第六十一章 沈黙の証言
春の気配が遠のき、神戸地裁の法廷には重苦しい空気が立ち込めていた。窓から射し込む淡い光さえ、冷たい石の壁に吸い込まれてしまうかのようであった。傍聴席には報道陣と遺族が静かに並び、その視線が一様に証言台へと注がれている。そこには、白髪交じりの中年男性がうつむき加減に立っていた。彼の名は小暮信二――JR西日本の元運転士である。
小暮は、福知山線事故の当日、別の列車を運行していた。直接の当事者ではなかったが、事故を引き起こした運転士・天野雅彦が直前に受けていた「日勤教育」の現場を間近で見ていた数少ない人物だった。裁判の進展において、彼の証言は核心に触れる可能性があると注目されていた。
検察官が質問を始めた。
「小暮さん、あなたは事故の三日前、天野運転士が日勤教育を受けている場に居合わせたと証言されていますね」
「……はい」
小暮の声は震えていた。彼の目は伏せられ、記憶を掘り起こすことに耐えられないような苦痛の色が浮かんでいる。
「そのとき、教育担当者はどのような言葉を天野運転士に投げかけていたのですか」
法廷内の空気が一瞬、凍りついた。小暮は長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……人間じゃない、と。そう言っていました。『お前のような奴は運転士じゃない、人間ですらない』と」
傍聴席の遺族が一斉に息を呑んだ。誰かが嗚咽を漏らす。重い空気が法廷全体を覆った。
弁護人が立ち上がり、すかさず反対尋問を仕掛ける。
「証人、その発言を直接耳にしたと断言できますか。あるいは、周囲の噂を記憶と混同している可能性は?」
小暮は震える手を握りしめ、必死に首を振った。
「違います。私は、聞いたのです。確かに、あの場で。天野くんは、その言葉に顔を歪めて……机の上の手を、血が出るほど握りしめていました」
その証言が終わると、法廷内には長い沈黙が落ちた。記録係の鉛筆の音さえ響くほどの静けさであった。
***
その日の法廷を終えて、十津川警部は弁護士控室に立ち寄っていた。彼の隣には亀井刑事がいた。二人は正式な捜査の立場ではなく、事故の真相を独自に追ってきた立場で裁判を見守っていたのだ。
「亀さん、やはり日勤教育が事故の背景にあるのは間違いないな」
「ええ。小暮証言で決定的になりましたね。ただ……気になるんです。なぜ彼は今まで沈黙していたんでしょう。十年も経ってから、なぜ今になって口を開いたのか」
十津川は目を細め、深くうなずいた。
「その点だ。沈黙には理由がある。彼が恐れていたもの……あるいは、守ろうとしたものだ」
二人の会話の向こうで、控室のドアが開いた。入ってきたのは事故遺族の一人、井原久美子だった。彼女は夫を事故で失い、以来ずっと裁判を傍聴してきた女性である。目には疲労の影が濃く刻まれていた。
「警部さん……小暮さんの証言、本当だと思われますか?」
十津川は真剣な眼差しを向け、短く答えた。
「私は信じます。少なくとも、彼の声には嘘はなかった」
久美子は涙をぬぐいながら頷いた。
「ようやく……夫の死がただの『ミス』で片づけられない証が見えてきた気がします。でも、それでも……会社はきっと認めないでしょうね」
彼女の言葉は、痛切な現実を突きつけていた。
***
夜、神戸市内のホテルに戻った十津川は、机の上に広げた資料を見つめていた。事故直後の内部調査報告書、運転士教育の記録、そして鉄道会社内で交わされた非公開のメール。そこには、日勤教育の苛烈さを示す断片が散見されていた。
「この資料だけでは、裁判に決定打を与えることはできないな」
十津川は独り言のように呟いた。だが、そのとき電話が鳴った。受話器を取ると、聞き覚えのある声が響いた。
「……十津川さんですか。小暮です」
証言をしたばかりの小暮信二からだった。彼の声はどこか震えていた。
「実は、まだ言えなかったことがあるんです。あのときの教育現場には……もう一人、見ていた人物がいるんです」
十津川の眉が動いた。
「もう一人?」
「ええ。私と同じように、直接その場で聞いていた同僚が。彼なら、さらに具体的な言葉を覚えているはずです。ただ……彼は今、会社を辞め、消息を絶っているんです」
受話器を握る十津川の目に、鋭い光が宿った。
「その人物の名を教えてもらえますか」
小暮はためらいながらも答えた。
「……三田村浩一。彼なら、真実を知っています」
その名が告げられた瞬間、十津川の胸に確信が生まれた。核心へと至る鍵が、ついに現れたのだ。
***
翌朝、十津川と亀井は三田村浩一の行方を追うべく動き出した。だが、彼の足取りは容易には掴めなかった。退職後、親族との連絡も絶っているという。わずかな手がかりを辿り、二人は京都の郊外にある小さな下宿に辿り着いた。
戸口を叩くと、やせ細った男が現れた。年齢よりも老けて見えるその姿に、十津川は直感した――彼こそが三田村である。
「三田村さん。私たちは福知山線事故を調べています。どうか、当時のことを教えていただきたい」
三田村は長い沈黙の後、かすれた声で答えた。
「……私はもう、関わりたくないんです。会社を敵に回せば、どうなるか分かっているでしょう」
彼の目には深い恐怖と諦めが浮かんでいた。しかし、十津川は一歩も引かなかった。
「三田村さん。あなたの証言が、亡くなった百七名の命を無駄にしない唯一の道です。沈黙は、彼らを再び殺すことになります」
その言葉に、三田村は顔を歪め、両手で頭を抱えた。そして震える声で呟いた。
「……あの日、確かに聞きました。『脱線して死ねばいい』と。教育係が、天野にそう言ったんです」
その瞬間、十津川の全身に戦慄が走った。核心は、ついに暴かれたのだ。
