西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第五十七章・第五十八章

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第五十七章 残響の果てに

 裁判所の重い扉が閉まると同時に、傍聴席の空気は張り詰めた。前日の証人尋問で突きつけられた決定的な矛盾――被告人のアリバイの根幹を揺るがすその証言は、もはや単なる偶然では片付けられなかった。陪審員たちの眼差しは硬く、検察も弁護も、いよいよ最終局面に向けて全力を注ぎ込もうとしていた。

 佐伯検事は席を立ち、壇上へ歩み出る。背筋は伸び、声には緊張と同時に確信の色が混じっていた。

「被告人は、事件当日の午後八時、確かに現場にいたのです。複数の証人証言と、防犯カメラの解析によって、それはもはや否定できない事実となりました。問題は、その動機と犯意にあります。」

 法廷の奥で傍聴していた新聞記者・神谷は、メモを取る手を止め、固唾をのんで佐伯を見つめた。長きにわたる審理の果てに、ようやく核心へ切り込むときが来たのだ。

 弁護側は即座に反論に立つ。弁護士の井川は、冷静さを装いつつも額には薄く汗を浮かべていた。

「検察は証拠を積み上げているつもりでしょうが、そのいずれも断片的にすぎません。証言の一致は、緻密な誘導や思い込みによって形成された可能性があります。防犯カメラに映っていた人影が被告人であると断定することも、技術的に誤りの余地がある。法の下では、疑わしきは被告人の利益に――その大原則を忘れてはなりません。」

 言葉の鋭さとは裏腹に、井川の声はわずかに震えていた。裁判の進行は、すでに彼の手を離れつつあった。

 その瞬間、証言台に呼び出された人物の名が響いた。

「次の証人、白石由紀子。」

 傍聴席がざわめく。これまで名前だけが取り沙汰されてきた、事件の「鍵」を握る女性である。静まり返った法廷に、細身の女性がゆっくりと歩み出た。彼女の表情は硬く、しかし瞳の奥には覚悟が宿っていた。

 裁判長の合図に従い、白石は証言台に立ち、短く深呼吸をした。

「私は……事件当日、被告人と一緒にいました。」

 場内がざわめく。弁護側が立ち上がろうとするよりも早く、佐伯検事が問いかける。

「一緒にいた、というのはどういう意味ですか?」

「被告人は……確かに現場にいました。私は彼を、現場の廊下で見かけたんです。あのとき、彼の手には……血のついた布が握られていました。」

 その瞬間、空気が凍りついた。陪審員の数人が身を乗り出し、傍聴席では抑えきれぬ声が漏れた。

 井川弁護士が声を荒げる。

「異議あり! その証言は事実に基づかない主観的な印象にすぎません!」

 だが裁判長は冷静に答えた。

「異議を却下します。証言は陪審員が判断するものです。」

 神谷は胸の奥で呟いた。――ついに出た、決定的な言葉。

 さらに佐伯は追撃する。

「あなたはなぜ今になって、この証言をするのですか?」

 白石は視線を落とし、しばし沈黙した。だが、すぐに顔を上げると、張り詰めた声で言った。

「私は……恐れていたのです。もし真実を話せば、私自身が巻き込まれるかもしれないと。でも、もう隠してはいけないと思いました。」

 その言葉に込められた震えと決意は、法廷全体を圧倒した。

 井川は必死に食い下がる。

「彼女は動揺している! 証言の信憑性は極めて低い!」

 だが、陪審員の顔には、もはや疑念よりも「確信」の色が濃く表れていた。

 裁判長が木槌を打ち、証人尋問を終える。

「これにて本日の審理を終了する。次回は、最終弁論を行う。」

 扉が開かれ、人々がざわめきながら退出していく中、神谷はその場に残った。白石の証言が、単なる事実の告白以上の意味を持つことを直感していた。これは事件の核心だけでなく、背後に潜む闇の構造をも暴き出す予兆だったのだ。

 ――真実はまだ奥底に眠っている。だが、確実に表へ押し出されつつある。

 神谷は震える指でノートを閉じ、胸の内で決意を固めた。

「残響の果てに、必ず辿り着いてみせる。」

 法廷の空気は静まり返り、しかし誰もがその沈黙の向こうに、嵐のような展開を予感していた。

 第五十八章 審判の扉

翌朝、裁判所の前には、開廷を待ちわびる人々が群れをなしていた。報道陣のカメラが列を成し、マイクを片手にしたリポーターたちが興奮気味に現場の様子を伝えている。昨日の証言――白石由紀子が法廷で放った「血のついた布」という言葉は、瞬く間に世間の耳目を集め、裁判は単なる事件の審理を超えて社会全体を揺るがす大きな波紋を広げていた。

 重い扉の向こう、法廷の空気はすでに異様な緊張に包まれていた。陪審員たちの顔は引き締まり、検察側の佐伯検事は、書類を整えながらも視線を一点に据えている。その表情には、決して揺るがぬ勝算の色が浮かんでいた。

 一方、弁護人の井川は疲弊した様子を隠せなかった。昨夜からの徹夜の準備が顔色に表れ、ネクタイの結び目すらどこか緩んでいる。だが、その瞳には未だ消えていない光があった。最後まで戦うという執念の火である。

