第九十章 告白の檻
- 1 記録室に集う影
曇天の朝、神戸市郊外の「歩廊(プロムナード)記録室」前には異様な熱気が立ち込めていた。遺族、市民、記者たちが入口を取り囲み、誰もが一様に緊張した面持ちで中の様子を窺っていた。
扉を押し開けて現れたのは、年配の男だった。黒縁眼鏡をかけ、深い皺が刻まれた顔には長年の葛藤が滲んでいた。元社外役員、北里雅彦。かつて取締役会で運行体制や報告書の修正に関わったとされる人物である。
彼は遺族に軽く頭を下げ、ゆっくりと壇上に上がった。
「……私は、今日ここで全てを話します」
その声に、場内は一瞬にして静まり返った。
- 2 封じられた会合
北里は深く息を吸い込み、視線を遠くに向けながら語り始めた。
「事故の直後、私たちは緊急会合を開きました。そこに現れたのが、マクスウェルと呼ばれる男です。彼は堂々と、しかし冷ややかにこう言ったのです――『運転士の過失を前面に押し出せば、組織は守られる』」
記者たちのペンが一斉に走る。遺族席では嗚咽がもれ、傍聴者は息を呑んで耳を傾けた。
「私はその言葉に違和感を覚えました。しかし、会合に出席していた他の役員はうなずき、すぐに指示が飛びました。ATS未整備やダイヤ改正の圧力といった“会社に不利な情報”を削除しろと」
北里の声は震えていた。
「私は署名を拒みました。だが、それ以降、私は会合に呼ばれなくなった」
- 3 遺族の叫び
その言葉に、遺族席から声が上がった。
「じゃあ、やっぱり隠してたんだ!」
「うちの子は、嘘で塗り固められた報告の犠牲になったんだ!」
裁判所ではなく記録室。ここでは木槌も権威も存在しない。ただ、心の叫びが直接響いた。
舟橋は慌てて遺族の肩に手を置き、声を低めて促した。
「大丈夫です、今は聞きましょう。真実を」
- 4 検事の視線
傍らに立つ西村検事は、手帳に細かく記録を取りながら、冷静に北里の言葉を追っていた。
――ついに“名指し”と“具体的行為”が重なった。これで立証の糸口は掴める。
しかし同時に、西村は心の奥に重い不安を抱えていた。外資顧問の関与は、日本の司法だけで処理できる問題ではない。国際的な摩擦を引き起こす可能性があった。
「だが、それでも進むしかない……」
彼は小さく呟いた。
- 5 沈黙の重み
北里はさらに続けた。
「私は恐れていたのです。声を上げれば、会社からも社会からも排斥されるだろうと。だから、十数年黙っていました。しかし、犠牲者の名簿を記録室で見たとき、私は震えました。沈黙こそが最大の罪だと」
その告白に、場内は涙と怒りが入り交じった。
遺族の一人が立ち上がり、震える声で言った。
「あなたの勇気を待っていました。もっと早く……もっと早く言ってくれれば……」
北里は深々と頭を下げ、声を詰まらせた。
「……申し訳ありません」
- 6 マクスウェルの影
その頃、ロンドンの高級ホテル。
マクスウェルは記録室での告白が速報として伝えられたニュースを眺めていた。
「……北里、か」
彼はグラスを傾け、赤いワインを口に含んだ。
「名指しがどうした。証拠がなければ、ただの言葉遊びにすぎない」
窓の外には霧が漂い、街の光が滲んでいた。迷宮はまだ彼を包み込んでいた。
- 7 報道の奔流
その夜、テレビ各局は「マクスウェルの関与、元役員が告白」と報じた。
スタジオのコメンテーターたちは次々と意見を述べる。
「これは日本の企業体質の問題と同時に、グローバル資本の影響を浮き彫りにしている」
「証言が事実なら、司法はどう対応するのか」
「社会は“迷宮”から抜け出せるのか」
視聴者からは賛否が殺到し、SNSには炎のようなコメントが渦巻いた。
- 8 夜の記録室
会合が終わり、人々が帰路についた後、舟橋は展示室のパネルを見つめていた。
「真実を語る場が、やっと生まれたのかもしれない」
彼の横で、学生ボランティアが声を震わせながら言った。
「歴史って、こんなに重いんですね」
舟橋は頷き、窓の外の街灯を見やった。
「迷宮の出口は、こうした小さな光から始まるんだ」
- 9 検察庁の深夜
西村は深夜の庁舎で報告書を整理していた。
机の上には、田嶋の証言、北里の告白、そしてマクスウェルに関する断片的な資料が積み上がっていた。
「言葉だけでは足りない。証拠が必要だ」
そう呟きながら、彼は新たな行動計画を書き始めた。
――ロンドンへ。
その二文字が、紙面の端に小さく刻まれた。
- 10 迷宮の奥へ
翌朝、新聞の見出しには大きくこう書かれていた。
《元社外役員が告白 外資顧問マクスウェルの名を指す》
