第九十三章 帰還
- 1 成田の朝
成田空港に降り立った瞬間、西村は胸の奥で微かな緊張が弾けるのを感じた。ロンドンで掴んだ断片は確かに手応えを与えた。しかし、それは同時に“ここ”――日本の内部に隠された迷宮を指し示していた。
出迎えの人波を抜け、控えめに手を上げる職員の姿に気づく。警察庁の連絡係だ。彼は小声で告げた。
「検事、すでに情報が流れております。ご注意を」
西村は頷いた。空港の透明なガラス越しに見える空は、青く澄んでいるのに、胸の内には重い雲が垂れ込めていた。
- 2 東京地検特捜部
霞が関の庁舎。報告を終えた西村は、上司の無言の圧力を受け止めていた。
「国外の動きは理解した。しかし、我々が追うべきは国内の証拠だ。君が言う“要旨”――日本の官庁に残されているという記録だ」
「はい。英国の登録では〈相手側保管〉と明記されていました。つまり、省庁側に保存があるはずです」
上司は深く椅子に沈み、ため息をついた。
「しかし、それが公開されるかは別問題だ。官邸は難色を示すだろう」
西村は、黙って資料を差し出した。
「それでも、進めるしかありません」
- 3 脅迫の影
同じ頃、神戸。北里の家には再び封筒が届いていた。
《次は家族だ》
短い文面に、刃物のような冷たさが宿っていた。
警察が動き、自宅周辺に監視をつけるが、北里夫妻の顔は蒼白だった。
「真実を語ることが、これほどの代償を生むのか……」
北里は震える手で便箋を握りつぶし、燃やすように暖炉に投げ込んだ。
- 4 記録室の決断
神戸の「歩廊(プロムナード)記録室」。舟橋は記者たちに囲まれていた。
「告発者への脅迫が続いています。記録室としては安全を確保しつつ、公開を続けるつもりですか?」
舟橋は一瞬目を閉じ、そしてはっきり答えた。
「記録を閉ざすことは、再び亡くなった方々を消すことになる。私たちは続けます」
彼の声は小さくとも、決意の重さが滲んでいた。
- 5 霞が関の封印
国土交通省の資料室。西村は担当官を前に身分証を提示した。
「事故直後の政策対話に関する要旨の閲覧を求めます」
担当官は戸惑いを見せ、やがて眉をひそめた。
「そのような要旨が存在するか否か……確認には時間がかかります」
「存在するはずです。英国のロビー登録に明記されている」
沈黙が落ちる。やがて担当官は低く言った。
「仮にあったとしても、公表できるものではありません」
西村は引き下がらずに視線をぶつけた。
――迷宮の扉は、目の前にある。だが鍵はまだ遠い。
- 6 政界の動揺
永田町。与党幹部がひそやかに語り合っていた。
「もし“要旨”が開示されれば、官庁だけでなく政権そのものが揺らぐ」
「早く手を打たねば」
彼らの声には焦りと怯えが交錯していた。
西村の動きはすでに政界の耳にも届き、封印の圧力が強まりつつあった。
- 7 記録を巡る攻防
翌日、西村は議員会館に呼び出された。
ある議員が低い声で言った。
「君の情熱は理解する。しかし、これは司法の枠を超えている。国のために、少し冷静になってはどうか」
「百七人が亡くなったのです。真実を封じることが国のためになるのですか」
議員は視線を逸らし、答えなかった。
- 8 迷宮の囁き
その夜、西村のオフィスに匿名のメールが届いた。
〈要旨の写しは既に存在する。探せ、霞が関の地下倉庫に〉
署名はなかった。しかし、行間には焦燥と切迫感が滲んでいた。
――内部の人間か。
西村は画面を閉じ、静かに息を整えた。
- 9 霧の記憶
窓の外を見やると、東京の街もまた霧に包まれていた。
ロンドンで見た白い靄と同じ。
――迷宮は国を越えて繋がっている。
西村の胸に、再び熱い決意が宿った。
- 10 再びの旅路
翌朝、西村は同僚に告げた。
「霞が関の地下倉庫を洗います。そこに、出口への鍵がある」
仲間の検事たちは目を見合わせたが、誰も反対はしなかった。
――終着駅は、まだ遠い。
だが、確実に一歩ずつ近づいている。
迷宮の奥で蠢く影は、いままさに姿を現そうとしていた。
第九十四章 地下の要旨

- 1 霞が関の地下
