第九十九章 出口の設計者
- 1 薄曇りの高架下
午前九時、東京の空は金属を磨いたように鈍く、JRの高架下に規則的な轟音が落ちていた。西村は紙袋を片手に、古い喫茶店のドアを押した。カップの縁に口紅が残るほどの年代物の店で、テーブルは磨かれすぎて木目が光っている。
待っていたのは、霞が関の若い職員・芦田だった。目の下の隈は隠しようもなく、両手で紙コップの熱を握りしめている。
「例の“非公開会合”の議事要旨は、やはり作られていました。ただ、正式回覧ではなく、担当係の“覚え書き”の形で。管理番号もふられていません」
芦田は封筒を取り出し、辺りを一瞥してから低く続けた。
「そして、そこに“出口の設計図”とメモされた欄がある。『一次固定/責任の単純化/投資心理の保護』。記したのは国内側の人間です。国外の声に押されただけではない」
西村は唇を結んだ。朱は海の向こうから飛来したのではなく、国内の机上で濃くなった――そう読み替えるべきだ。
「君は大丈夫か」
「俺は平気です。怖いのは、紙が“消える”ことですから」
- 2 歩廊の封鎖線
同時刻、神戸。記録室「歩廊」の前に、報道各社と一般の来館者が列を作っていた。入口近くには警備員が立ち、通りの向こうには黒いワンボックスが停まっている。
舟橋は扉を開け、いつもの声量より少しだけ大きく挨拶した。
「本日は、要旨の“下書”と“朱書き”を並置して展示します。読む順番は、下書→要旨本文→朱の順です。順番を間違えると、意味は簡単にひっくり返ります」
最前列の老婦人が小さく頷いた。
「間違えないようにします。うちの子も、順番を間違えた説明で片付けられたから」
その一言が会場の空気を引き締めた。
- 3 封筒の検出番号
午後、西村は庁舎の一室でプリンタの保守会社の技師と向き合っていた。例の白い招待状の紙面に微細な点列が浮かぶ。
「いわゆるドットコードです。機種ごとに配置規則が違い、日時や本体IDが埋め込まれています。……出ました。都内のレンタルオフィスに置かれている個体と一致」
スクリーンに映る住所は、官庁街から一駅のビジネス街。
「同じ個体から出た紙は、他にもあります」
技師は次々とサンプルを呼び出し、画面に並べた。うち一枚には、見覚えのある言葉が印刷されている――〈政策対話・簡記〉。
西村は芦田から受け取った封筒の重みを思い出し、短く息を吐いた。
「コードの発見者も、君も、名前は出さない。紙だけを並べる」
- 4 赤を外した影
夕方、都内のレンタルオフィス。フロアの片隅に共用プリンタが鎮座し、使用者の出入りはまばらだ。監視カメラの死角に立ちながら、西村は廊下の先へ視線を送った。
エレベーターが開き、二人の男が降りてくる。片方の横顔に、ロンドンで見た骨の線が重なる。赤いカフスはない。代わりに、灰色のハンカチがジャケットの胸に差され、無色の上質が全体を覆っていた。
――記号はいらない。物語が彼を指す。
西村は視線だけでその背を追い、男が入った会議室の札を覚え込んだ。〈205〉。ドアの隙間から、低い英語と日本語が交互に流れ、笑い声に似た呼気が一度だけ混じった。
短い会合が終わり、男たちは何も手に持たずに去った。プリンタの排紙トレイには、白紙が一枚、斜めにずれて突き出ている。
白紙は、実は白くない。微細な点列が、今日の日付を記していた。
- 5 警鐘
神戸の夜。「歩廊」では公開講義の終盤、質疑が熱を帯びていた。
「“単純化”は、緊急時の説明として一定の合理性があるのではないか」
中年の男性が問いかける。舟橋は頷き、しかし一拍置いて答えた。
「単純化は必要です。ただし、暫定であること、後から修正が入ることを同時に伝えれば。問題は、暫定の形に“錠”を嵌め、『一次固定』としてロックしてしまったことです」
スクリーンに、下書の鉛筆の線が拡大される。細く頼りない筆圧が、ページの端でふっと途切れていた。
「ここに“躊躇”が残っています。私たちは、躊躇に救われている」
会場の数人がハンカチで目元を押さえた。
- 6 夜汽車のテーブル
