西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第七十三章・第七十四章

目次

第七十三章 会議室の亡霊

 六月半ばの朝、神戸地方裁判所の周辺には、いつも以上の報道陣が詰めかけていた。

 傘を差した記者たちが玄関前に列をなし、手元の携帯端末で絶えず記事を送信している。中継車のアンテナが空へ突き立ち、まるで戦場の前線基地のようだった。

 今日の証人は、事故当時の経営企画室長――藤森雅彦。

 議事録に名を連ね、隠蔽方針を主導したとされる人物だ。

 「この男が口を開けば、裁判の帰趨は決まる」

 記者たちがそう囁き合うほどに、注目が集まっていた。


  • 法廷の緊張

 午前十時、法廷の扉が開き、痩せ型で小柄な男が入廷した。五十代後半、白髪交じりの頭髪を後ろに撫でつけ、銀縁眼鏡の奥で小さな目を光らせている。

 証人席に座る藤森の姿に、遺族席から抑えきれないざわめきが漏れた。

 裁判長・村瀬が低い声で告げる。

 「証人、偽証は罪に問われます。真実を語るように」

 「……はい」

 その声はかすれていたが、場内に響くには十分だった。


  • 検事の追及

 検事席から立ち上がった西村は、資料を手に鋭い口調で切り出した。

 「藤森証人。あなたは事故翌日の役員会議で、“運転士の過失を強調し、会社の管理責任には触れない”と発言したと記録されています。事実ですか?」

 藤森の額に汗が浮かぶ。

 「……会議の場で、そうした意見を述べたのは確かです。しかし、あれは私個人の考えではなく――」

 「誰の指示ですか?」

 西村の声が重くのしかかる。

 藤森は視線を泳がせ、答えを濁した。


  • 弁護人の介入

 ここで弁護人・宮坂が立ち上がる。

 「異議あり! 証人は当時の混乱を説明しているに過ぎません。発言の一部を切り取って責任を押し付けるのは不当です」

 裁判長は一拍置き、冷静に応じた。

 「異議は却下。証人、質問に答えなさい」

 場内の視線が藤森に集中する。

 彼は口元を強張らせ、か細い声で言った。

 「……上層部から、会社の責任を最小限にするよう求められていました」

 その一言に、遺族席から押し殺した嗚咽が漏れた。


  • 議事録の影

 西村は次の証拠を掲げた。

 「これがあなたが署名した議事録です。“ATS設置遅延は外部に出すな”と明記されている。あなたはこれを起案したのでは?」

 藤森は眼鏡を外し、震える手で額を押さえた。

 「……私が文案を作成しました。しかし、それは上からの意向に従っただけです」

 「上」とは誰か――法廷の誰もが息を呑んだ。

 「具体的な名前を答えてください。社長か、役員会か、それとも――」

 藤森は唇を噛み、沈黙した。


  • 傍聴席の叫び

 その沈黙が、逆に重く場内を圧した。

 堪えきれなくなった遺族の一人が立ち上がり、叫んだ。

 「命を何だと思っているんだ! 誰が隠せと命じたのか、はっきり言え!」

 裁判長が木槌を叩き、警備員が制止に動く。

 しかし、叫びはすでに場内全体に反響していた。


  • 弁護側の反撃

 宮坂弁護士が再び立ち上がり、声を張る。

 「裁判長、証人に過度の圧力がかかっています。匿名の告発者や曖昧な議事録に依拠した追及は危険です!」

 西村は即座に切り返した。

 「危険なのは、この沈黙の構造そのものです。証人が名を語れないのは、いまもなお“圧力”が存在するからではありませんか?」

 その言葉に、場内はざわつきを増した。


  • 裁判長の促し

 村瀬裁判長は深い皺を刻んだ額で証人を見据えた。

 「藤森証人。あなたはここで真実を述べる義務がある。沈黙は許されない」

 藤森は震える唇を開いた。

 「……役員会での最終判断は、社長の了承を得て行われました」

