西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第七十六章・第七十七章

目次

第七十六章 公開の証言

 開廷十数分前から、神戸地裁の法廷前廊下は異様な熱気に包まれていた。

 黒山の記者、肩を寄せ合う遺族、警備員の鋭い視線。廊下に並べられた長椅子には入りきれず、傍聴抽選に外れた人々がモニター中継室へ誘導されていく。

 今日――社外役員の公開本尋問。

 昨日まで匿名のシルエットとして語られていた証人が、ついに姿を現すのだ。


  • 1 法廷の沈黙

 十時きっかり、扉が開いた。

 背広姿の男が、二人の警備員に挟まれて歩み入る。六十代前半、銀髪を短く刈り、顔色は蒼白。痩せた頬には深い皺が刻まれていた。

 ――証人、沢渡英司。事故当時、持株会社の社外役員を務めていた人物である。

 証人席に腰を下ろすと、法廷全体が静まり返った。誰もがその一挙手一投足を見逃すまいと息を潜めている。

 裁判長・村瀬が、重々しく口を開いた。

 「証人。あなたは偽証すれば罪に問われる立場です。真実を語ることを約束しますか」

 「……はい」

 かすれた声がマイクを震わせた。


  • 2 検事の矢

 検事・西村が立ち上がる。

 「沢渡証人。あなたは事故直前の社外役員ブリーフィングに出席し、“安全投資の繰延”と“緊急時広報テンプレ参照”の資料を了承しましたね」

 沢渡は眼鏡を外し、震える手で拭いながら答える。

 「……出席しました。了承したのも事実です」

 「なぜ了承したのですか」

 「……会社を守るため、です。株主の安定、投資家への説明……それが私の役割だと思っていました」

 「結果として、ATS設置は遅れ、百七人の命が失われました。あなたは、その責任を感じていますか」

 沢渡は小さく息を吐き、肩を落とした。

 「感じています。言葉に尽くせぬほどに」


  • 3 資料の影

 西村は、スクリーンに一枚のスライドを映し出した。

 《臨時ブリーフィング・アジェンダ(事故十日前)》

 そこには「投資繰延(案)」「リスク説明統一」「緊急時テンプレ参照」と記され、右上には例のアルファベットサインが残されていた。

 「証人、このサインに見覚えは?」

 沢渡は唇をかすかに震わせ、首を縦に振った。

 「……持株会社のアドバイザリー。外部ファンドの代表者の頭文字です」

 傍聴席がざわめいた。

 「外部ファンド……!」

 遺族席の一人が震える声で呟くのが、西村の耳にも届いた。


  • 4 弁護人の反撃

 弁護人・宮坂が立ち上がる。

 「異議あり! 証人の推測にすぎません。サインの真正も、発言の真偽も確認されていない。憶測で裁くことはできないはずです」

 裁判長は眉をひそめ、西村に視線を送った。

 「検察。裏付けはありますか」

 「はい。持株会社の入退室ログと照合した結果、事故十日前の会議室に外部ファンド代表が出入りした記録が残っております」

 宮坂がなおも反論しようとしたその瞬間、遺族席から抑えきれない声が漏れた。

 「やっぱり……外からも操られていたんだ!」

 木槌の音が場内を鎮めたが、空気はすでに騒然としていた。


  • 5 証人の告白

 西村は低く、しかし明瞭な声で最後の問いを投げかけた。

 「沢渡証人。あなたは社外役員として、“外部ファンドの意向”に沿って安全投資を先送りする決定に賛同した。――これは事実ですか」

