遠藤周作を模倣し、『旧統一教会』を題材にした小説、「沈黙の祈祷(きとう)」第一章・第二章

目次

第一章 光を追う者

 風が、川の方から吹き上げてきた。冬の始まりの風は、東京郊外の住宅地の屋根を撫でながら、古い木造家屋の壁を震わせる。

 山名(やまな)は、玄関の扉を閉めてから、しばらくその風の音を聴いていた。冷たい風の中に、なにかが混じっているように思えた。それは、あの頃――彼がまだ“神の国”と呼ばれた集団に身を置いていた時の、歌の残響に似ていた。

 彼が「光の家」と呼ばれる建物を初めて訪れたのは、三十年前のことだった。

 大学を中退し、アルバイトで日々をつなぐだけの二十四歳。

 生きる意味という言葉を、まだどこか他人事のように口にしていた頃だった。

 ――「人間には、空洞があるんですよ。そこに何を入れるかで、人生が決まるんです」

 そう語ったのは、笑顔の柔らかい女信徒だった。彼女は聖書の一節を指でなぞりながら、まるでそれが恋愛の手紙であるかのように優しく読んだ。

 「神が愛ならば、愛のために生きる人は救われる」

 その響きに、山名は微かに救われた気がした。

 それが、長い沈黙と痛みの始まりであるとも知らずに。

 ***

 「山名さん、あの頃のこと、覚えてますか」

 電話の向こうで、低い声が聞こえた。元信徒仲間の一人、佐久間だった。

 「取材、受けてみませんか? 記者が探してるんです。教団の内部を知ってる人を」

 「もうやめてくれ。あれは終わったことだ」

 「終わってない。今でも入ってる人がいる。献金で家を失った人も」

 山名は無言のまま受話器を置いた。

 窓の外には、黄ばんだ街灯が立ち、風に揺れている。

 心のどこかで“自分の沈黙が、誰かを苦しめているのではないか”という声が微かに響いた。

 だが、彼にはまだ、語る勇気がなかった。

 ***

 「教会は、愛の共同体です。献金はその愛を形にしたものです」

 指導者の声は、礼拝堂のマイクを通して柔らかく響いた。

 壇上の彼を見上げながら、山名はいつも思っていた。

 ――なぜこの声は、こんなにも美しいのだろう。

 彼らの教えは、一見すると優しさに満ちていた。

 家族のように抱き合い、笑い、祈り、そして涙を流す。

 だが、その優しさの中に、少しずつ小さな裂け目が生まれていった。

 「信仰が弱いから、奇跡が起きない」

 「愛が足りないから、神は試練を与える」

 そう言われるたびに、彼は自分の中にある“罪”を探した。

 自分は汚れている、弱い、愛が足りない――

 その罪悪感が、彼をより深く教団へと結びつけていった。

 ある夜、彼は母親からの手紙を受け取った。

 〈お金を貸してくれないか〉

 短い文面だった。

 だが彼は、財布の中の札を数えては、翌朝それを献金箱に入れた。

 ――神が、母を救ってくれる。

 そう信じることが、彼の唯一の救いだった。

 ***

 年月は過ぎ、教団は社会の表舞台で問題視されるようになった。

 山名は、逃げるようにその世界を離れた。

 だが、心の奥に残る「祈りの残響」は、今も彼を離さない。

 信仰と欺瞞、愛と支配、その境界線はどこにあるのか。

 「あなたの罪は、まだ許されていません」

 かつて指導者が言ったその言葉が、夜になるとふと耳に蘇る。

 誰の声でもない、だが消えない声。

 それが、彼にとって“神”の形をした呪縛だった。

 ***

 ある日、地元の図書館で彼は一冊の本を見つけた。

 タイトルは『献身の構造――信仰と依存の社会心理学』。

 著者の名前には覚えがあった。