 その瞬間、場内が大きく揺れた。記者たちが一斉にペンを走らせ、カメラのシャッター音が連続して鳴る。


  • 廊下の記者会見

 休廷となると、廊下は記者と遺族でごった返した。

 「社長了承」という言葉は一気に見出しとして拡散し、テレビ局の速報テロップに踊った。

 遺族代表の一人は記者のマイクに向かって涙ながらに訴えた。

 「やっと名前が出た。やっと“誰が決めたのか”が明らかになったんです。けれど、まだすべてじゃない。役員会全体の責任を明らかにしてほしい」


  • 弁護団の焦燥

 弁護団の会議室は重苦しい空気に包まれていた。

 宮坂は額に手を当て、低く呟いた。

 「最悪の事態だ。社長了承……この言葉だけで、裁判は大きく傾く」

 若手弁護士が恐る恐る口を開いた。

 「次は役員全員を呼ばれる可能性があります。組織ぐるみの隠蔽が立証されれば……」

 宮坂は苦い笑みを浮かべた。

 「防波堤は崩れた。あとはどこまで被害を最小限に食い止められるかだ」


  • 藤森の帰路

 その頃、証言を終えた藤森は、裁判所を後にしていた。

 人混みを避けるように裏口から出るが、数人の記者に追われる。

 「証人! 本当に社長が了承したんですか?」

 「役員会の誰が主導したのですか?」

 藤森は答えず、雨の降りしきる街路へと歩み去った。

 肩は震え、背中は小さく縮こまっていた。まるで、自らの過去に押し潰されるように。


  • 組織の闇の奥へ

 夜。検察庁の執務室で、西村は机に広げた議事録を睨みつけていた。

 「次は役員会全体だ……」

 背後の窓に映る自分の顔は、決意と疲労の入り交じったものだった。

 この裁判は、すでに一個人の責任を超えている。企業という巨大な組織の構造そのものを暴き出す戦いに変わっていた。

 西村は静かに拳を握りしめた。

 ――真実は、必ず引きずり出す。


 裁判はさらに迷宮の奥へと進み、組織の亡霊を呼び覚まそうとしていた。

 それは、終着駅へと至る長い道のりの、ほんの一里塚に過ぎなかった。


第七十四章 背任の設計図

 朝の雨は止んだが、空は低く垂れ込め、神戸地裁の石壁は濡れたように濃い色を宿している。

 開廷を待つ廊下では、記者たちが押し黙ってノートを広げていた。前日の証言で、経営企画室長・藤森が「社長了承」を口にした。――法廷の空気が反転するには十分すぎる一言だった。

 遺族席の最前列。小さな遺影を胸に抱く年配の母親が、隣の若い女性の手を握った。

 「今日、終わりの形が見えるといいけど」

 「ううん。終わりじゃない。ここから、やっと始まるの」

 静けさを破って、法廷の扉が開く。裁判長・村瀬が席に着くと、検事・西村が立ち上がった。胸元のバインダーはいつもより重く見えた。


  •  「試算表」という刃

 「裁判長。検察は、追加の物証を申請します」

 提示されたのは薄い灰色のUSBメモリだった。ラベルには手書きで “A-17”。

 「事故の三カ月前、社内の『投資対効果検討会』で用いられた資料データです。タイトルは――」

 西村は一枚のプリントを掲げ、明瞭に読み上げた。

 「『ATS設置費用対効果試算 ― 優先順位の見直し案』」

 傍聴席がざわめく。

 プリントには、線区ごとに導入費用が並び、右端の欄に小さく「事故発生確率(社内推定)」という文字があった。さらに、その下段に赤字のメモ――《今期は見送り。代替策:運転士教育の強化(資料B)》。

 弁護人・宮坂が即座に立ち上がる。

 「異議あり! 社内の費用試算は政策判断であって、直ちに安全軽視を意味しません。しかも“事故発生確率”など、学術的裏付けのない主観的推定に過ぎない」

 西村は首を振った。

 「問題は数値の精度ではありません。安全上必須の設備が、短期の損益で後回しにされた“意思”です。そして本資料には、役員会提出の印――回覧スタンプと決裁印の履歴が残っている」