 静寂の中、裁判長が入廷し、最終弁論が始まる合図が下された。

 佐伯検事が立ち上がり、重々しく口を開く。

「諸君。我々がいま扱っているのは、単なる殺人事件ではありません。これは、社会の根幹を揺るがす重大犯罪です。被告人はその日、現場にいた。それは複数の証人と映像記録で裏付けられております。そして決定的なのは、白石由紀子証人の証言――彼女は被告人が血の付いた布を手にしていたと述べました。これが何を意味するか、もはや説明するまでもないでしょう。」

 場内にざわめきが走る。佐伯の声は鋭さを増し、容赦なく陪審員の胸を打つ。

「動機も明らかです。被告人は長年の不満と憎悪を抱え、それがついに爆発した。事件は突発的ではなく、計画的であったと考えるのが自然です。正義はただひとつ。被告人に有罪判決を下すこと。それが社会秩序を守り、真に犠牲者の無念を晴らす唯一の道なのです!」

 最後の言葉を力強く締めくくると、陪審員たちは息を呑み、裁判長もわずかに頷いた。その空気は、被告人にとって圧倒的に不利な流れを生み出していた。

 だが、ここからが井川の出番であった。

「弁護側、最終弁論に入ります。」

 彼は深く一礼し、壇上に立った。

「諸君。いま検察は力強く語りました。しかし、冷静に考えていただきたい。証拠は本当に揺るぎないものでしょうか? 確かに防犯カメラには人影が映っていました。しかし、それが被告人本人であると断定できる科学的根拠はない。証人たちの証言も、時間が経つにつれ記憶が混濁し、互いに影響を及ぼし合った可能性があります。」

 井川は言葉を選びながら、一歩前に進んだ。

「そして、白石由紀子証人の証言――確かに衝撃的でした。しかし、皆さんは考えなかったでしょうか? なぜ彼女はこれまで沈黙していたのか。なぜ事件から長い時を経て、突然証言を決意したのか。その背後に圧力や取引が存在していないと言えるでしょうか?」

 法廷の空気が再び揺らいだ。井川はその隙を逃さず、声を強めた。

「法とは、感情や印象ではなく、冷厳な証拠と論理の上に築かれるべきものです。疑わしきは被告人の利益に。この原則を忘れれば、私たちが守ってきた法の精神は崩れ去ります!」

 傍聴席から小さな拍手が漏れた。裁判長が木槌を打って制止するが、その音さえも熱気を止めるには弱かった。

 ――しかし、井川自身も分かっていた。状況は依然として苦しい。陪審員たちの心には、すでに白石の証言が深く刻まれている。

 そのときだった。

「裁判長、発言の機会をいただきたい。」

 傍聴席の一角から、立ち上がった男の声が響いた。人々が一斉に振り向く。そこに立っていたのは、神谷だった。

 記者である彼は、これまで黙って事実を記録してきた。しかし、ついに堪えきれなくなったのだ。彼が手にしていたのは、昨夜入手したばかりの新たな証拠――一枚の古びた写真と、録音データが収められた小さなレコーダーだった。

 裁判長が厳しい表情で問う。

「あなたは誰ですか? ここは傍聴席です。軽々に発言を許すことはできません。」

 神谷は深く頭を下げ、震える声で叫んだ。

「私は記者です。しかし、この証拠だけは黙っていられません。これを提出しなければ、この裁判は真実に辿り着けない!」

 その必死さに押され、裁判長は短く考え込んだ末に言った。

「……証拠の提出を許可します。ただし、即座に真偽を確認する必要がある。」

 検察と弁護双方が驚きの眼差しを交わす中、神谷は証拠を法廷中央へ差し出した。

 写真には、事件当夜、現場付近を歩く複数の人物の姿が写っていた。その中には、白石由紀子と思しき女性の姿と、さらにもうひとり――これまで名前すら挙がっていなかった、第三の人物が鮮明に写っていた。

 そして録音データが流される。そこには白石の声が残されていた。

《……あの日、私は一人じゃなかった。彼と一緒にいた。彼に言われたの、『全部、彼のせいにすればいい』って……》

 法廷が揺れた。白石の顔は蒼白に染まり、言葉を失った。

 佐伯検事は蒼ざめ、弁護人の井川は驚愕に目を見開いた。すべての視線が白石に注がれる。彼女は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。

「違う……私は……守ろうとしただけ……!」

 だが、その声はもはや誰の耳にも届かなかった。

 裁判長が重々しく口を開いた。

「本件は重大な新証拠が提出された。これにより、証言の信用性は根底から覆されたと考えざるを得ない。本日の審理はここで打ち切り、証拠の精査を行う。」

 木槌が高らかに打ち鳴らされる。

 神谷は深く息を吐き、胸の奥で呟いた。

――真実は、まだ完全には明らかになっていない。だが、扉は開いた。

 嵐のようなざわめきの中、法廷の天井に響くその余韻は、まさに「審判の扉」が開かれる瞬間を告げていた。

(第五十九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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