最終の新幹線。西村はテーブルに要旨の写しを広げ、鉛筆で小さく矢印を引いた。
〈一次固定→説明の簡素化→投資心理の安定〉
その横に、別の矢印。
〈被害者の名→原因の多層性→再発防止策〉
矢印と矢印は交わらない。ならば交差点を作るほかない。
窓の外で、闇の中に踏切の赤が点滅した。遠くの工場の煙突が、星のない空へ影を伸ばす。
(出口は作るもの――挑発ではない。設計の宣言だ)
彼はメモに「出口設計」と書き、四角で囲った。
- 7 「出口設計」会議
翌日午前、地検の会議室に五人が集まった。西村、若手検事、鑑定家の三輪、記録学の研究者、そして「歩廊」からオンラインで舟橋。
西村はホワイトボードに三つの箱を書いた。
【紙/言説/場】
「紙(要旨・下書・招待状)は物証。言説は“単純化”“議事録不要”のキーワード。場は“非公開会合”と“歩廊”。三つを同時に走らせて、出口を設計する」
三輪が続けた。「鑑定として、朱の顔料ロットの納入先を三点に絞りました。うち二点が要旨作成セクションと動線で重なる」
研究者が言う。「言説は記録されにくい。だからこそ場を開く。“歩廊”の公開講義は“言説の保全”になっている」
舟橋の画面が頷いた。
「次の公開は“出口の読み合わせ”にします。官庁側が嫌がるのは、『読む場』が自律することですから」
- 8 通告
会議の終わり、西村の携帯が鳴った。表示は非通知。
「出口を作るなら、あなたの“入口”は閉じる」
低い声がそれだけ告げ、切れた。
西村は受話器を置き、無言でメモに一行足す。
〈脅迫=記録〉
それから事務官に指示した。「通告書に起案。『捜査妨害の疑い』で記録。紙に残す」
- 9 搬入口
夜、霞が関。庁舎裏の搬入口に段ボールが積み上がり、台車が行き交っている。資料の移動は深夜に行われることが多い。
西村は立会いの紙に署名し、対象文書のケースが別の倉庫へ“移されない”ことを確認した。
台車の車輪が金属床の継ぎ目を乗り越える音が、規則的な拍に聞こえる。リズムは列車のそれに似て、なぜだか落ち着く。
(紙が動く線を、こちらが先に引く)
- 10 影の来訪
深夜。庁舎の非常階段を降りると、踊り場に人影が立っていた。あの女だ。PR会社の、笑わない微笑。
「あなたの“出口設計”は美しいわ。紙、言葉、場。けれど一つ足りない」
「何だ」
「時間よ。あなたが出口を作る頃には、物語の“線路”は別方向に付け替えられている。分岐器はもう操作された」
「なら、ポイントを戻す。本線に」
「それを“越権”と呼ぶの」
女は踵を返し、闇に溶けた。残された香水の薄い匂いが、階段の冷気にすぐ消える。
西村は手すりに手を置き、金属の冷たさを感じた。
――時間を、紙に釘付けにする。
- 11 神戸からの束
翌朝、「歩廊」から分厚い封筒が届いた。赤い投函箱に寄せられた市民のコピーの束。
「古い社内回覧です」「当時のチラシです」「学校で配られた説明プリントです」
紙は不揃いで、角が欠け、折り目が多い。だが、それぞれに“その日の空気”が染み込んでいた。
西村はそれを時系列に並べ、付箋で色分けしていく。最初の“単純化”に呼応する形で、地域の回覧文の文体が揃う時期があった。
(一次固定は、中央からだけでなく、日常の紙面でも増幅された)
地図が立ち上がる。紙の地形図だ。
- 12 公開の告知
午後、「歩廊」から新たな告知が出た。
〈公開講義:出口を作る――紙・言説・場・時間〉
「下書・要旨・朱書き・回覧文・学校プリント・報道コピーを同時サーバに載せ、誰もが同じ順序で閲覧できる“読みの導線”を設計します」
SNSで瞬く間に拡散した。反発も同時に生じる。
〈被害者感情を利用するな〉
〈行政の混乱を再生産するだけ〉
舟橋はコメント欄の一部をスクショし、最後に短く書いた。
〈反発も記録です。記録は必ず次の安全になります〉
- 13 出口の図面
夜更け、会議室のホワイトボードは矢印と箱で埋まっていた。
【紙】要旨/下書/招待状/回覧文
【言説】単純化/一次固定/議事録不要
【場】非公開会合/歩廊公開講義
