第七十五章 外部取締役の影
雨は上がったはずなのに、神戸地裁の石畳はいつまでも濡れて見えた。朝の空気は冷たく、背広の裏地まで湿りを含んでいる。検事・西村は庁舎の壁にもたれ、封筒のコピーをもう一度目でなぞった。
――《安全投資の今期繰延(案) ※緊急時の広報テンプレ参照》
右上の小さな英字サイン。筆圧は軽く、斜めに走っている。匿名の電話は言った。「上は、もう一段ある」。役員会の上――それは、社外から差し込まれた“指示の光”か、あるいは“影”なのか。
西村は腕時計を確かめると、吸い込まれるように法廷へ戻った。今日の審理は、前日の続き――編集履歴の証拠調べと、社外コンサル担当・谷口の再質問。そして、申請していた社外役員二名の証人採用可否が判明するはずだった。
- 1 見えない議場
午前十時。開廷。
裁判長・村瀬は、ひと呼吸置いてから判示した。
「検察の証人申請のうち、社外役員二名について――採用します。ただし安全上の配慮から、うち一名は匿名措置を施したうえで非公開の予備尋問を先行し、その後に本尋問の可否を改めて判断します」
傍聴席がざわついた。遺族席では、長く息を詰めていた人々が、ゆっくりと空気を吸い込むように目を閉じた。
弁護人・宮坂の顔は動かない。だが膝の上で組んだ指が、わずかに強張っているのが西村には見えた。
「なお、証人に対する威迫の疑いがあるため、裁判所は庁舎内外の警備を強化しています」
法廷書記官が目配せする。短い沈黙。
――威迫。やはり、あの資料庫の“誤作動”は偶然ではなかったのだ。
- 2 数字の仮面
証拠調べが続く。スクリーンには、監査室の編集履歴が再び映る。灰色の取り消し線は、淡い冬の川のように滑らかで、ところどころで急に太くなっては消えていく。そこに浮かぶ語は、ひとつずつ刃に似ていた。
《最優先》――消し。
《ATS》――残し。
《見送り》――言い換え。
《教育強化》――強調。
「ここにある“教育強化”は、当初“設備投資の代替”として添えられていた文言です」
西村が言うと、谷口が証言席から頷いた。
「依頼者――経営企画側は、“短期的に数字を守る”ための説明軸を求めていました。事故が起こる以前から、“もしもの時に使える言い方”として書式を準備させていたのです」
「あなたの会社は、その“言い方”の責任を負うつもりはないと?」
弁護人・宮坂の反対尋問。
「表現の調整は我々の責任です。ですが、何を事実として外に出すかは、我々の権限外でした」
薄い光が法廷の木肌に跳ね、遺族席の誰かが小さく鼻をすする音だけが響いた。数字は、事実を隠すための仮面にもなる。西村は胸の内で呟く。仮面の裏に、顔がある。
- 3 静かな介在
休廷。
廊下の角を曲がった先で、細身の男が立ち止まった。グレーのコート、折りたたみ傘、顔の下半分を覆う白いマスク。目だけが笑っていない。
「検事さん」
声は低いが、よく通る。
「あなたが昨夜、旧本社の裏で拾った封筒――そこにあったサイン。覚えていますか」
「忘れようがない」
「いいですね。忘れないことです」
男は、それだけ言うと、群衆の中へ消えた。
西村は、背筋に薄い汗が滲むのを感じた。今のは忠告か、それとも警告か。どちらにせよ、あのサインの主が“介在”している――その確信だけが残った。
- 4 予備尋問
午後。隣室の小法廷に、スクリーンと音声変換機が搬入された。非公開の予備尋問。証人は匿名措置、姿は黒いシルエット、声は加工される。
「あなたは事故当時、社外役員でしたね」
「……はい」
その声は、年齢も性別も判別できない。だが、語尾の迷いは少なかった。
「投資繰延の資料に“緊急時の広報テンプレ参照”という記載がある。ご存知でしたか」
「知っていました」
「それを是としたのですか」
「“短期的な混乱回避”という名目で。私は――賛成しました」
「誰が提案しました」
軽い沈黙。
「……社外から見て、合理的だと思える“説明”を、外部の投資家は欲しがります。私は、その期待に合わせることが“経営”だと……信じていました」
「“信じていた”」
西村の声は、自分でも驚くほど低かった。
