西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第六十七章・第六十八章

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第六十七章 証言の裂け目

 法廷の空気は、もはや日常のそれとはかけ離れていた。

 梅雨明けの強い陽射しが法廷の窓から斜めに差し込み、傍聴席に集まった人々の顔を白く照らし出している。六月から続いた公判も、すでに夏を迎えていた。汗をぬぐう人々の息づかいが、張り詰めた沈黙のなかに重く響いていた。

 検察席に座る若い検事が立ち上がり、証人台に呼ばれたのは、事故当時、JR西日本の運行管理システムに関与していた元社員、佐伯だった。五十代半ばの男は、背広の上着をきっちり着込みながらも、わずかに震える指先を抑えきれずにいた。

 証言台の前に進み出るその姿に、被害者遺族の視線が一斉に集まった。ざわめきは起きなかった。ただ、心臓の鼓動のように重い沈黙が広がった。

 「佐伯証人。あなたは事故当日、どのような勤務に就いていましたか」

 検事の声は、冷たく張り詰めていた。

 「……はい。私は、運行管理センターで指令補佐として……」

 佐伯の声は掠れていた。彼の眼差しは、机の木目に吸い寄せられるように下を向き、まるで傍聴席を直視することを拒んでいた。

 裁判長が軽くうなずき、証言を促す。

 佐伯は深く息を吸い、震える声で続けた。

 「当日の朝、私は……すでに、あの運転士が遅れを取り戻すために、速度を上げすぎていると警告を受けていました。しかし、システム上では……強制的に制御する権限は、私にはなかったのです」

 傍聴席が小さくどよめいた。

 「警告を受けていた?」――検事の追及が鋭く伸びる。

 「はい……。ただ、その情報は上司の判断に委ねられるもので、私は……何もできませんでした」

 声は次第に小さくなり、喉がひきつるように震えていた。

 弁護側がすぐに立ち上がり、反対尋問を求める。

 「証人、あなたが言う“警告”とは、具体的にどのようなものですか?」

 「……速度超過のアラームです。だが、その数値は一瞬のもので……通常なら、すぐに収束するはずでした」

 「では、あなたはその瞬間的な警告を“事故に直結する危険”とは認識しなかった、そういうことですね?」

 「……はい……そうです」

 裁判長が厳しく見下ろすように睨む。言葉の端々に、証人自身の防衛と恐怖がにじんでいた。

 傍聴席に座る遺族の中には、堪えきれずに涙を拭う者もいた。佐伯の曖昧な言葉が、なおさら心の傷を抉るように聞こえたのだ。

 ここで再び検事が立ち上がり、低く強い声を響かせた。

 「証人、あなたは本当に“何もできなかった”のですか? それとも、“何もしなかった”のですか?」

 その言葉が法廷に落ちた瞬間、場内は水を打ったように静まり返った。

 佐伯の額には汗がにじみ、喉が上下に大きく動く。答えを探すように視線が宙を泳ぐが、すぐには言葉が出なかった。

 「……私は……」

 か細い声が喉から漏れる。

 「私は、何も……できなかったのです」

 再び弁護人が立ち上がり、遮るように声を張った。

 「裁判長! 検察側の誘導尋問です。証人の責任を過大に問うような発言は不当です」

 「異議あり」と検事も応酬する。

 その緊迫したやりとりに、裁判長は重い木槌を打ち鳴らした。

 「静粛に! 双方、必要以上の感情的表現は慎むように」

 ――だが、この証言のやり取りこそが、裁判の核心をじわじわと浮かび上がらせていた。

 事故は単なる運転士の過失ではない。現場に警告が届いていたのに、それを適切に扱えなかった組織の構造そのものが、死者百人以上という大惨事を招いたのだ。

 佐伯は深く頭を垂れたまま、しばらく沈黙した。やがて、掠れた声でこう漏らした。

 「私は……あの日から、ずっと夢にうなされています。アラーム音と、線路を駆け抜ける車輪の音……。私はあの時、ただ机に座っていた……それだけのことが……許されるのかと……」