 元信徒の女性――彼を教団に導いた、あの女だった。

 彼女はあとがきにこう書いていた。

 〈私たちは、神に仕えるふりをして、人間に跪いていたのです〉

 ページをめくる指が止まった。

 山名の心の奥に、長い間閉じ込めていたものがゆっくりと開き始める。

 彼は立ち上がり、外へ出た。

 冬の風が頬を刺す。だが、その痛みはどこか懐かしかった。

 「……もう一度、あの場所へ行こう」

 そう呟いた自分の声に、彼自身が驚いた。

 再び「光の家」へ戻る――それは、救いを求めるためではない。

 あの沈黙の意味を、ようやく問うためだった。

第二章 再訪

 翌朝、川の土手に薄い霧がかかっていた。大通りの先にある古いビルが、白い呼気の向こうで輪郭をぼかしている。山名はポケットに手を入れ、指先で鍵ではない何か――図書館の貸出票をまさぐった。紙は冷えていて、しかし掌の熱を吸い上げるようにすぐ柔らかくなった。

 「戻るだけだ」と口の中で言ってみる。言葉は霧に吸われ、形を持たない。戻る先が昔のままであるはずがないことを、彼はよく知っていた。

 「光の家」の看板は新しくなっていた。以前は手書きの丸い文字だったが、今は直線的なロゴで、英語の副題まで添えられている。入り口には花が飾られ、受付の卓上には消毒液が置かれていた。その無臭の清潔さが、かえって山名の胸に古いにおい――油の切れたエレベーターの匂い、湿った絨毯の匂い、夏の汗と冬のストーブと祈りが混ざった匂い――を呼び戻す。

 「はじめての方ですか」

 明るい声が背中から来た。振り向くと、若い女性が会釈した。白いマスク越しでも目元の笑みははっきりしていた。

 「いえ……昔、ここに通っていた者です」

 言い終える前に、彼女の瞳が少しだけ丸くなった。

 「そうでしたか。ようこそ。今は“オープン・セッション”の時間です。ご自由に見学していただけます」

 彼女はパンフレットを差し出した。光沢紙の表紙には、青い空を背景に手を取り合う人々の写真。裏面には「献金のお願い」と小さな字。

 山名は受け取った紙の縁で指を切りそうになり、慌てて力を抜いた。若い頃、このような光沢紙はなかった。複製機のインクが指に移り、夜の寝床でその黒い指を見つめ、罪の色だと思った。

 「昔、ここは畳の部屋でしたね」

 女性は首をかしげたのち、微笑を深めた。

 「リフォームしたんです。地域の方に開かれた場所を目指して」

 それが本心であると信じたい気持ちと、言い換えにすぎないと疑う心が、山名の胸で同時に息をしていた。

 ホールには静かな音楽が流れていた。歌姫のかすれ声が、救いという語を幾度もなぞる。白い椅子が間を空けて並び、壁面には小さな写真。笑顔、握手、清掃ボランティア、子どもたちの工作。どれも疑いようのない善の断片だった。

 壇上のマイクの前に、痩せた男性が立つ。スーツはやや大きく、袖口から手首が覗く。

 「皆さん。今日のテーマは“負い目から自由になる”です」

 その声は思いのほか柔らかく、耳に障らない。

 山名はその言い回しに身じろぎした。負い目から自由になる――それはかつて、彼が最も欲しかった言葉だ。同じ言葉ほど、人を救いもすれば縛りもする。

 男性は言葉を区切り、会堂の隅々に視線を送った。

 「私たちが抱える負い目は、しばしば“過去”に紐づけられています。私もそうでした。父の期待に応えられなかった過去。家族への後ろめたさ――それらを手放すことは、私にはできなかった」

 「だから、神に委ねる」と彼は続けた。

 言葉が壇上から階段を降り、椅子の間を静かに歩くように広がる。

 (委ねた先が、やがて人に変わることもある――)