だが、その下には小さな記事も載っていた。
《告発者に脅迫状》
迷宮は出口を見せたかに思えた。しかしその奥には、なお深い闇が待ち受けていた。
第九十一章 渡航

- 1 夜の庁舎
神戸地方検察庁の執務室。深夜の時計は午前一時を指していた。
西村検事は机の上に広げられたファイルを凝視していた。田嶋の証言、北里の告白、そして匿名で送られてきたUSB。そのすべてが一つの線で結ばれようとしていた。
――マクスウェル。
名前が指し示された今、次に必要なのは直接的な証拠だ。
窓の外には神戸港の灯が瞬いていた。
「迷宮を解く鍵は、海の向こうにある」
西村は低く呟き、決意を固めた。
- 2 脅迫状
その頃、北里の自宅には茶封筒が投げ込まれていた。
中には一枚の紙。太い黒文字でこう記されていた。
《口を閉じろ 命は一つしかない》
北里は蒼白になり、震える手で封筒を握りつぶした。
妻が心配そうに駆け寄る。
「あなた……警察に」
「いや……これは私が招いたものだ」
彼の目には恐怖と同時に、長年の沈黙を破った者の宿命が宿っていた。
- 3 記録室の動揺
翌日、「歩廊(プロムナード)記録室」には早くも噂が広がっていた。
「北里さんに脅迫状が届いたらしい」
訪れた市民たちはざわめき、遺族は顔を曇らせた。
舟橋は深いため息をつき、スタッフに言った。
「真実を語ると、必ず影が動く。だが、それを恐れて黙れば、また同じことが繰り返される」
壁に掲げられた犠牲者の名前が、静かに場内を見守っていた。
- 4 永田町の策謀
東京・永田町。官邸の一室で、与党幹部と官僚が密談していた。
「マクスウェルの名が表に出た。だが、これ以上騒ぎが大きくなれば国際問題だ」
「イギリス政府との関係もある。慎重に扱わねば」
彼らの声には危機感と同時に、保身の色が濃かった。
「司法が独走すれば、政府が矢面に立つ。西村を止める手立てはあるのか」
会議室に重苦しい沈黙が流れた。
- 5 ロンドン行きの打診
数日後、外務省の一室。
西村は外務官僚に向かって頭を下げていた。
「捜査の一環として、ロンドンでの調査が必要です」
官僚は顔をしかめた。
「検事が勝手に動くことは許されない。外交問題に発展すれば責任を取れるのか」
「責任は私が取ります。しかし、真実を放置すれば、この国は再び迷宮に迷い込む」
西村の目の奥に揺るぎない光を見た官僚は、やがて小さく頷いた。
- 6 マクスウェルの警告
同じ頃、ロンドンのホテルでマクスウェルは一通のメールを受け取っていた。
《日本から検事が渡航を計画している》
彼は画面を閉じ、笑みを浮かべた。
「来るか……迷宮の外から」
グラスに赤ワインを注ぎ、窓外の霧に霞むビッグ・ベンを見やった。
「だが、出口を探す者が必ず正しい道を見つけるとは限らない」
- 7 遺族の集い
神戸の集会所。遺族たちが円になって座り、舟橋の言葉に耳を傾けていた。
「検察がロンドンに動こうとしています。これが成功すれば、真実はさらに明らかになるでしょう」
遺族の一人が涙ながらに言った。
「でも、また誰かが犠牲になるのでは」
舟橋は頷き、静かに答えた。
「犠牲を繰り返さないために、誰かが進まねばならないのです」
- 8 出発前夜
関西国際空港近くのホテル。西村は窓辺に立ち、夜の滑走路を見つめていた。
机の上にはパスポートと分厚いファイル。
「迷宮の鍵は、海の向こうにある」
彼は独り言のように呟き、ファイルを鞄に詰め込んだ。
その瞬間、電話が鳴った。
受話器の向こうから低い声が響いた。
「……検事、あなたの行動は危険すぎる。引き返せ」
西村は無言で受話器を置いた。
- 9 空港の朝
翌朝、空港のロビーには記者の姿もあった。
「検事、本当にロンドンへ行かれるのですか?」
西村は立ち止まり、静かに答えた。
「真実を確かめるためです」
その言葉がテレビで流れると、全国の人々が息を呑んだ。
「検事が海外へ……」
「いよいよ迷宮は国際舞台に」
- 10 迷宮の彼方へ
搭乗口に向かう西村の背中を、無数の視線が見送っていた。
滑走路に並ぶ飛行機の翼が朝日に照らされ、光を放っていた。
――迷宮の出口は、まだ見えない。
だが、西村は迷うことなく歩み続けた。
彼の胸には、ただ一つの決意が宿っていた。
「終着駅は、必ず存在する」
(第九十二章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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