 場内には誰も声を発しなかった。ただ静かに、証人の独白が木壁に吸い込まれていった。

 裁判長は厳しい表情を保ちながらも、わずかに眼を伏せた。

 ――この証言の重みを、どう裁きに反映させるべきか。

 遺族にとっては、もはや言い訳にも聞こえる。だが、制度の欠陥を露呈したという点では、確かな証拠でもある。

 午後、法廷が閉じられた後、傍聴席から出てきた遺族の一人が小さくつぶやいた。

 「結局……誰も責任を取らないってことなのね」

 その言葉が、夏の熱気に満ちた廊下に虚しく響いた。

第六十八章 隠蔽の影

証人席の佐伯が退廷すると、法廷の空気は一瞬にして重苦しいものから冷たい沈黙へと変わった。

 だが、次に呼ばれた証人の名前が読み上げられた瞬間、傍聴席にいた遺族や記者たちの間に再び緊張が走った。

 「証人、田所正志。入廷してください」

 扉が開き、痩せぎすの五十代後半の男が現れた。小さな眼鏡をかけ、顔色は蒼白に近い。彼はJR西日本の元幹部で、事故直後に運行安全部の責任者を務めていた人物だった。

 ――事故の核心、すなわち「組織的隠蔽」に関わったとされる男。

 証人席に座る彼を、傍聴席から数十の鋭い視線が突き刺した。裁判長の合図で、検事が立ち上がる。

 「田所証人。あなたは事故発生直後、国土交通省に提出する第一報を部下に指示したと記録されています。その内容を覚えていますか」

 田所の唇がわずかに震えた。

 「……はい。覚えております」

 「その報告には、運転士の過失を強調する一方、会社の運行管理体制の問題には触れていませんでした。なぜですか」

 傍聴席にどよめきが広がった。

 田所は眼鏡の奥で目を細め、低く答えた。

 「……あの時は混乱しており、まずは事故原因を単純にまとめる必要があると判断しました」

 検事が畳みかける。

 「それは“判断”ですか。それとも“指示”を受けたのですか」

 田所は一瞬、喉を詰まらせた。法廷の空気が固く凝り固まる。

 「……会社としての方針に従っただけです」

 この答えに、遺族席から抑えきれない嗚咽が漏れた。

 「方針……? それで百七人が死んだのよ!」

 裁判長がすぐさま木槌を打ち、制止したが、その叫びは誰の耳にも焼き付いた。

 弁護人が反対尋問に立ち上がった。

 「証人、あなたは会社の指示に従っただけなのですね?」

 「……はい」

 「つまり、あなた個人の独断ではなかった。組織の意思決定の一環として動いた、そう理解してよろしいですか?」

 「……はい」

 巧妙に責任を薄める弁護側の論調に、検事が苛立ちを隠さず前に出た。

 「では証人、あなたに問います。事故直後、運行管理の欠陥やATSの未整備といった“会社の不利になる情報”を削除するよう命じたのは誰ですか?」

 田所の顔が引きつった。

 「……削除……? そんなことは……」

 「証人!」検事の声が鋭く響いた。

 「証言を拒むなら偽証の可能性もあります。あなたは、上層部から“会社の責任を薄めるように”との指示を受けていたのではないですか!」

 法廷の空気が爆ぜるように揺れた。記者たちが一斉にペンを走らせ、遺族席から再び嗚咽が広がる。

 田所は顔を上げることなく、唇を噛みしめて沈黙していた。

 その沈黙は、逆に真実を告げているように思えた。

 裁判長が低く問いかけた。

 「証人。あなたは裁判の場において真実を述べる義務があります。答えなさい」

 しばらくの間、時が止まったかのように法廷は静まり返った。

 やがて田所は、小さな声でこう告げた。

 「……報告書から“会社に不利な部分を外せ”と……直接言われました。上から」

 法廷がざわめきに揺れ、遺族席からは悲鳴のような声が上がった。

 「やっぱり……隠していたんだ!」

 検事が身を乗り出し、声を張り上げる。

 「その“上”とは誰を指すのですか! 社長ですか? 役員会ですか!」

 しかし、田所はそこから先を語ろうとはしなかった。目を閉じ、首を横に振るだけだった。

 「……これ以上は、申し上げられません」

 弁護人がすぐに立ち上がり、証人の安全を理由に証言を打ち切ろうとした。

 「裁判長、証人はすでに退職しており、会社との関係も絶たれています。これ以上の追及は、証人の身に危険を及ぼす可能性があります」

 検事が強く反発する。

 「危険? それこそが“隠蔽の構造”を物語っているのです!」

 場内は騒然となり、裁判長が重々しく木槌を叩いた。

 「静粛に! 本件については後日、改めて証人を呼び、詳細を確認する」

 ――だが、その場にいた誰もが理解していた。

 いまの証言こそが、この裁判の核心に迫るものであることを。

 廊下に出た遺族たちは、顔を紅潮させながら記者団に囲まれた。

 「やっぱり隠してたんだ……会社ぐるみで!」

 「運転士ひとりに罪を押し付けてたのね!」

 記者のフラッシュが連続して光り、廊下は騒然とした。

 その騒ぎを背に、田所は無言のまま帰路についた。

 彼の肩は震えており、傍らを歩く裁判所職員が小声で「大丈夫ですか」と声を掛けたが、返事はなかった。

 ――隠蔽。

 それは、もはや抽象的な概念ではなく、証言によって具体的な姿を現したのだった。

 法廷の扉が閉ざされ、夕暮れの光が長い影を床に落とす。

 この裁判は、すでに運転士個人の責任を超え、会社という巨大な組織の「闇」にまで踏み込もうとしていた。


(第六十九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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