第三章 裂け目の祈り
十二月の東京は、どこか異様に明るかった。
街の灯が、過剰なまでに人の孤独を覆い隠していた。
その光の中を、杉本はコートの襟を立てながら歩いていた。吐く息は白く、彼の歩調はどこかためらいがちだった。
あの宗教団体――今では「家庭連合」と呼ばれるその教団の施設を訪ねる日が、とうとう来たのだ。
杉本は、かつて新聞社で社会部の記者をしていた。
政治家と宗教の癒着を取材した経験もある。しかし、今回の取材は違った。彼の視線の先には、ただの「問題団体」ではなく、「母の記憶」があった。
母は、十年前にその宗教に入信した。
夫を亡くし、心の拠り所を失っていた母に、若い信者が優しく声をかけたのだという。
「神様があなたを愛しています」――その言葉に、母は救われたのだろう。
だが、その「愛」はやがて献金と孤立に変わり、母は静かに家庭から消えた。
杉本が最後に母を見たのは、教団の講堂で開かれた祈祷会の夜だった。
「あなたも来てくれて嬉しいわ」――そう言って、母は小さく笑った。
だがその瞳の奥には、どこか遠くを見つめるような空虚さがあった。
杉本はその笑顔を、十年経った今も忘れられなかった。
だからこそ、記者を辞めたあとも、彼は「沈黙の祈祷」を追い続けている。
母が何を信じ、何を見つめ、なぜ自分の世界から去っていったのか――それを知りたかった。
施設の門の前で、若い女性が頭を下げた。
「こんにちは。お約束の杉本さんですね」
声は柔らかく、どこか異様なほど丁寧だった。
彼女の名は山根明子。三十代半ば、教団の広報部で働いているという。
淡いベージュのコートに身を包み、笑顔を絶やさない姿は一見“清らか”に見えた。
だが、その瞳の奥には、何か揺れるものがあった。
「今日は、教団の活動について誤解を解きたいと思っています」
明子は静かに言った。
「世間では“カルト”“詐欺”と呼ばれています。でも、私たちは本当に家族のように助け合っているんです。」
杉本は頷いた。
だが、その言葉の裏に、どんな犠牲があるのかを知っている。
会議室の壁には、“真の家庭を築く”というスローガンが掲げられていた。
まるで神の名の下に、個人の自由や悲しみが吸い込まれていくような光景だった。
「あなたはいつから信じているのですか?」
杉本の問いに、明子は少し間を置いた。
「大学生のときです。家庭が壊れて、どこにも居場所がなかった。
そんなとき、ここで“あなたの涙は神が見ている”と言われて……救われた気がしたんです。」
その声には震えがあった。
杉本はノートに手を伸ばすのをやめ、ただ静かに聞いた。
彼女の語る“救い”の中に、かつての母の姿が重なったからだ。
取材の後、明子はぽつりと呟いた。
「私たちは、信じることでしか立っていられないんです。
もし信仰を手放したら、もう一度あの暗闇に戻ってしまう気がして……」
杉本は何も言えなかった。
理屈で宗教を裁くことはできても、**人の“心の空洞”**を裁くことはできない。
信仰は、時に毒であり、同時に薬でもあるのだ。
帰り際、彼は施設の外で、年配の女性たちが祈っているのを見た。
その中のひとりの背中が、母と重なって見えた。
「母さん……」
思わず呟くと、祈りの声が冬の風に混じって遠ざかっていった。
夜、杉本は取材メモを整理していた。
部屋は暗く、机の上に置かれた古い写真立ての中で、母の笑顔がこちらを見つめている。
その微笑みには、怒りも悲しみもない。ただ、静かな光のような優しさだけがあった。
――救われた人間と、失われた家族。
どちらが正しいのだろうか。
その問いは、彼の胸の奥で重く沈んでいった。
宗教とは、何を救い、誰を置き去りにするのか。
その答えを探そうとするたび、彼は自分自身の信仰を問われている気がした。
翌週、杉本は再び施設を訪れた。
明子が小さな部屋に案内してくれた。そこには十数人の信者が円になり、目を閉じて祈っていた。