【時間】事故直後→暫定→ロック→修正の放棄
「ここまで並べると、誰がどの段で関わり、どの段で手を引いたかが見えてくる」
若手検事が頷き、三輪が朱の納入記録の地図を隣に張る。
「次は、責任の分配だ」
西村はマーカーを置き、ふっと笑った。「配分表は、向こうが得意とするところだがな」
- 14 踏切
帰路、無人の踏切で足が止まる。冷たい夜気の中、遮断機は上がったまま、赤い点滅だけが孤独に瞬いている。線路は闇に溶け、遠くでブレーキの金属音が細く響いた。
(終着駅の名は、まだ掲げられていない)
彼は胸ポケットから手帳を取り出し、細い字で書き足した。
〈出口は“誰かの勝利”ではなく、“みんなの安全”に接続させる〉
筆圧が紙に沈み、冬の乾いた空気がインクの匂いを運んだ。
- 15 午前四時のファクス
翌未明、地検のファクスが鳴り続けた。吐き出された紙には、簡潔な決定が印字されている。
〈対象文書の一部開示を命ず。黒塗りは最低限に限ること〉
小さな勝利だ。だが、勝利はいつも静かにやってくる。歓声ではなく、紙の排出音で。
西村は封を切り、決定をクリアファイルに挟んだ。
――時間を紙に縫い止めた。
- 16 駅前の朝
神戸駅前。通勤の群れが波となってタイルの上を流れる。駅ビルの掲示板に貼られた“歩廊”の新しいポスターが、朝日を受けて微かに光っていた。
〈出口を作る――紙を読み、言葉を見て、場に集う〉
通りがかった高校生が足を止め、スマホで撮影する。友人が笑って言う。「なんか授業みたい」
「授業でいいんだよ」
舟橋が背後から答え、二人は驚いて振り向いた。
「社会は、授業の続きでできているから」
- 17 最後の誘い
その日の午後、西村の机上に小さなメモが置かれていた。
〈今夜、丸の内、ホテルのラウンジ。赤を外した男が来る〉
差出人は記されていない。だが、文字の癖は見覚えがある。東京の女の細い字だ。
「罠でも、記録になる」
西村はコートを取り、外へ出た。
- 18 ラウンジ
ホテルのラウンジは、照度を落とした琥珀色の世界で、グラスと低い会話が波紋のように広がっている。
窓際の席に、灰色のハンカチ。赤の代わりの無色。
男は穏やかな笑顔で言った。「あなたは出口を作ろうとしている。それは尊い。だが出口は、誰が通っても安全でなければならない」
「だからこそ、設計図を公開する」
「公開は、破壊に近い」
「非公開は、死に近い」
短い沈黙が落ち、氷の音が二度鳴った。
男はグラスを置き、手帳を取り出した。白紙のページに、ボールペンで一行だけ書く。
〈一次固定の解除〉
「これが、あなたの出口だ」
西村はその字を見た。整いすぎていて、逆に素性を隠す字だ。
「解除の手順は」
男は立ち上がった。
「それを決めるのは、あなたたちだ」
足音は絨毯に吸われ、琥珀色の海に沈んでいった。
- 19 設計の終章に向けて
外へ出ると、冬の空気が肺の奥を洗った。丸の内の並木道に白い光がともり、遠くで在来線のライトが交差する。
西村は歩きながら、手帳の最後のページを開いた。
〈一次固定の解除手順:①暫定の宣言/②多層原因の提示/③更新の定期化/④被害者・市民の参画〉
四つの項目に小さな丸を打つ。紙の上では線路はどこへでも伸ばせる。問題は、実線にして走らせることだ。
- 20 終着駅の掲示板
夜、神戸。「歩廊」の掲示板に貼られた紙が増えていた。
〈出口を見たい〉
〈出口を一緒に作る〉
〈一次固定をほどく〉
舟橋は最後に自分の一枚を貼った。
〈出口は、誰かの言葉ではなく、みんなの読みで開く〉
彼は深くうなずき、照明を落とした。
遠くで、列車のブレーキが鳴く。金属の擦過音が夜気を切り、やがて静けさに沈む。
――終着駅の迷宮。
出口は、もう図面の中にある。あとは、敷くこと。走ること。止まること。そして、もう一度、走ること。
(第百章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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