「では、事故後に“運転士の過失のみ”を打ち出した方針に、あなたは――」
「異を唱えませんでした」
「理由を」
「会社を守ることが、“皆のため”だと、思い込んでいたからです」
音声に、微かな呼吸の揺れが混じった。モニターの黒いシルエットは、ほんの少し肩を落としたようにも見えた。
「社外は、“第三者の良心”であるべきだった。違いました。私は株主の都合を“良心”だと錯覚していた」
西村は、短く目を閉じた。
――この証言は、法廷を一段上へ押し上げる。だが同時に、組織の外で同じ仮面を被る者たちの存在を照らしてしまう。
- 5 見えない手
予備尋問を終えるや否や、警備課から一本の報告が裁判長室にもたらされた。
「証人の自宅周辺で、不審者。ナンバー読み取りのログは偽装。追跡は困難」
村瀬は顔を上げ、眉間を押さえた。威迫。見えない手は、相変わらず長い。
夕刻。
西村は検察庁に戻ると、機動捜査チームとともに、再度の証拠保全を申し立てた。狙いは、持株会社と社外役員向けの報告ライン――メールサーバと会議スケジュールだ。
「夜間の保全に踏み切る。裁判所の許可は?」
「仮の許可は下りた」
「じゃあ、走ろう」
古い蛍光灯の下で、捜査官たちが一斉に立ち上がる。椅子が床を擦る音が短く弾け、夜の庁舎に残響した。
- 6 欠落の連鎖
持株会社のバックアップ室。
金属ラックが並び、冷却ファンの低い唸りが床を震わせる。白手袋の指先が、ドライブをひとつずつ抜き取り、番号を読み上げる。
「二一、二二、二三……二五、二六」
「二四が――ない」
捜査官の声が、金属音に吸い込まれていく。
二四――事故の十日前の会議ログを格納しているはずのドライブ。
西村は深く息を吸い、吐いた。想定内だ。想定内でありながら、胸の内側で小さな炎がじりじりと燃え広がる。
「別ラインのクラウド複製は?」
「申請中……おい、来た。差分ログが残ってる」
スクリーンに、青白い文字列が走る。
《アクセス:外部端末/認証一時トークン》
《ダウンロード/削除フラグ変更》
《ユーザー:……》
沈黙。捜査官が顔を見合わせる。
「ユーザー名、マスクされてる」
「特権レベルの上書きだな」
天井の冷風が、耳の奥で薄く鳴った。削除は痕跡を残す。残すように設計されている。――それでも、消えた二四番が何を語るはずだったか、西村にはもう見えていた。
- 7 薄闇の面会
深夜。
検察庁の面会室に、一人の男が現れた。昼間、廊下で忠告してきたグレーのコートの男だ。警備のチェックを通り、テーブルに薄い封筒を置く。
「封は、ここで開けてください。これは“私の保身”にもなる」
中から出てきたのは、印刷されたカレンダーと、短い注釈だった。
《社外役員向けブリーフィング(臨時)/事故十日前/議題:安全投資見直し》
注釈には、その場にもう一人の“影”が居たことが記されている。肩書は、投資ファンドのアドバイザリーパートナー。名前はない。ただ、癖のあるアルファベットの頭文字が、封筒の外側に走ったサインと“形”を揃えていた。
「あなたは何者だ」
「通りすがりの、合理です」
男は微笑まずに言って、椅子から立ち上がった。
「ひとつだけ。法廷で勝つつもりなら、“正しい怒り”だけでは足りない。合理の言葉で、合理を打ち負かさないと」
扉が閉まる音は静かで、重かった。
- 8 本尋問の決定
翌朝。
村瀬裁判長は、短く結論を告げた。
「昨日の予備尋問、ならびに新たに提出された資料を踏まえ、社外役員一名の本尋問を公開法廷で行うことを決定します。期日は――」
傍聴席で、遺族の一人が胸元の遺影を抱きしめた。涙は流れない。ただ、目の奥で、長い時間が動き始める音がした。
弁護人・宮坂は立ち上がり、異議を述べた。
「証人の安全と企業価値の毀損――」
「法廷の第一の価値は、真実です」
村瀬の声は、冷えた空気の中でよく響いた。「安全への配慮は最大限払う。しかし、公開の場で語られるべきことがあります」
- 9 配線図
午後。
検察は、意思決定の配線図を提示した。スクリーンに表示されたのは、矢印と丸と四角が連なる素描だった。