 裁判長が資料に目を落とす。角に押された小さな印影。総務の受領印、経企の確認印、最後に“城戸”の黒い陰。

 ――静かな法廷に、紙をめくる音だけが落ちた。


  •  監査の女

 「続いて、証人を喚問します。元内部監査室・水野圭子」

 証人席に現れたのは四十代半ばの女性だった。凛とした顔立ちに薄い疲労の色を漂わせ、紺のジャケットのボタンを一つ閉め直して座る。

 起立宣誓の声は低いが、揺れがない。

 西村が問いを重ねる。

 「水野証人。あなたは事故の前年、全社安全監査のプロジェクトリーダーでしたね」

 「はい」

 「その報告書案には、当該区間のATS未整備が“最優先改善項目”として記載されていた」

「事実です」

 西村は別のプリントを掲げる。

 《全社安全監査(案)—改善優先度A:ATS未設置区間の早期解消/担当:運行安全部・経企・財務》

 下部には、赤い修正線が斜めに引かれ、余白に印字されたコメントが残る――《対外説明に配慮。文言を“計画的整備を継続”へ変更》。

 「この赤字修正は誰の指示によるものですか」

 水野は口を結んだ。沈黙が十拍、二十拍と伸びる。

 「……経営企画室長――藤森氏です。『文言が強すぎる。投資家に不安を与える』と」

 傍聴席の空気がどっと揺れた。

 村瀬裁判長の視線が、弁護席にすべる。宮坂は無表情でペンを置いた。

 「もう一つ、お伺いします」

 西村はUSBの袋を軽く叩いた。

 「A-17の“事故発生確率”は、監査室の内部資料から転用されたという証言がある。監査室は、そんな推定を作りましたか」

 「いいえ。私たちは“確率”を出していません。リスクの質だけを段階(高・中・低)で示しました。確率表は、後から付けられた飾りです」

 水野の声は静かだが、言葉の輪郭が鋼のように硬い。

 遺族席の若い女性が、小さく「ありがとう」と呟いた。


  •  防波堤の崩落

 弁護側の反対尋問。

 宮坂は柔らかい笑みをつくり、言葉を置いた。

 「証人。あなたは“監査室の案が書き換えられた”と述べましたが、最終版にも“整備を継続”とはある。表現の違いに過ぎないのでは?」

 「現場は、言葉で動きます」

 水野は即答した。

 「『最優先』を『継続』に落とした時点で、優先順位の棚から降ろされた。予算は他へ回る――結果は、皆さんがご存じの通りです」

 「あなた個人の不満が入っていませんか」

 「私の不満は、ここに座る理由にはなりません。亡くなられた方々の空席が、理由です」

 宮坂の目が一瞬、泳いだ。

 弁護側の糸は切れ、証言は法廷記録へと滑り込む。防波堤は、音もなく崩れた。


  •  声なき議事録

 休廷に入ると、廊下の記者は一斉に電話を走らせた。

 「監査案の改竄、役員決裁印、ATS“優先落とし”――」

 言葉が活字になって、瞬く間に広がっていく。

 その喧噪を背に、遺族の老女が水野に頭を下げた。

 「……口にしてくれて、ありがとうね」

 水野は小さく会釈し、控室へ消えた。

 再開。証拠調べの続きで、西村は厚みのあるファイルを卓上に置いた。

 「『リスクコミュニケーション・マニュアル(草)』。社外コンサルが作成した危機対応の下書きです。第三章の“事故発生時の初期声明”をご覧ください」

 ページに印刷された定型文――

 《原因は現在調査中であり、現時点で判明している事実は運転士の速度超過のみ。その他の仮説は時期尚早》

 余白に鉛筆で走り書き――《“のみ”を残すとよい(藤)》。

 藤――藤森。

 傍聴席の空気がさらに冷たくなる。


  •  夜の弁護団

 その夜、弁護団の会議室は疲労の匂いで満ちていた。

 白い蛍光灯の下、宮坂は腕を組んで天井を見た。

 「監査案、投資対効果、コンサル草案……線が、一本になりつつある」

 若手が声を潜める。

 「どうしますか」

 「“手続上の瑕疵”に賭ける。証拠の取得過程の違法性、告発者の守秘義務違反、USBの保全性……どれか一本でも折れれば、全体の強度は落ちる」

 彼は分かっていた。法廷で勝つための論理と、社会で負け続ける現実。

 窓の外に海風が吹き込み、書類の端がぱらぱらと跳ねた。


  •  証拠保全の夜

 同じ頃、検察庁の小会議室では、捜査官が長机に段ボール箱を並べていた。

 “管理部・倉庫(旧本社)”“監査室・未製本資料”――黒マジックで書かれた箱。

 西村はゴム手袋をはめ、次々と封を切る。黄ばんだ紙の匂い。金属の留め具。

 その中から、一冊の白い厚紙ファイルが現れた。表紙にホチキス留めされた紙片には、震える文字――

 《— 社外秘/返却厳守 —》

 開くと、薄灰色のコピー――“役員会メモ(私記)”。

 日付は事故の四日前。箇条書きの一行が、細い針のように目に刺さる。

 《ATSは来期回し。今期は“理念を強調”して耐える/広報:教育強化で押し切る/何かあれば“個人の過失”の構図が最短》

 最後の行に、ごく小さく――《※社長了承 (秘)》。

 西村は息を止めた。

 ――背任の設計図だ。

