西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第五十三章・第五十四章

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第五十三章 闇の中の証言

 東京地方裁判所の法廷は、冬の午後の鈍色の光に包まれていた。傍聴席はすでに人で埋め尽くされ、報道陣のフラッシュが消灯を促されるたびに小さくざわめいた。裁判官の木槌が打たれ、空気が一瞬で張り詰める。

 弁護人席に座る高梨は、額にかすかな汗をにじませながら証人席を見つめていた。そこに立ったのは、これまで沈黙を貫いてきた元運転士の同僚、石原だった。事故後、彼は公の場にほとんど姿を見せず、メディアからも逃れるようにしていた人物である。その彼が、ついに法廷に立った。

 「石原証人、宣誓をお願いします」

 裁判官の声に促され、彼はぎこちない動作で起立し、震える声で誓いの言葉を述べた。その瞬間、傍聴席の空気がわずかに揺れる。人々が息を呑んだのだ。長らく待ち望まれた証言が始まろうとしていた。

 検察官がゆっくりと前に進み、問いかける。

 「証人、あなたは事故のあった当日、運転士と会話を交わしたと供述されていますね」

 石原はしばし沈黙した。両手は膝の上で強張り、目は泳ぐ。高梨は心の中で小さく舌打ちした。このままでは証言が曖昧に終わる。だが、次の瞬間、石原は深呼吸し、はっきりとした声で言った。

 「……彼は、直前まで何度も『これではダイヤが守れない』と繰り返していました。焦っていたんです。会社からの圧力が、彼を追い詰めていました」

 法廷がざわつく。記者たちのペンが一斉に走り、裁判官が静粛を命じる。高梨は椅子の背にもたれながら目を閉じ、その言葉を反芻した。やはり核心はそこにある。過重な労働と無理なダイヤ設定、そして会社の管理体制が運転士を極限へと追いやったのだ。

 検察官がさらに問いを重ねる。

 「では、証人。会社から具体的にどのような指導、あるいは叱責が行われていたのですか?」

 石原は顔をしかめ、声を低めた。

 「遅延を出せば即座に報告書。ミスをすれば教育訓練と称した再試験。彼はそれに何度も呼び出されていました。……人間扱いではありませんでした」

 その言葉には怒りと悔しさが混じっていた。傍聴席からすすり泣きが漏れる。亡くなった遺族の一人が涙をぬぐう姿を見て、高梨の胸に重いものがのしかかる。

 弁護人として、彼は被告となった会社役員を弁護する立場にある。だが人間として、この証言を無視することはできなかった。高梨は、自分が二つの矛盾する道の間に立たされていることを痛感する。

 やがて検察官の尋問が終わり、弁護側に反対尋問の機会が与えられる。高梨は深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がった。

 「石原証人、あなたの証言は極めて重要です。ただ、私は確認しておきたい。運転士が焦りを口にしていたのは事実でしょう。しかし、あなた自身、同じ状況で運転していた時、同様の事故を起こす危険はなかったと言い切れますか?」

 傍聴席が一斉に息を呑む。挑発にも似た問いだった。石原の目が大きく見開かれ、数秒の沈黙の後、彼は小さく首を振った。

 「……分かりません。ただ、彼は特に追い詰められていた。それだけは確かです」

 高梨は頷き、再び椅子に腰を下ろした。自分が何をしているのか分からなくなる。弁護人としては証人の証言に揺さぶりをかけなければならない。だが、彼の心はすでに、真実を解き明かす方向へ傾きつつあった。

 その日の審理が終わり、法廷を出た高梨は、灰色の空を仰いだ。吐く息が白く、冬の風が頬を刺す。歩道には記者が群がり、カメラが一斉に向けられる。

 「高梨先生! 今日の証言をどう受け止めていますか?」

 「会社の責任を認める方向に進むのでは?」

 問いかけに答えることなく、高梨は人ごみを抜け出し、車に乗り込んだ。窓の外に広がる東京の街並みは、どこか幻のように揺らいで見える。

 夜遅く、事務所に戻った高梨は机に広げた資料を見つめた。過労、叱責、事故直前の言動──積み上げられた断片は、一つの像を結びつつある。事故は単なる運転士のミスではなく、構造的な問題が生んだ必然だった。

 しかし、その像を明らかにすれば、彼が守るべき依頼人を直接傷つけることになる。高梨は拳を握りしめ、目を閉じた。

 「……真実を語るのか。それとも、弁護人としての職務を全うするのか」

 葛藤は深く、出口は見えなかった。ただ一つだけ確かなのは、法廷の闇の中で語られた証言が、確実に裁判の流れを変え始めているということだった。


 

