西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第四十九章・第五十章

目次

第四十九章 決定的証言

 傍聴席の熱気は、連日の審理を経てなお冷めることを知らなかった。

 福知山線脱線事故を巡る裁判は、ついに核心部分へと踏み込もうとしていた。検察はこれまで膨大な資料を積み上げ、企業体質の欠陥、そして個々の社員たちの証言を織り交ぜながら被告席に座る元幹部の責任を追及してきた。だが決定的な「一手」はまだ示されていない。観客も、報道陣も、その瞬間を待ちわびていた。

 その日、法廷に呼び出されたのは、かつてJR西日本に勤めていた元社員、佐伯修一だった。五十代後半、やや痩せた体躯に深い皺が刻まれた顔。彼は定年間際に辞職し、今は地方で静かな暮らしを送っているという。だが、彼の証言は裁判の趨勢を大きく変える可能性を孕んでいた。

 証言台に立った佐伯は、背筋を伸ばしたまま深く一礼した。その姿勢に、長年の鉄道マンとしての矜持が見て取れた。

「佐伯さん、あなたは当時、日勤教育の実態をご存じだったと伺っています」

 検察官の声は抑制されつつも鋭い。

 傍聴席が一瞬ざわめいた。日勤教育――それは事故後に広く知られることとなった企業文化の象徴であり、社員に対する過剰な懲罰的指導の代名詞だった。

「はい」

 佐伯の声は震えていたが、その目は逃げていなかった。

「私は運転士や車掌に対する日勤教育の指導担当を命じられたこともありました。上からの指示で、ひたすら『反省文』を書かせ、理由を問い詰め、業務から遠ざけ……。事故防止ではなく、恐怖による統制が目的であると感じていました」

 法廷が水を打ったように静まり返る。記者たちのペンが一斉に走り始めた。

「では、会社はその危険性を認識していたと?」

「もちろんです。現場からは何度も意見が上がっていました。『こんな教育は士気を下げるだけだ』『運転士の集中力を奪う』と。ですが……改善されることはありませんでした」

 その瞬間、被告席の元幹部が小さく首を振った。だが佐伯の表情は微動だにしない。

 検察官はさらに一枚の資料を提示した。それは十数年前に作成された内部文書で、過剰な指導が「精神的圧迫となり業務に支障を来す可能性がある」と記されていた。作成者の欄には、佐伯修一の名前があった。

「これは、あなたが当時、上層部に提出した報告書ですね?」

「……はい」

「しかしこの報告は握りつぶされた。そうではありませんか」

「その通りです。私は何度も同じ意見を述べましたが、返ってきたのは『余計なことをするな』という叱責だけでした」

 傍聴席から抑えきれないどよめきが漏れた。裁判長が「静粛に」と木槌を打つ。

 佐伯は一呼吸おき、続けた。

「私は鉄道が好きでした。安全のために働いていると思ってきました。しかし、現場の声を無視し、数字と効率ばかりを優先する会社の姿勢には、心底失望しました。あの日の事故は……避けられたかもしれない。そう考えると、悔しくてたまりません」

 その言葉には、会場にいる誰もが胸を突かれた。検察官は頷き、ゆっくりと質問を締めくくる。

「以上です」

 弁護側は必死に反証を試みた。

「あなたはもう十年以上も前に会社を辞めている。記憶に曖昧な部分があるのでは?」

「いいえ。忘れようとしても忘れられないのです。あの時感じた無力感も、上からの圧力も、昨日のことのように覚えています」

 その確信に満ちた声は、弁護人の追及をも呑み込んでしまう。弁護側は次第に言葉を失い、最後には「質問は以上です」とつぶやくしかなかった。

 佐伯が証言台を降りるとき、彼の姿を見つめる傍聴席の目には、尊敬と同情が入り混じった光が宿っていた。

 休廷を告げる鐘が鳴り、人々は席を立ち始める。だが記者席の片隅に座る加納刑事の目は、鋭く前を見据えていた。彼はこれまで傍聴人として裁判を追っていたが、佐伯の証言は単なる「企業責任」を超え、何かもっと深い構造的な闇を示していると直感した。

 裁判所を出ると、冬の冷たい風が頬を打つ。加納は手帳を取り出し、走り書きを始めた。

「内部文書、握りつぶし、現場の声……」

 彼の頭の中で線と線が繋がり始める。それは単なる企業体質の問題ではない。人間同士の複雑な利害、そして沈黙の連鎖が、あの大惨事へと至ったのではないか。

 歩道橋の上で足を止めた加納は、眼下に広がる鉄路を見下ろした。列車は規則正しく走り続けている。だがその静かな風景の裏に、かつての悲劇と、それを覆い隠そうとする力が潜んでいるのだ。