 山名は膝の上で指を組んだ。祈りと、縛りと、その中間。

 「ここでは、献金を“負い目の清算”と結びつけません」

 男性は一呼吸置いて言った。

 「必要な方だけ、任意で。どうか誤解のないよう」

 会堂の空気が、ほっと緩む音を立てたように思えた。

 山名は目を閉じた。昔と同じように――いや、違う、同じに聞こえるように整えられた言葉が、また胸に沈んでいく。

 終わりの祈りが告げられると、若い女性がそっと近づいてきた。

 「よろしければ、個別にお話、伺います」

 山名は頷き、案内された小部屋に入った。テーブルと椅子。観葉植物。窓辺に小さな十字架。

 「私は石坂といいます。ここでボランティアを。あなたは……」

 「山名です。三十年前、私はこの場所で救われたと思いました。救われた、と言い続けることで、自分の過去を言いくるめていました」

 石坂は驚くでもなく、静かに頷いた。

「離れて、戻ってこられたのですね」

 「戻るというより、確かめに来たのです。あのときの沈黙が、何だったのか」

 彼女はひと呼吸置き、机の角に置いてあった紙コップの水を指で押しやるようにして言った。

 「沈黙は、誰のためのものだったのか――でしょうか」

 山名の胸に何かが落ちた。

 (この若い人は、どこまで知っているのだろう)

 「あなたは、ここに“傷つけられた”のですか」

 「傷を望んだのです、私が」

 言葉が先に出た。山名は自分で驚いた。

 「誰かに選ばれたかった。役に立ちたかった。献金という形で“価値”を買えるのなら、喜んで払った」

 石坂は否定も同情もしないまま、質問を重ねた。

 「その願いは、今のあなたにとって、間違いでしたか」

 「願いが間違いだったとは思いません。でも、願いを利用する仕組みの中に、私自身が加担した。献金の封筒を配り、“神に委ねて”と言葉を添えた。母の病院代を後回しにしてでも」

 「……お母さまは」

 「もういません。十年前の冬に」

 小部屋の空気が、ほんの少し縮むのが分かった。観葉植物の葉が微かに震え、水の入った紙コップの表面に波の輪が広がる。

 石坂は小さなノートを開き、何かを書いた。

 「山名さん。もしお辛くなければ、当時の資料について、外部の取材を受けることをご検討いただけますか。私たちは昔の過ちを否定しません。ただ、今の仕組みがどう変わったのか、どう変わっていくのか、外の光で確かめたいのです」

 「あなた方が、外の光を求めるのですか」

 自嘲が混じるのを抑えられなかった。

 石坂は、しかし、目を逸らさなかった。

 「求めます。私自身が、ここで信仰と仕事を続けるために」

 その声に嘘はなかった。けれど、人は自分の必要のために真実を語ることがある。真実は純粋ではない。だからこそ人間の言葉になる――山名はそう思った。

 建物を出ると、雲が薄く割れて日が差していた。パンフレットの光沢紙が反射し、目が眩む。

 階段下、男が壁にもたれて立っていた。見覚えのある顔。髭が増え、頬がこけている。

 「……佐久間」

 「おお、山名。やっぱり、来たか」

 彼は笑い、煙草を胸ポケットに戻した。

 「連絡しようと思ってた。記者が会いたがってる。今夜、駅前の喫茶でどうだ」

 山名は返事の前に、空を見上げた。薄い日差しは温かくも冷たくもない。

 「行くよ」

 言った瞬間、胸の中の古い鍵束が音を立てた気がした。鍵は扉を開くためにあるが、時に閉じるためにもある。その両方を、自分で引き受けなければならない。

 駅前の喫茶店は、まだ昭和の匂いを残していた。木目のテーブル、べっ甲色の灰皿、厚切りのバタートースト。窓際の席に、四十代半ばの女性が座っていた。短く切った髪、眼鏡。肩の力の抜けたスーツ。