東京・霞が関。国土交通省庁舎の裏手に、職員しか使わない搬入口がある。夜半、西村は同行の若手検事とともにそこに立っていた。
金属製の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。地下へ続くコンクリートの階段が、鈍い蛍光灯に照らされている。
「ここに保管されている、と?」若手検事が囁く。
「匿名の情報では、事故直後の“要旨”がこの倉庫に眠っている」
西村の声は低く、硬かった。
階段を降りるたびに、埃の匂いが強まる。コンクリートの壁に並ぶ鉄の扉、その一つに「第七資料保管庫」と小さく書かれていた。
- 2 錆びた棚の奥
扉を開けると、金属の棚が迷路のように並んでいた。段ボール箱やファイルが無造作に積まれ、時折、紙の端がはみ出している。
若手検事が懐中電灯を灯した。
「これだけの量を……探し出せるでしょうか」
「手がかりは“2005年、政策対話”。そこに絞る」
西村は棚の背表紙を指でなぞりながら進む。年次別、部署別に分類されているが、雑然としていた。
やがて一つの箱の隅に「会合記録・外資関係」と書かれたラベルを見つける。西村は静かに息を吸い込み、封を切った。
- 3 薄いファイル
中には数冊のバインダーが並んでいた。表紙は黄ばみ、紙の縁は少し波打っている。
「……あった」
西村の指が止まった。バインダーの一枚目に「政策対話要旨」と印字されていた。
めくると、日付は事故直後。参加者には日本の官僚の肩書と並んで、外国人の名前が記されていた。そこには確かに「L.M.」のイニシャルがあった。
「……やはり」
西村は紙を睨みつける。要旨には、議題の一つとして「原因分析の整理」が書かれていた。その下には、こう記されていた。
〈国民への説明は単純化が望ましい。運転士の過失を前面に――〉
若手検事が息を呑んだ。
「これは……」
「証拠だ」西村は低く言った。「組織ぐるみの“物語操作”を示す紙の証拠だ」
- 4 封印の圧力
だが、喜びは一瞬だった。資料室の扉の外から足音が響いた。
「検事、ここで何をしている!」
職員が数人現れ、険しい顔でこちらを見ていた。背後には官僚らしき男の姿もある。
「この資料は閲覧許可が下りていないはずだ」
「司法判断に基づく調査です」西村は一歩も退かずに言った。
だが、相手は冷ややかに笑った。
「たとえ司法でも、国益に反する情報を勝手に扱うことは許されない」
空気が重く凝り固まる。西村は資料を抱え、心の中で決意を固めた。
――封印を破るしかない。
- 5 遺族への知らせ
翌日、神戸の「歩廊記録室」。舟橋のもとに一本の電話が入った。
「要旨が見つかった」
受話器の向こう、西村の声は低く震えていた。
「だが、封印されようとしている。世に出るには、遺族の声が必要だ」
舟橋は一瞬黙り、やがて深く頷いた。
「私たちは叫び続けます。たとえ誰に脅されても」
その夜、遺族たちは緊急の集会を開いた。涙を滲ませた顔で一人が言った。
「運転士のせいにされ続けた子どもたちの無念を晴らす時だ」
- 6 報道の波紋
週明け、新聞の一面に小さな記事が載った。
《地下資料庫に“要旨”存在か》
記事は控えめだったが、SNSでは瞬く間に拡散した。
「やはり隠されていたのか」
「国が関わっていたのでは」
世論の波は日に日に高まっていった。
- 7 迷宮の出口は
夜遅く、西村は庁舎の窓から外を見つめていた。
霞が関の街はネオンに照らされているのに、どこか影が濃い。
机の上には、例の「要旨」が広げられていた。紙の匂いが、確かに現実を証明していた。
――迷宮は、出口を示し始めた。
しかしその出口の先には、さらに大きな闇が待ち構えているに違いない。
西村は手帳に一行だけ書き足した。
「紙が語り始めた――隠された真実を」
(第九十五章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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