「祈祷会に参加してみますか?」
彼女が微笑むと、杉本は一瞬ためらいながらも、椅子に腰を下ろした。
やがて、祈りの声が部屋に満ちた。
低く、静かな声。
「主よ、我らを導きたまえ。主よ、許したまえ。」
その旋律は単調だが、奇妙に心を掴んだ。
杉本の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。
病床の父の手を握り、母と共に祈った夜。
――あのときも、確かに「誰か」に向かって祈っていた。
祈りとは何か。
それは、理屈でも論理でもなく、人間が耐えられない夜にすがるための音なのかもしれない。
祈祷会が終わったあと、明子は窓の外を見つめながら言った。
「ここに来る人は、みんな何かを失くしてる。家族とか、愛とか、自分とか。
それでも、神様だけは私たちを見捨てないって、そう信じたいんです。」
その言葉を聞いて、杉本は胸の奥が痛んだ。
母も、きっと同じように信じていたのだろう。
――見捨てられたくない。
その一念が、彼女をこの場所へ導いたのだ。
「明子さん、もしあなたの神様が沈黙したら、どうしますか?」
杉本の問いに、彼女はしばらく黙り込み、微笑んだ。
「……それでも祈ります。沈黙の中にも、神はいると信じているから。」
その笑みは、悲しみと希望が入り混じった、不思議な輝きを放っていた。
夜更け。
杉本は帰りの電車の窓から、冬の星空を見上げていた。
ガラスに映る自分の顔は疲れていたが、その瞳の奥に小さな光があった。
「沈黙の中にも祈りはある」――その言葉が、胸の中で何度も響いた。
もし母が今どこかで祈っているのなら、その祈りは誰に届くのか。
いや、誰に届かなくてもいい。
祈りとは、人間がまだ希望を捨てていない証なのだから。
杉本はそっと目を閉じた。
そのまぶたの裏に、母の声が静かに響いた気がした。
――「たくみ、あなたも祈っていいのよ。誰にも届かなくても。」
彼は微かに微笑んだ。
祈りとは、沈黙の中で人を繋ぐ糸なのかもしれない。
その糸の先に、まだ見ぬ“神”の影が、確かに揺れていた。
第四章 信仰の傷跡

その週末、杉本は再びノートパソコンを開いていた。
机の上には、取材の録音データ、新聞の切り抜き、そして母の古いノートが置かれている。
ノートの表紙には、青いボールペンで「みことばノート」と書かれていた。
そこに並ぶ文字は、震えている。
「神の愛は人の愛より深し」
「苦しみを通してこそ救いがある」
「金を捧げることは、心を捧げること」
杉本はその一文を見つめたまま、しばらく目を閉じた。
母がなぜ、家族を捨ててまで“捧げる”ことに救いを見出したのか。
それは金額の問題ではなく、信じることでしか立てなかった魂の叫びだったのかもしれない。
「苦しみを通してこそ、救いがある……か。」
その言葉をつぶやくと、杉本は静かにノートを閉じた。
それは母が残した“信仰の遺言”のようでもあった。
翌日、杉本は地方支部の取材へ向かった。
郊外の駅を降りると、雪がちらついていた。
教団の建物は、古いアパートを改装したような質素な造りだった。
中から子どもの笑い声が聞こえた。
信者の家族が共同生活をしているという。
出迎えたのは、壮年の男性だった。
「杉本さんですね。私は小野寺と申します。」
穏やかな笑顔。しかし、その目の奥には、どこか疲れた影があった。
小野寺は十年以上、教団で布教活動をしてきたという。
杉本が名刺を差し出すと、彼は苦笑した。
「記者さんですか。……また“叩く”記事ですか?」
「いえ、今はただ“知りたい”んです。
信仰が人を救うこともあれば、壊すこともある。その両方を。」
小野寺は少し黙り、部屋の奥へ案内した。
そこには、壁一面に“真の父母様”“祝福家庭”と書かれたポスターが貼られ、机の上にはびっしりと信者の名簿や寄付の記録が並んでいた。
そして、その中に――一枚の古い封筒があった。
「これは……?」