第六十二章 最後の証人

春雨がしとしとと街を濡らし、神戸の街路樹の緑は一層深みを増していた。だが、その静かな風景とは裏腹に、神戸地裁の内部はこれまで以上の緊張感に包まれていた。
この日、法廷には新たな証人が立つことになっていたからである。名は三田村浩一。元運転士であり、福知山線事故の加害運転士・天野雅彦が受けていた日勤教育を、直接その場で目撃していた人物であった。
十津川と亀井は、前夜まで三田村を説得していた。
京都の下宿で、三田村は長い沈黙の末に重い口を開き、「『脱線して死ねばいい』と確かに聞いた」と告げた。その言葉が脳裏から離れず、十津川は一晩中眠ることができなかった。
そして今、その言葉が法廷で公になる瞬間を迎えようとしている。
***
法廷の扉が開き、三田村がゆっくりと歩みを進めた。痩せこけた頬、うつろな眼差し。その姿は傍聴席に集まった遺族の胸を打ち、静かなざわめきが広がった。
裁判長が証人台に立つよう指示すると、三田村は小さく頷き、震える手で証言台に掴まった。
検察官が問いかける。
「三田村さん。あなたは事故の数日前、天野運転士が受けた日勤教育を現場で見たと証言されていますね」
「……はい。私はあの部屋にいました」
「その場で、教育担当者からどのような言葉が投げかけられていましたか」
法廷内が静まり返る。
三田村は唇を強く噛みしめた後、絞り出すように語った。
「……『お前のような人間は運転士ではない。脱線して死ねばいい』。そう言いました。確かに、私の耳で聞いたのです」
その言葉が響いた瞬間、傍聴席から嗚咽が漏れた。遺族たちは互いに手を握り合い、涙をこらえるように俯いた。
一方で、被告席のJR西日本関係者は硬直した表情を見せた。弁護団も一斉に身を乗り出し、記録係の鉛筆が急ぎ走る音が、やけに大きく聞こえた。
弁護人が立ち上がった。
「異議あり。証人、その言葉を確かに聞いたと主張されますが、それは十年以上前の記憶です。記憶の混同、あるいは思い込みの可能性はないのですか?」
三田村は一瞬目を閉じ、深く息を吸った。
「……私は、毎晩その言葉にうなされてきました。忘れようとしても忘れられなかったのです。思い込みではありません。あの場で、確かに聞きました」
その強い言葉に、法廷内は再び沈黙した。
十津川は傍聴席から三田村を見つめ、その姿に確かな決意を感じ取った。彼は恐怖を抱えながらも、ようやく真実を語ることを選んだのだ。
***
昼休憩、裁判所前の広場には報道陣が殺到していた。テレビカメラが並び、記者たちがマイクを片手に熱を帯びた声を張り上げる。
「証言で裁判が動いた!」、「事故の真相、ついに核心に!」――そうした見出しが午後には紙面やニュースを埋め尽くすことになるだろう。
その片隅で、十津川と亀井は遺族の井原久美子と話していた。久美子は涙で濡れたハンカチを握り締め、声を震わせていた。
「ようやく……夫が亡くなった意味が、無視されずに済む気がします。でも……まだ会社は認めないでしょうね」
十津川は静かに頷いた。
「簡単には認めないでしょう。しかし、今日の証言は大きな一歩です。真実は覆い隠せない。必ず光の下に引き出されます」
久美子は目を伏せながらも、わずかに微笑んだ。
「……ありがとうございます。警部さんのおかげで、私たちはここまで来られました」
その言葉に、十津川は胸の奥で小さな痛みを覚えた。自分は探偵でも刑事でもあるが、彼らの喪失を本当に癒すことはできない。それでも、真実を伝えることだけはできる――それが自分の使命だと改めて感じた。
***
午後の審理が再開された。
今度は弁護団が徹底的に三田村の証言を揺さぶろうとした。過去の経歴、退職理由、会社への不満、すべてを引き合いに出し、証言の信憑性を貶めようとした。
「証人、あなたは会社を辞める際、処分を受けていましたね。その不満から、事実を誇張している可能性は?」
三田村は苦しい表情を浮かべながらも、毅然と答えた。
「確かに私は処分を受けました。しかし、だからといって嘘をつく理由にはなりません。私は、あの場で聞いた言葉をそのまま話しているだけです」
揺るがない声が法廷に響いた。
十津川はその姿に、かつて鉄路を走っていた運転士としての矜持を見た。
裁判長は淡々と記録を取りながらも、表情にわずかな緊張を浮かべていた。この証言が裁判の流れを大きく変えることを理解していたのだろう。
***
審理が終わった夕刻、十津川と亀井は裁判所を後にした。小雨が降り続き、街は濡れた舗道に街灯の光を映していた。
二人は肩を並べ、しばし無言で歩いた。やがて亀井が口を開いた。
「十津川さん、これで決定的になりましたね」
「いや、まだだ。証言だけでは十分ではない。裏付けが要る。三田村の言葉を補強する証拠が」
「裏付け……」
十津川は歩みを止め、濡れた路面に映る自らの影を見つめた。
「内部文書か、記録か……何か残っているはずだ。日勤教育は組織的に行われていた。どこかに、その証がある」
彼の声には、これまで以上の確信が宿っていた。真実はここまで露わになりつつある。残るは、それを裁判で決定的なものにする証拠――最後の一片であった。
亀井は大きく息を吐き、頷いた。
「じゃあ、これからが本当の勝負ですね」
十津川は静かに頷き、雨の夜へと歩みを進めた。
その背中には、なお消えぬ闇を切り裂こうとする確かな意志が刻まれていた。
(第六十三章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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