 「北見といいます」

 彼女は名刺を出した。地方紙のロゴ。

 「お忙しいところすみません。教団の現状と、過去の内部証言を集めています。今日、ここで会えたのは、石坂さんからの紹介です」

 山名は驚いて佐久間を見る。佐久間は肩をすくめた。

 「中から外へ、外から中へ、風通しをよくしようってさ。昔なら考えられないことだけどな」

 北見は記者然とした視線と、個人的な興味のあいだに細い橋を架けるような口調で続けた。

 「私は、告発記事ではなく“変化の記録”を書きたいのです。ただ、変わるためには、過去と向き合うことが避けられない。あなたの語りが、その橋になる」

 あなたの語り、と言われるたび、山名は背筋がこわばる。語るという行為は、過去を固定する暴力にもなり得る。沈黙は、時に他者への礼儀でもある。

 「質問を、どうぞ」

 自分の声が少し低く響いた。

 北見は録音機を置いた。赤いランプが点る。

 「初めて献金した日のことを覚えていますか」

 「覚えています。二十四歳のとき。母が職を失い、家賃を滞納していた。私は夜の倉庫で働いて、朝にここに来て、眠い目で祈った。壇上で“信じるなら奇跡は起こる”と語られた。私は信じることしか持っていなかったから、封筒に入れた。帰り道、財布の軽さと心の軽さが競い合って、どちらも同じだけ私を浮かせた」

 「その後、生活は」

 「厳しくなった。でも、厳しさは“選ばれた者の試練”だと解釈した。解釈は人を殺しもし、救いもしない。ただ延命させる」

 北見は一行、メモを足した。

 「あなたは“加担した”と仰った。何に、どうやって」

 「封筒を配った。新しく来た人に“恐れないで。これは愛の行為だから”と言った。彼らの瞳は、水分を含んだ紙のように迅速に柔らかくなった。私は自分がしてもらったことを、正確に返した。返すことで罪を相殺した気でいた」

 沈黙が落ちる。喫茶店の奥でカップがふれあう。時計の針が紙を切るような音を立てる。

 「やめた理由は」

 「母が倒れた。夜中に病院へ行く途中で、私は途中下車して献金をした。神に委ねるために。朝、病室で母は笑った。“いい夢を見たよ”と。昼に亡くなった。私は神に委ねたのではなく、責任を他者に渡したのだと、そのとき分かった」

 言葉が耳の外へ自分で出ていくのが分かる。北見は録音の赤い点を確かめ、目を伏せた。

 「……ありがとうございます」

 彼女の礼は記者の礼だった。個人の感情ではなく、記録者の倫理から出る礼。

 「今、あなたは戻ろうとしているのですか」

 「確かめに。あの場所が、語り直す場になり得るかどうか」

 「その判断を“外”に開きたい――石坂さんは、そう言っていました」

 佐久間が苦笑する。

 「風通しがよすぎると、紙は破けるんだがな」

 「破けたら、繕えばいい」

 北見はコーヒーの冷めかけた表面に目を落とした。

 「繕い目が、歴史です」

 夜、山名はアパートに戻った。鍵を回すと、部屋の匂いが迎える。古い石鹸、新聞のインク、冬の埃。机の上に図書館の本を置く。『献身の構造』――あの女が書いた本。

 彼女に会おうと思えば、会えるかもしれない。最後に会ったのは、礼拝の後、裏口で煙草を吸っていた彼女の横顔だ。

 〈私たちは、神に仕えるふりをして、人間に跪いていた〉

 本の一節を指でなぞる。紙は読まれるために作られるが、書かれた時点で作者の手を離れる。言葉の所有権は、読む者の胸の中に移る。

 山名は窓を開け、小さく深呼吸した。遠くで救急車のサイレンが鳴り、近くの踏切が鈍い鐘を打つ。都市の音の上に、さらに薄い音があるように思えた。祈りの残響。

 (沈黙は、誰のものだ)

 問いは、答えを持たないまま寝床に入った。人は答えのない問いを枕にしても眠れる。問題は、翌朝それをまた拾うかどうかだ。

 翌日、北見からメールが届いた。件名は「資料の確認」。添付ファイルに、過去の案内状、献金のお願い、説明会の記録があった。山名が覚えている文言と、ところどころ違っている。

