた。
午後の光は淡く、冷たい空気の中で漂っていた。
杉本はポケットから母のノートを取り出した。
〈私は、神を信じたい。でも信じるたびに、自分の罪が見える〉
その文字の一つひとつが、まるで傷口のようだった。
彼は歩きながら、信仰の残酷さを思った。
神を信じるということは、自分を裁くということでもある。
赦しを求めるたびに、赦されない自分が浮かび上がる。
それが“沈黙の祈祷”というものの本質なのだろうか。
*
その日の夜、杉本は大浦弁護士から電話を受けた。
「例の“救済文化振興会”、表に出せない書類を入手した」
「どんなものです?」
「内部の会計報告だ。寄附金の八割が“宗教的目的以外”に流れている。
しかも政治関係者への“寄附”として処理されてる」
「つまり……?」
「宗教法人が、政治を動かしていた。
いや、“信仰”が権力を正当化していたと言ったほうが正しいな」
杉本は、しばらく言葉を失った。
信仰の名のもとで、神は再び人の手で利用されていた。
沈黙する神々――彼らは語らない。
その代わり、人間が勝手に神の声を代弁する。
「記者さん、あんたがこの真実を書いても、誰も救われやしないよ」
大浦の声は低く響いた。
「それでも、書かずにはいられないんです。
沈黙の中にこそ、神の顔がある気がするんです」
*
深夜、杉本はホテルの部屋でペンを走らせた。
窓の外では霧雨が街灯に照らされ、淡い光の粒となって漂っている。
〈沈黙の神々は、人間の中に住む〉
〈信仰は組織によって管理された瞬間、神ではなく“制度”になる〉
〈制度の神は、人を救わない。だが、人はそれに縋る〉
書きながら、彼は母の祈る姿を思い出した。
台所で小さな十字架を握りしめ、目を閉じる母。
その祈りは純粋だった。だが同時に、どこか寂しかった。
「母さん……あんたの神は、まだ沈黙しているのか?」
呟いた瞬間、胸の奥に重い痛みが広がった。
彼は窓を開け、冷たい空気を吸い込んだ。
下の通りでは、深夜タクシーが信号で止まり、ライトの光が濡れた道路に滲んでいた。
まるで、沈黙の神々が街の片隅に潜んでいるようだった。
*
翌朝。
新聞社の編集部に入ると、北見デスクが資料の束を机に叩きつけた。
「これ、見ろ。政治献金のリストだ。
“文化振興会”から金を受け取った議員の名前が並んでる」
「記事にしますか?」
「上は止めてる。スポンサーも圧力も入ってる。……だが、お前がやるなら、止めない」
杉本は資料を手に取った。
ページの端に、見覚えのある名前があった。
――現職閣僚の名。
「……本当に、ここまで腐ってたんですね」
「いや、腐ってるのは信仰じゃない。人間の欲だ」
北見は淡々と言った。
「だが、欲と信仰は兄弟だ。どちらも“救い”を求めてる」
杉本はゆっくりと頷いた。
信仰と欲望は、表裏一体。
その境界線を越えたとき、人は神の沈黙を“都合のいい許し”に変える。
*
夜、杉本は編集部を出た。
街は年の瀬の明かりに包まれ、イルミネーションが冷たい風に揺れていた。
人々の笑い声、音楽、そして祈り。
誰もが何かを信じ、何かに赦されたいと願っている。
だが、その願いの根底には、“沈黙の神”が横たわっている。
杉本は心の中で呟いた。
「神よ、あなたはなぜ沈黙するのですか。
それとも、この沈黙こそが、あなたの言葉なのですか。」
答えは、もちろん返ってこない。
だが、彼の胸の奥には、確かな“気配”があった。
それは、言葉ではなく、静かな存在の温もりだった。
彼はノートを開き、最後の行に書いた。
〈神が語らぬのではない。
人が、自らの罪の音に耳を塞いでいるのだ。〉
ペンを置いたとき、外では雪が降り始めていた。
音もなく、街を包むように。
それはまるで、沈黙そのものが天から舞い降りているかのようだった。
(第五章につづく)

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