現場(運行安全部)→監査室(最優先)→経営企画(言い換え)→役員会(決裁)→社外役員ブリーフィング(承認)→持株会社(投資家対応)→広報(テンプレ)→世間
「この矢印の途中で、事実は徐々に“調律”されていきました。音は同じでも、調が違う。結果、外に出た旋律は“運転士の過失のみ”という単音になったのです」
西村は棒で一点を示す。
「この“社外役員ブリーフィング”――ここで単音化が決定的になった。昨日の予備尋問は、その核心を認めました」
傍聴席の記者たちが、ペン先で一斉に紙を叩く音がした。
調律。単音。比喩は比喩に過ぎない。だが、この国の多くの人に、音楽のイメージとして届けばいい――西村はそう願った。
- 10 弁護側の最後の防壁
弁護人・宮坂は、机上の資料をきれいに揃え、丁寧に口を開いた。
「検察は、経営判断と隠蔽を混同しています。将来の不確実性に対して、企業が“説明を統一する”のは当然です。事故前の資料に“緊急時テンプレ”があったとしても、それは“危機管理”。危機管理と隠蔽は違う」
静かな論法だった。法廷は耳を傾ける。
「さらに――社外役員は“監督”であり“執行”ではない。彼らは最終決定者ではない。役割の線引きを無視した非難は、制度そのものを危うくします」
確かに、理屈は立っている。
だが、西村は一点だけを突いた。
「監督が、“単音化”に賛成した。この事実だけで、十分です。制度のために人があるのではない。人のために制度がある。監督が、監督であろうとしなかった。それがこの裁判の核心です」
法廷に、低く長い波のような沈黙が流れた。
- 11 雨上がりの階段で
閉廷後。
地裁の石段に、西村は一人立ち尽くした。空は薄く明るい。遠くで港のクレーンがゆっくり動き、水平線の上を雲の影が滑っていく。
携帯が震える。匿名番号。
「聞こえますか」機械的に歪んだ、しかしどこか疲れた声。昨日の予備尋問の証人だと、西村は直感した。
「私は、名前を出されるのを恐れているわけではありません」
「では、何を」
「正しい物語に回収されることです」
意表を突く言葉だった。西村は黙って耳を澄ませる。
「善と悪。被害者と加害者。簡潔で強い物語は、世間を救う。けれど、ときに人を**もう一度**殺すんです。私は、私の弱さを弁解したくて証言したわけではない。**弱さの形**を、記録に残さなければ、たぶん次も同じことが起きる」
西村は目を閉じた。
「法廷で、語ってください」
「はい。――語ります」
通話は切れた。石段の上に、雨の名残が細く光っている。
正しい物語。法廷は物語を嫌う。だが、記録はいつも物語に似る。西村は、その矛盾の中で、明日の準備を始めようと階段を降りた。
- 12 導火線の先
その夜。
検察の会議室に、差分ログの解析結果が届いた。マスクされていたユーザー名の一部に、わずかな崩れ。特権上書きの直前に、別システムで取得された入退室ICのIDが、外部アドバイザリーの来訪記録と同一である可能性。確度は六割。だが、線は繋がり始めた。
「本尋問の期日までに、もう一段、詰める」
西村は部下に告げる。
「匿名の“合理”にも、礼を言う余裕はないな」
誰かが冗談めかしてつぶやいた。
「礼は、判決の最後の一行で返しましょう」
笑いは起きなかった。代わりに、誰かの深い息が、夜の部屋の空気を押し広げた。
翌朝、新聞の社会面には、小さな二段組の記事が載った。
《社外役員、本尋問へ――「安全投資繰延」資料流出の経緯焦点》
見出しの下には、写真も名前もない。だが、記事の行間には、確かに一つの意思が滲んでいた。――次で終わらせるな、と。
地裁の前庭では、濡れた欅の葉が陽に透けている。
終着駅は、まだ遠い。だが、線路は確かに、真っ直ぐここへ伸びている。
西村はコートの襟を立て、背を伸ばして歩き出した。迷宮の中心は、すぐそこだ。
(第七十六章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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