 〈私たちはあなたの幸福を祈っています〉

 昔は〈祈ります〉だった。祈る、と祈っています、のあいだには、責任の距離がある。前者は約束、後者は状態。

 〈献金は任意です〉

 この一文は新しい。だが、次の文は古い。

 〈あなたの愛は、世界の苦しむ人々へ〉

 愛という語が、便利すぎる。便利な語は、具体で覆わなければ危うい。

 石坂からも連絡が来た。

 〈内部での対話会を開きます。元関係者、現役、記者、市民。匿名参加可。山名さんも、可能であれば〉

 招待状の末尾には、小さく〈献金は不要〉と書かれていた。

 山名は両手を膝に置き、静かにうなずいた。

 (場が、変わり得るかどうか。私が変わり得るかどうか)

 対話会は、ホールの隣の小部屋で行われた。十数人が円になって座る。司会の石坂が、冒頭だけ説明し、すぐに口を閉じた。

 「昔の話をしてもいいですか」

 最初に声を出したのは、中年の男性だった。彼は自分の名を名乗らず、しかし職業を言った。元営業。

 「私は、数字を追うように献金の“成果”を追っていました。達成のたびに上から褒められ、足りないと叱られた。人の祈りを数に変換する術を覚えた。今でも、その癖が抜けない」

 「やめられなかったのは、なぜですか」

 北見が穏やかに尋ねた。

「ここにいると、自分が意味ある人間だと感じられたから」

 沈黙。

 「意味のある人間、でありたいという欲は、誰にもあります」

 年配の女性が言った。彼女は現役で関わっているという。

 「私には息子がいます。引きこもりで、私の言葉は届かない。ここでは届く。だから居場所になった。献金は、私の居場所を買う行為だったのかもしれない」

 石坂が答えない。答えようとしない。場に沈黙が生まれる。

 「沈黙を、三分置きましょう」

 若いボランティアが提案した。砂時計が裏返される。

 砂の音はしない。だが、時間は目に見えて細く落ちていく。

 山名は、床の木目を見つめながら、遠くの踏切の音を思い出していた。

 (三分の沈黙は、誰のものだ。神のためか、人のためか、場のためか)

 砂が落ち切ると、石坂が口を開いた。

 「沈黙は、誰にも属しません。だから、安心して使ってください。言葉を返さない時間は、否定でも放置でもないと、ここで決めましょう」

 その宣言は、規則であり、祈りだった。

 山名は手を挙げた。

 「私は、封筒を配りました。人を促しました。今、謝りたいと思う。でも、謝罪が自己救済になってはならないと思う」

 頷く人。目を伏せる人。

 「謝罪を受け取るところまで、あなたの責任ではありません」

 北見が言った。

 「あなたは“語る責任”を果たす。受け取るかどうかは、相手の自由に委ねる。自由は、祈りより重い」

 自由は、祈りより重い――その言葉は、山名の胸に鋭く、しかし清潔に刺さった。

 対話会の終わりに、石坂が小箱を回した。献金箱ではない。小さな白紙と安全ピンが入っている。

 「持ち帰ってください。ここに一言、今日の自分に宛てて書いて、次に来るとき掲示板に留めてください。誰かのためではなく、自分に向けて」

 山名は白紙を取り、ポケットに入れた。紙は軽いが、未来の重さを持っている。

 帰り道、夜風が土手の草を撫でる。アパートの灯りはまばらで、遠くのコンビニだけが昼のように明るい。山名は小さな交差点で立ち止まり、白紙を取り出した。

 〈沈黙は、逃避でも服従でもなく、選ぶための余白であれ〉

 書いている途中で、指が震えた。筆圧が少し強くなり、紙に傷がつく。

 白紙は、書かれた瞬間、白紙ではなくなる。言葉は、沈黙と対になって初めて輪郭を持つ。

 ポケットに紙を戻し、山名は夜空を見上げた。雲が薄く流れ、星が一つだけ見える。見えるものより、見えないもののほうが多い空。それでも人は、その一つに向けて願いを投げる。