第五十四章 弁護人の十字路

 翌朝の東京地裁周辺には、すでに報道陣が詰めかけていた。冬空は薄曇りで、吐く息が白く浮かび上がる。高梨は黒いコートの襟を立て、重い足取りで庁舎に入った。昨日の石原証言が社会に与えた衝撃は大きく、朝刊各紙は一斉に一面で取り上げていた。

 「追い詰められた運転士──同僚が証言」

 「会社の管理体制に疑問符」

 見出しが並ぶ新聞を目にするたびに、高梨の胸は締めつけられるようだった。

 弁護人として、彼は被告である会社役員を守る義務を負っている。しかし昨日の証言は、会社の責任を否応なく浮かび上がらせるものだった。守るべき対象と、明らかにすべき真実。その間で、彼の心は揺れ続けていた。


 法廷が始まった。

 裁判官が入廷し、傍聴席のざわめきが一瞬で鎮まる。検察官は淡々とした調子で冒頭陳述を続け、昨日の証言を補強するための資料を提示した。事故前数年間の内部文書。そこには「遅延防止のため厳格な管理を徹底すること」「運転士の再教育プログラム強化」といった指示が並んでいた。

 「これらの文書は、会社が運転士に過度の負担を強いていたことを裏付けるものであります」

 検察官の言葉に、法廷は再びざわつく。高梨は冷ややかな視線を傍聴席から浴びながら、机上のペンを指先で転がしていた。

 ──これでは防御の余地はない。

 心の中でそう呟きつつも、立ち上がらねばならなかった。

 「裁判長、弁護人として一点申し上げたい」

 高梨の声は低く、しかし響き渡った。

 「提示された文書は確かに存在します。しかし、それは安全運行を目的としたものであり、直接的に事故を誘発した証拠とは言えません。運転士個人の判断、技量、その瞬間の心理状態もまた無視できない要素です」

 検察官がすぐに反論する。

 「しかし、石原証人の証言と照らし合わせれば、これらの文書が実際には圧力として作用したことは明らかです。会社の制度そのものが事故の温床となったのです」

 法廷の空気は一層張り詰めた。


 午後の審理に入ると、今度は遺族の証人尋問が行われた。法廷に現れたのは、事故で息子を亡くした母親だった。やつれた顔に深い皺を刻み、静かに証言台に立つ。

 「……あの日、息子は就職面接に向かう途中でした。楽しみにしていたんです。電車に乗ればすぐに着く、と笑って家を出ました。それが、最後になりました」

 言葉が詰まり、彼女はハンカチで目を覆った。傍聴席から嗚咽が漏れ、裁判官が静粛を促す。高梨もまた、胸の奥が痛むのを感じていた。

 「会社は安全よりも時間を優先していたのではないですか。遅れたら叱責される。そんな環境で、運転士が冷静でいられるはずがありません」

 母親の声は涙に震えていたが、法廷にいる誰もがその重さを感じ取っていた。高梨は視線を落とし、言葉を失った。彼が反論の言葉を口にすれば、それは遺族の心をさらに踏みにじることになる。しかし沈黙すれば、弁護人としての役目を放棄することになる。


 審理が終わり、裁判官が退廷を告げると同時に、高梨は深く息を吐いた。傍聴席から退く人々の波の中で、彼はしばらく席を立てなかった。やがて、後ろから声がかかった。

 「先生……今日は、ありがとうございました」

 振り返ると、依頼人である会社役員が立っていた。五十代後半、痩せた顔に疲労の色を浮かべている。

 「厳しい証言ばかりですが……先生を信じています」

 その言葉に、高梨は胸がさらに重くなるのを覚えた。信じられるほど、自分は真実に忠実でいられるのか。


 その夜。事務所に戻った高梨は、窓の外の街灯を眺めながら机に頬杖をついた。机上には、事故に関する膨大な資料が積まれている。内部文書、証言記録、事故調査報告書……。

 一枚一枚をめくるたびに、会社の責任の影は濃くなる。だが、依頼人を守るためには、それを「無関係」とする道を探さねばならない。

 高梨はメモ帳に二つの言葉を書きつけた。

 「弁護」──依頼人を守るために。

 「真実」──被害者と社会のために。

 その二つの言葉の間に、深い溝が口を開けていた。

 時計の針は深夜を指していた。外では冷たい雨が降り始めている。窓ガラスに打ちつける雨音を聞きながら、高梨は頭を抱えた。

 ──自分は、どちらの道を選ぶのか。

 その問いは夜を徹して彼を苦しめ、答えを出すことを許さなかった。


(第五十五章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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