 沢渡はしばらく目を閉じていた。

 その沈黙は長く、裁判所の時計の秒針が一つ一つ響く。

 やがて、彼は小さな声で答えた。

 「……はい。私は……賛同しました」

 遺族席から嗚咽が漏れ、記者のペンが一斉に走る。

 沢渡は目を伏せ、さらに続けた。

 「だが、私は……その決定が、これほどの惨事につながるとは、考えていなかった。いや、考えないようにしていたのです」


  • 6 裁判長の言葉

 村瀬裁判長が深く頷き、低い声で言った。

 「証人。あなたの言葉は記録され、後世まで残ります。言い訳ではなく、責任の一端として受け止めなさい」

 沢渡は小さく頷いた。

 法廷の空気は重いまま、しかしどこかで“突破口”が開いたようにも感じられた。

 これまで“内部”に向けられていた責任の矢が、初めて“外部”へ突き抜けた瞬間だった。


  • 7 廊下の声

 休廷となり、廊下に出ると記者団が一斉に群がった。

 「外部ファンドの名前は?」「社外役員の責任は制度全体に及ぶのか?」

 遺族代表の一人が声を震わせて答えた。

 「内部だけじゃなかった……。外からの都合で、大切な命が犠牲になった。これが“合理”だと言うなら、私たちは決して受け入れない」

 その言葉は瞬く間にネットに流れ、全国に拡散していった。


  • 8 夜の会議室

 夜。検察庁の小会議室。

 差分ログの解析が進んでいた。画面には、削除されたファイルの断片が浮かび上がる。

 《安全投資繰延(案)》――右下に消えかけたフッター。

 《Prepared for Advisory Meeting》――

 “Advisory Meeting”。まぎれもなく、社外ファンド向けの資料だった。

 西村は拳を握った。

 「これで、線は繋がった。役員会だけではない。社外の影が、この事故の構造を形作っていた」


  • 9 終わりなき迷宮

 窓の外、街の灯が海に滲んでいた。

 西村は椅子に深く腰を下ろし、目を閉じた。

 まだ終着駅は見えない。だが、迷宮の中心へと続く道筋が、少しずつ形を取り始めている。

 ――この裁判は、個人の過失を超え、組織の隠蔽を超え、ついには社会の構造そのものにまで及ぶのかもしれない。

 その重さを噛みしめながら、西村は静かに目を開いた。

 「次は、名前だ」

 低い声が、夜の会議室に沈んだ。

第七十七章 資本の顔

 神戸地裁を包む朝の空気は、前夜の雨を吸い込んでどこか重く、歩道の石畳にはまだ湿り気が残っていた。傍聴券を求める人々が長蛇の列をなし、その中にはリュックを背負った学生や、杖を突く老人の姿も混じっている。

 「今日は、名前が出るかもしれない」

 そんな噂が列のあちこちで囁かれていた。


  • 1 封じられた記録

 午前十時。法廷。

 裁判長・村瀬は、冒頭で証拠調べの続行を告げた。スクリーンに映し出されたのは、前夜に検察が解析を進めたサーバーの差分ログだった。

 《Prepared for Advisory Meeting》

 《Advisory Partner: L.M.》

 文字列は淡く、ところどころ欠けている。しかし、確かにアルファベット二文字が残っていた。

 検事・西村が前へ進み出た。

 「裁判長。差分復元の結果、事故十日前に開催された“アドバイザリーミーティング”向け資料の存在が確認されました。そこには外部ファンド代表者の頭文字“L.M.”が記録されております」