「あなたのお母さんの名前、ありますね。」
杉本の心臓が一瞬止まった。
封筒には、見慣れた筆跡で“月例献金 二〇一三年十二月分”と書かれていた。
金額は五十万円。母の年金からすれば、到底出せる額ではない。
「なぜ、こんなに……」
「“神のために尽くす”という言葉が、あの人の支えだったんです。」
小野寺の声は静かだった。
「でもね、信仰って、誰かに支えられたい人が集まる場所なんですよ。
支えを与える側になろうとした瞬間、人は簡単に崩れる。」
話が終わった後、小野寺は一枚の写真を差し出した。
そこには、教会の前で笑う母の姿が写っていた。
周囲には明子を含む信者たちの顔。
皆が同じ方向に笑っている。
だが、その笑顔は――どこか不自然なほど整っていた。
「この写真は、何ですか?」
「“清平修練会”です。韓国の本部に行ったときの。」
「母も?」
「はい。彼女は“お母様”に祈りを捧げていました。」
小野寺の声が少し震えた。
「祈りながら泣いていたんです。“息子を救ってください”って。」
杉本はその言葉に胸を突かれた。
母は自分を見捨てたのではなかった。
彼女なりに、祈りの中で息子を抱いていたのだ。
しかし、その祈りは誰に届いたのか。
“神”か、“組織”か、それともただの空虚な沈黙か。
答えはわからなかった。
夜、宿に戻った杉本は、ホテルの机に母の写真を置いた。
薄明かりの中で、その微笑みはどこか懐かしかった。
彼は、無意識のうちに口を動かしていた。
「……母さん、何を信じてたんだ。」
携帯が震えた。
メールの差出人は――明子だった。
《杉本さん、少しお話があります。教会では言えないことです。》
その一文に、何か切実な響きがあった。
杉本は、返信を打った。
《明日、都内で会いましょう。》
翌夕、二人は新宿駅近くの喫茶店で再会した。
明子は疲れた様子でコートの襟を握っていた。
「私……もう限界なんです。」
「どうしたんですか。」
「上の人たちは“献金の証し”を強要するようになって……。
お金を出せない信者は、“信仰が足りない”と言われる。
私、最近それが、神様の教えなのか、組織の都合なのかわからなくなって……。」
杉本は黙って聞いた。
明子の声は、祈りと罪悪感のあいだで揺れていた。
「私、もう信じられない。でも、抜けるのが怖いんです。
“裏切り者は地獄に落ちる”って言われてきたから。」
彼女の瞳には涙が滲んでいた。
杉本は、彼女の言葉を聞きながら、自分の胸の中にも似た痛みを覚えた。
人は、信じるものを失う恐怖に、どこまで耐えられるのか。
信仰とは、救いなのか、それとも鎖なのか。
「明子さん……母も、たぶん同じだったと思います。」
杉本の声が震えた。
「誰かを信じたい。でも、信じた先に何もなかったとき、人はどうなるんだろう。」
明子は顔を上げ、かすかに微笑んだ。
「それでも、祈るんですよ。
祈ることでしか、立ち上がれない人がいるんです。」
外に出ると、冬の雨が静かに降り始めていた。
ネオンの光が滲み、街全体が涙のように輝いていた。
杉本は傘を差しながら、歩道橋の上で立ち止まった。
通りの向こうに、教団の看板がぼんやりと光っている。
――母も、あの光の下で祈ったのだろうか。
雨音の中、杉本は目を閉じた。
祈りの声が聞こえる気がした。
それは、信者たちの声でもあり、母の声でもあり、そして――
彼自身の中から聞こえてくる「赦しの声」でもあった。
ホテルに戻ると、杉本はノートを開いた。
そして、母の残した最後のページに小さく書き足した。
> 「信仰とは、人が神に語りかける言葉であり、
> 神の沈黙に耐える心の形である。」
ペンを置くと、彼はゆっくり息を吐いた。
窓の外では、夜の街が静かに濡れていた。
その雨音は、どこか遠い祈りのように聞こえた。
(第五章につづく)

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