西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第六十五章・第六十六章

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第六十五章 裁きの影

 裁判所の廊下には、重い沈黙が漂っていた。窓から射し込む午後の光が、冷たいタイルの床に斜めの影を描いている。傍聴を終えた人々は口数少なく、記者たちは手にしたメモを見つめたまま無言で歩いていた。空気の中に、どこか「終わり」を予感させる緊張があった。

 十津川警部は、控室に戻ると椅子に腰を下ろした。隣に座る亀井刑事が、まだ憤りを含んだ声で言った。

「課長、どうも納得できませんな。あの証人の証言、どこか仕組まれた匂いがする。まるで台本を読んでいるような……」

 十津川は目を細め、亀井の言葉を反芻した。彼自身も、今の証言には違和感を覚えていた。事故直後の記憶にしては妙に整っており、しかも要点が検察の筋書きに都合よく一致していたからだ。

「……確かに、自然な証言とは思えなかった。だが問題は、なぜ彼がそこまでして“あの筋書き”を補強する必要があるのかだ」

 机上には、事故当日の新聞記事のコピーが広げられていた。線路脇に散乱した車体、倒壊したマンションの壁、救助活動に走る人々。その中に、今も消えることのない惨状の匂いがあった。

 そこへ、弁護団の一人である山口弁護士が入ってきた。四十代半ば、眼鏡の奥の視線は鋭い。

「警部、やはりおかしいですね。証人の発言記録を確認しましたが、初期の調書と明らかに食い違っています。誰かが“訂正”させたのかもしれない」

「訂正、ですか」亀井が身を乗り出す。

「はい。しかも訂正後の内容は、運転士個人の過失を強調する形になっている。あの事故の背後にある、会社組織の構造的な問題から意識をそらすように――」

 十津川は静かに頷いた。

「やはりそうか。……事故を“個人の過ち”に矮小化しようとする力が働いている」

 その瞬間、彼の脳裏に過去の事件がよみがえった。鉄路の上で起きた数々の悲劇。その陰には、いつも「見えない圧力」と「隠された都合」が存在していた。

 ***

 夕刻、十津川と亀井は梅田の雑踏を歩いていた。人々のざわめきとネオンの光の中を抜け、古びた喫茶店に入る。ここは、関係者がよく情報を持ち寄る場所だった。

 奥の席には、既に一人の男が待っていた。元鉄道社員で、今は告発者として取材を受けている人物――杉浦だ。

「わざわざありがとうございます」

 杉浦は疲れたように微笑んだが、その目には覚悟の色があった。

「実は……あの証人、会社の関連会社に勤めていたんです。事故直後に“身元不詳の目撃者”として扱われましたが、実際は内部関係者だった」

 十津川は眉をひそめた。

「つまり、会社の指示で証言を“調整”した可能性がある……」

「ええ。しかも、その裏には、鉄道会社だけじゃなく、監督官庁も絡んでいると噂されています」

 亀井が低く唸った。

「監督官庁まで……。つまり、これは単なる一企業の問題じゃなく、もっと大きな構図があるってわけですな」

 杉浦は声を落とした。

「公にはできませんが、事故後に“再発防止の名目”で提出された一部の報告書も改ざんされているらしい。現場の警告を無視した経緯が消され、結果だけが強調されている」

 十津川の胸の奥で、何かが確実に繋がった。

――事故の真相は、単なる技術的ミスや運転士の不注意ではない。

――背後に、組織ぐるみの隠蔽がある。

 ***

 翌朝、裁判所での審理が再開された。法廷の空気は前日以上に張り詰め、傍聴席は緊張した面持ちの市民で埋め尽くされていた。

 その中で、弁護側が新たな証拠を提出した。事故直前の列車運行管理システムの記録。そこには、過密ダイヤと無理な運行指示が克明に残されていた。もしこれが事実なら、責任は運転士一人に押し付けられるべきではない。

 検察側が慌てて異議を唱える。だが裁判長は書類を受け取り、厳しい表情で目を通した。法廷にざわめきが走る。

 その瞬間、十津川はふと傍聴席に視線を向けた。そこに、見慣れた顔があった。以前、事故現場で泣き崩れていた遺族の一人――母親だ。彼女は涙をこらえながら、静かにうなずいていた。

 十津川の胸に、重い決意が宿った。

――この迷宮の出口を、必ず見つけ出さねばならない。犠牲者たちの声を、闇に葬らせるわけにはいかない。

 ***

 夕方、法廷を出た十津川たちは、記者たちの群れに囲まれた。

「警部、今回の新証拠は真相解明につながるんですか?」

「事故はやはり会社の責任だったのですか?」

 十津川は短く答えた。

「まだ全ては明らかになっていない。しかし、確かなことが一つある。――真実は必ず姿を現す」

 記者たちのシャッター音が響く中、十津川は夜の街へと歩き出した。背後には、なおも解けぬ迷宮の影が広がっていた。

 しかし、その影の奥には、確かに一筋の光が射していた。

第六十六章 封じられた記録

 秋の気配が街を覆い始めた頃、大阪地裁の法廷は、なおも熱を帯びていた。

 午前十時。重厚な扉が開かれると同時に、傍聴席に押し寄せる人々のざわめきが一斉に広がる。記者たちは手帳とカメラを握りしめ、遺族たちは沈痛な面持ちで席に着いた。

 その最前列に、十津川警部と亀井刑事の姿があった。彼らは刑事事件の捜査に直接の権限を持つわけではない。だが、事故の真相を追い求めてここまで足を運び続けている。その背中には、亡くなった百余名の犠牲者の影が重くのしかかっていた。