 傍聴席にどよめきが走る。記者の手が一斉にノートの上を走り、シャッター音が飛び交った。


  • 2 検事の追撃

 「沢渡証人」

 西村は証人席の社外役員に鋭い視線を向けた。

 「あなたは“L.M.”が誰であるか、知っていますね」

 沢渡は顔を伏せたまま、両手を固く組んだ。

 「……知っています」

 「法廷で答えてください。誰ですか」

 沢渡は震える声で応じた。

 「……ローレンス・マクスウェル。海外ファンド“マクスウェル・キャピタル”の代表です」

 その名が発せられた瞬間、場内が揺れた。遺族席から押し殺した呻き声、記者席からは走り書きの音。村瀬裁判長の木槌が場を鎮める。

 「静粛に!」

 西村はさらに畳みかけた。

 「あなたはマクスウェル氏から、何を求められましたか」

 沢渡は目を閉じ、低く答えた。

 「――安全投資は後回しにし、利益率を優先しろ。それが“国際競争力”だと」


  • 3 弁護側の反撃

 弁護人・宮坂が立ち上がり、強い口調で言った。

 「異議あり! 証人の発言は曖昧で、裏付けがありません。国際投資家の一般的な意見を“指示”と誇張しているに過ぎない」

 村瀬裁判長が西村に目を向けた。

 「検察、裏付けは」

 「はい」

 西村は新たな資料を掲げた。

 「持株会社の議事録の草稿です。ここには“L.M.の提案に基づき、ATS投資は来期以降に”との記載があり、後に削除されています」

 宮坂の表情がわずかに歪む。

 「その草稿が正式な議事録として採用された事実はない!」

 「しかし、削除された痕跡は残っている。事実を消そうとした行為そのものが、隠蔽を物語っています」

 言葉の応酬は、法廷の空気をさらに熱くした。


  • 4 遺族の叫び

 傍聴席。遺族の一人が立ち上がり、声を上げた。

 「外国の金のために、私たちの家族は死んだのか!」

 涙交じりの叫びは場内を震わせ、裁判長が再び木槌を打ち、警備員が制止する。

 しかしその言葉は誰の心にも刺さっていた。


  • 5 マクスウェルの影

 休廷後の廊下。記者団は一斉に携帯を操作し、海外ファンド“マクスウェル・キャピタル”の情報を探り始めていた。

 「ロンドン拠点の投資ファンドらしい」

 「世界中の鉄道や航空に投資しているって」

 「短期利益を重視する“ハゲタカ”って評判もある」

 噂は瞬く間に広がり、ネット上には“マクスウェル”の名前が飛び交った。


  • 6 弁護団の焦燥

 その夜。弁護団の控室。

 宮坂は額に手を当て、苦々しい表情を浮かべていた。

 「最悪だ……。国際資本の名が公に出てしまった」

 若手弁護士が問う。

 「これで会社の責任は軽くなるのでは? 外部の圧力があったと示されたのですから」

 宮坂は首を振った。

 「逆だ。社会の目は“なぜ会社は抵抗しなかったのか”に向かう。逃げ道はますます狭くなる」


  • 7 検察庁の夜

 同じ頃、検察庁の小会議室。

 西村とチームは新たな資料を検討していた。

 「ここを見てください」

 捜査官の一人が指差したのは、メールの断片。

 《L.M.: We need consistency in explanations. Focus on driver error as the simplest narrative.》

 (我々に必要なのは説明の一貫性だ。最も単純な物語――運転士の過失に集中しろ)

 西村は静かに息を吐いた。

 「これで、外部ファンドが“単音化”の源だったことが証明できる」


  • 8 内なる葛藤

 深夜。

 西村は一人庁舎を出て、冷たい夜風に当たった。

 ――“合理”という名の言葉。その裏に、犠牲にされた百七の命。

 国際資本の論理は、企業の数字を整え、投資家を安心させる。しかし、その合理が、現実の人間の命を奪うこともある。

 「合理と正義は、同じ場所には立たないのか……」

 西村は心の底で呟いた。


  • 9 再び法廷へ

 翌日。

 裁判長・村瀬は、新たな決定を読み上げた。

 「検察の請求を認め、外部ファンド代表ローレンス・マクスウェル氏に対し、参考人招致を要請します」

 場内がどよめいた。国際資本のトップを法廷に呼ぶ――前例の少ない事態だった。

 「ただし、強制力は及ばない。協力が得られるかは不明です」

 村瀬の言葉に、場内は再びざわついた。しかし西村は心の中で誓った。

 ――呼び寄せてみせる。たとえ国境を越えても。


  • 10 迷宮の果てへ

 その夜、記者クラブに速報が流れた。

 《検察、外部ファンド代表マクスウェル氏を参考人招致へ》

 国内外のメディアが一斉に反応し、ニュース番組は特集を組んだ。

 遺族の一人は記者のマイクに答えた。

 「やっと……闇の奥にいる人間に光が当たる。どんなに遠くても、声は届くんだ」

 西村は窓越しに夜景を眺めながら、拳を握った。

 終着駅の迷宮は、ついに国際資本の領域へと足を踏み入れたのだ。

 ――そこに待つのは、さらなる隠蔽か、それとも真実か。


(第七十八章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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