 机の端でペンが転がり落ち、床で乾いた音を立てる。その音が、妙に遠くに聞こえた。


  •  消えかけたページ

 翌朝の開廷直前。

 庁舎の古い資料庫で、火災報知器が短く鳴り、すぐに止んだ。煙は見えず、焦げ臭さも薄い。係員は「誤作動です」と事務的に笑った。

 だが、搬出予定の紙箱の一つの封が、なぜか緩んでいた。

 中を改めた捜査官が顔色を変える。

 「……一冊、抜けてる」

 西村は走った。車輪のきしむ台車、石床を打つ足音。

 倉庫係の老職員が汗を拭きながら首を振る。

 「夜間の出入りは記録がないんです。警備のログも異常なしで」

 盗まれたのは、昨夜見つけた“役員会メモ(私記)”と同じ背のファイルだった。

 ――誰かが、こちらの動きを読んでいる。


・ 黙する天井

 法廷。

 西村は用意していた別の矢を射る決断をした。

 「裁判長。証人を追加します。社外コンサル会社の担当者・谷口」

 スーツの男が証人席に座る。四十代前半、慎重に言葉を選ぶ目。

 「谷口証人。『危機対応マニュアル(草)』は、だれの指示で“運転士の速度超過のみ”と限定的に書かれた?」

 「……経営企画室から、そうした趣旨の修正依頼を受けました」

 「メールは残っていますか」

 「はい。提出可能です」

 宮坂が食い下がる。

「記憶違いはありませんか。御社は結果責任を免れるために、依頼者に責任を転嫁しているのでは」

 谷口は首を横に振った。

 「私たちは、依頼された“言い方”を整えただけです。事実の取捨は、先方の判断でした」

 天井の蛍光灯が、わずかに明滅した。

 傍聴席の空気は冷たいまま、ゆっくりと沈んでいく。


  •  破線をなぞる指

 再休廷。廊下で水野が西村に声をかけた。

 「昨夜、あなたが見つけたという“私記”。――なくなったのでしょう」

 西村は驚いた目を向ける。

 「なぜ分かる」

 「改ざんの癖は、一度見れば分かるものです。無かったことにしたい人の筆圧は薄く、斜め左下に流れる。あなた、今朝から書類を握る右手が強くなっている」

 彼女は鞄から小さな封筒を取り出した。

 「監査室のサーバーに残っていた、編集履歴です。消されたはずの文言が、差分で蘇ります」

 封筒が西村の掌に落ちる。軽いのに、重い。

 「ありがとう」

 「まだ終わっていません。終わらせないでください」


  •  名指しの瞬間

 午後の法廷。

 検察は編集履歴のプリントをスクリーンに投影した。白地に淡いグレーの打ち消し線。復元された単語が、光に浮かぶ。

 《最優先》《ATS》《見送り》《広報》《個人過失》――

 点が線になる。線は、役員会の卓上へ収束していく。

 西村はゆっくりと言った。

 「裁判長。検察は、役員全員の証人喚問を請求します。決裁印の経路、修正依頼の指示系統、コンサルへの発注者。――すべて、名前で確認したい」

 村瀬裁判長は長く目を閉じ、やがて木槌を一度だけ鳴らした。

 「請求を採用します。期日を追って指定する」

 傍聴席の遺族が息を吐く。涙の音が、ここかしこで小さく弾けた。


  •  影の伝言

 夜。

 西村が庁舎を出ると、雨上がりの舗道にビルの灯が揺れた。

 ポケットの中の携帯が震える。非通知。

 出ると、機械で歪めた低い声が言った。

 『まだ、足りない。――“上”は、もう一段ある』

 「誰だ」

 『明朝、旧本社の資料庫裏手。青いフォークリフトの下。置いておく』

 通話は切れた。

 西村は、夜風に触れた額の汗を拭った。

 “上はもう一段ある”――役員会のさらに上。持株会社か、あるいは……。


  •  終章への導火線

 翌朝、指定された場所に、白い封筒がひっそりと置かれていた。

 中には一枚のコピーと、短いメモ。

 コピーは、見覚えのあるフォーマット――社外役員向け報告。日付は事故の十日前。

 《安全投資の今期繰延(案) ※緊急時の広報テンプレ参照》

 右上にはアルファベットのサイン。西村には、その筆跡に心当たりがあった。

 ――社外。役員会の外側から、芯を固める影。

 メモには、乱れた字で一行。

 《“理念”を盾に決めたのは、あの人だ》

 あの人――。

 西村は封筒を握り直した。

 遠くで救急車のサイレンが過ぎ、朝の風に、石鹸の匂いがほんのり混じる。

 迷宮は、まだ続いている。だが、その中心へ導く導火線は、もう点いてしまった。


 法廷は、現場の一人へ向けられた光を、ゆっくりと上へ上へと押し上げてきた。

 背任の設計図はほぼ組み上がり、残された空白は、ただひとつ――名前で埋められるのを待っている。

 次の開廷では、役員全員の椅子が法廷に並ぶだろう。

 そこで語られるのは、臆病な沈黙か、あるいは遅すぎた告白か。

 いずれにせよ、終着駅へ向かう列車は、もう引き返せない勾配に差しかかっていた。

(第七十五章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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