「課長……今日こそ、何かが動きそうですな」

 亀井が低い声でつぶやく。

 十津川は黙って頷いた。今日の審理には、事故直後に作成された「非公開の報告書」が証拠として提出される可能性があると聞いていた。それは、これまで隠されてきた“組織ぐるみの真実”を暴き出す鍵となるものだった。

 裁判官が入廷し、法廷に緊張が走った。

 ***

 午前の審理は、検察側の証人尋問から始まった。証言台に立ったのは、鉄道会社の元運行管理担当者だった。

「事故当日の運行指示は、通常の範囲内であり、無理なダイヤは組まれていなかったはずです」

 彼の声は淡々としていたが、その目は泳いでいた。

 弁護人がすかさず問いただす。

「通常の範囲内と言われますが、運転士に対する“遅延回復”の指示は出されていませんでしたか?」

「……遅延を取り戻すのは、運転士の判断に任せておりました」

 言葉を濁した瞬間、傍聴席からため息が漏れた。

 十津川はそのやり取りを食い入るように見つめていた。――運転士の判断に任せる、という言葉。それは一見、責任を委ねるようでありながら、実際には「暗黙の圧力」として機能する。彼らはそれを現場に押し付け続けてきたのだ。

 ***

 昼休み、十津川と亀井は裁判所近くの小さな食堂に入った。テーブルの上には、温かい味噌汁と焼き魚の定食が並ぶ。だが二人の箸はほとんど進まなかった。

「課長……結局、証人は会社を守るために言葉を選んでますな。どうにも歯切れが悪い」

「……だが、裏で誰かが証言を“管理”しているのは確かだ」

 十津川は、メモ帳に走り書きされた名前を見つめた。そこには、これまで事故に関わった関係者の名前と役職が列挙されている。

「真実にたどり着くには、“沈黙を破る者”を探すしかない」

 その時、店の入口から一人の男が入ってきた。痩せた体つきで、帽子を深く被り、周囲を気にするように席についた。ちらりと視線が合うと、男は小さく会釈した。――杉浦だった。元鉄道社員であり、内部事情を知る数少ない告発者。

「警部、やはり来てくださったんですね」

 杉浦は、声をひそめて言った。

「今朝、古い知り合いから連絡がありました。事故直後にまとめられた“第一報告書”が存在するはずだと。……それが今まで封印されてきたんです」

「第一報告書……?」

「ええ。事故直後に現場の職員が記録したもので、ダイヤの過密や安全装置の問題が詳細に書かれていたそうです。ところが数日後、それは“差し替え”られ、現場の声は抹消された」

 亀井が眉をしかめた。

「つまり、最初から隠蔽が行われていた……」

「その通りです。もしその記録が表に出れば、会社だけでなく監督官庁の責任も問われかねない」

 十津川は深く息を吐いた。迷宮の出口に近づいている。しかし、それは同時に巨大な力を敵に回すことを意味していた。

 ***

 午後の法廷。弁護団は証拠申請を行った。封印されていた「第一報告書」の存在を示す資料を提出したのだ。

 傍聴席にどよめきが広がる。検察側は即座に異議を唱えたが、裁判長は沈黙の後、こう告げた。

「本件は重大であり、事実確認のため調査を行う」

 その一言に、法廷の空気が一変した。遺族の目に涙がにじみ、記者たちのペンが一斉に走り出す。

 十津川は静かに目を閉じた。ついに、長い迷宮の奥に隠されていた“鍵”が見つかろうとしている。

 だが同時に、彼は直感していた。――この瞬間から、さらなる妨害が始まるだろう。真実を明るみに出すことを恐れる者たちが、必ず動き出す。

 法廷を出た廊下で、杉浦が震える声で言った。

「警部……私はもう後戻りできません。あの記録が出れば、私も狙われるかもしれない」

「……安心しろ。君を守る。だが覚悟してほしい。これは国家規模の闇に挑むことになる」

 杉浦は小さく頷いた。その目には恐怖と同時に、強い決意が宿っていた。

 ***

 夜。大阪駅のホームに立つ十津川は、遠ざかる列車の灯を眺めていた。

 あの事故で失われた命、その数の重さ。その背後に潜む巨大な闇。

「課長……」

 隣で亀井が言った。

「これから先、ますます危険になりますぜ」

「わかっている」

 十津川はゆっくり答えた。

「だが、ここで引き返すわけにはいかない。真実はまだ、迷宮の奥に眠っている」

 彼の視線の先で、列車の赤い尾灯が闇に消えていった。まるで、迷宮の奥へと誘う光のように――。

(第六十七章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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