 翌週、彼は掲示板に自分の紙を留めた。安全ピンは硬く、指先に鈍い痛みが走る。隣には見知らぬ誰かの紙があった。

 〈私は、愛という語を軽く使わない〉

 その簡潔さに、山名は救われた。

 石坂が遠くから会釈した。

 「ありがとうございます」

 「まだ、何も」

 「ここでは、“まだ”が大事です。終わりを急がないこと」

 彼女の言葉は、信仰の教えではなく、場の作法だった。人を縛るためではなく、ほどくための形。

 「北見さんが、記事を出します」

 石坂が小声で続けた。

 「反発も来るでしょう。中からも、外からも。私たちはそれも掲示します。“読み方”を共有します」

 「読み方」

 「ええ。言葉は、読む人の数だけ色がつくから。私たちは、その色を消さないで並べたいんです」

 山名は、掲示板の紙の群れを見つめた。大小の字、震える線、迷いの残る句点、力強い宣言。どれも、かつて自分が封筒の口を糊で閉じたときの、あの確信とは違う。確信ではなく、問い。問いは、終着駅を遅らせる。だが、それが生を延ばすこともある。

 帰る前、山名は一度だけホールに入った。壇上の十字架は小さく、照明は柔らかかった。椅子は空で、音楽は流れていない。

 彼は一番後ろの席に座り、手を組まず、目を閉じず、ただ深く息をした。

 「神よ」

 声にはならない呼びかけが胸の内でほどける。

 「私は、あなたを利用しました。あなたを盾に、誰かを傷つけました。あなたが沈黙していても、私は言い訳を聞こえたことにしてきました。私は、あなたの名を語る資格がありません」

 言葉は、昔のように涙を呼ばない。涙がないから、祈りではないと決めつけるのは簡単だ。だが、涙のない祈りこそ、時に最も人間の言葉に近い。

 長い沈黙ののち、山名は席を立った。

 出口のドアを押すと、外の空気が流れ込む。冬の匂い、遠くのパン屋の甘い匂い、バス停で並ぶ人々の体温の混じった匂い。生活の匂いが、胸の内の重さを少しだけ溶かす。

 (沈黙は、生活の前でだけ、ほどけるのかもしれない)

 階段を降りると、北見が立っていた。新聞の束を抱え、目の下に薄いクマ。

 「出ました」

 彼女は一部を差し出した。紙面の中央に、見出し。

 〈沈黙をひらく――元信徒と現役、対話の場〉

 写真には、円になって座る人々の背中が写っている。顔は映していない。

 「ありがとう」

 山名は言った。ありがとうは、誰に向けたのか自分でも分からなかった。

 北見は小さく笑った。

 「次は、反響を載せます。賛否、怒り、感謝、誤解。全部、並べます」

 「紙面は足りますか」

 「足りないでしょう。だから、ウェブにも。紙も、画面も、掲示板も。読み方を巡って、場が広がるなら、記者の仕事は成功です」

 山名は新聞を折りたたみ、胸に当てた。紙の冷たさが、少しずつ体温で温かくなる。

 彼は思った。

 (祈りは、紙面にも宿るのだろうか。もし宿るなら、それは誰の祈りだろう)

 答えは要らなかった。必要なのは、次に読む人の手だった。

 夜の川沿いを歩く。橋の上では、車のライトが川面に線を描き、風が頬の皮膚を薄く撫でる。

 山名はポケットから小さな白紙の端をもう一度触った。安全ピンの先が指に触れ、痛みがわずかに走る。

 (痛みは、生の証拠だ)

 彼は歩幅を少しだけ広げた。明日、また掲示板の前に立つだろう。沈黙の三分を、自分のためにではなく、場のために置くだろう。語る言葉を選び、語らない言葉を選び直すだろう。

 「まだ、途中だ」

 誰にでもなく、川に向かって言った。

 流れる水は、答えない。だが、答えないことが慰めになる夜もある。

 山名は肩の力を抜き、遠くの街灯に向かって歩いていった。歩幅は、昔よりは確かで、しかし走るほどには速くない。

 道の先に、生活の光が点々と続いている。祈りの残響は、そこでようやく生活の音に混ざる。

 その混ざりあいの中に、人が人であり続けるための細い橋が架かっていると、彼は信じた。信じることを、恐れずに。

(第三章につづく)

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