「まだ終わっていない……」

 誰にともなく呟いた声は、冬空に吸い込まれていった。

 ――裁判は佳境を迎えている。だが真の「迷宮」の出口は、まだ遥か先に隠されていた。


第五十章 沈黙の証人

 冬の午後、法廷に射し込む陽光は淡く、まるで長い審理の終盤を告げるかのようだった。

 福知山線脱線事故を巡る裁判は、いよいよ終局に近づいている。連日の審理で、検察と弁護側の攻防は極限に達していた。だが決定的な「証拠」や「証人」がまだ姿を見せていない。その空白を埋める存在が、今日ついに法廷に呼び出されることになっていた。

 裁判長が静かに告げる。

「証人、入廷を」

 扉が開き、現れたのは小柄な女性だった。五十歳前後、やや猫背で、地味な色合いのコートを羽織っている。彼女の名は田村美沙子。かつてJR西日本の総務部で働き、事故当時は人事に関わる文書の管理を担当していた。

 傍聴席から小さなどよめきが起きる。記者たちは一斉にカメラを構え、ペンを走らせる。田村の存在は、これまでほとんど表に出てこなかった。だが関係者の間では「沈黙の証人」と呼ばれ、その証言の重みが噂されていた。

 証言台に立った彼女は、緊張に唇を噛みながらも、しっかりと裁判長の目を見据えていた。

「田村さん、あなたは事故当時、どのような業務を?」

 検察官が問いかける。

「……人事関連の記録、懲戒処分や指導に関する書類の管理です」

 声は小さいが、はっきりとした口調だった。

「その中で、日勤教育に関する文書も含まれていましたか?」

「はい。数多くの記録が残されていました」

 傍聴席がざわめき、裁判長が「静粛に」と一喝する。

 検察官は一枚の書類を提示した。それは、事故の数年前に作成された「指導計画書」で、社員に対する日勤教育の方針が詳細に記されている。そこには「反省文十枚」「個別面談の繰り返し」「運転業務からの長期離脱」といった具体的な方法が列挙されていた。

「この文書はあなたが保管していたものですね?」

「はい」

「そして、これは……上層部の承認印が押されている」

 法廷の空気が一変する。押印された署名の一つは、被告席に座る元幹部の名前だった。

 田村は、わずかに震える手を膝の上で組み合わせた。

「私は、これが事故につながるかもしれないと感じていました。でも、声を上げる勇気がありませんでした。もし反対すれば、私自身が排除される。そう思って……」

 彼女の声は涙で詰まった。傍聴席の一角で、被害者遺族の一人がハンカチを目元に押し当てる。

 検察官は畳みかけるように問いかけた。

「つまり、会社はリスクを承知の上で、この教育方針を維持していたのですね?」

「……はい」

 その答えが響いた瞬間、弁護人が立ち上がった。

「異議あり! 証人は感情に流されている。記憶が正確である保証はない」

 裁判長がしばし沈黙した後、厳しい声で告げる。

「異議は却下します。証言を続けてください」

 田村は小さく息を吐き、言葉を紡いだ。

「事故後、私はこの文書を隠すよう命じられました。『外に出れば会社が持たない』と。私は……その指示に従ってしまったのです。今日までずっと、そのことを悔やんで生きてきました」

 その告白は、法廷を凍りつかせた。被告席の元幹部は表情を失い、目を伏せたまま動かない。

 加納刑事は傍聴席で固唾を呑んでいた。田村の証言は、企業体質の闇を象徴していた。安全よりも保身、真実よりも沈黙。その構図が、事故の背後に横たわっていることを、彼は改めて確信した。

 弁護側の反対尋問は必死だった。

「あなたは上司から命じられたと言うが、具体的に誰が命じたのか?」

「……」

「答えてください!」

「名前は言えません」

 田村は強張った表情で首を振った。その沈黙が、逆に強烈な印象を残した。裁判長が「証人、証言を拒否する理由がありますか」と尋ねると、彼女は唇を噛み、涙をこらえるようにして答えた。

「恐ろしいのです。今でも……」

 その言葉に、傍聴席から息を呑む音が広がった。誰かが今も彼女を縛り続けている。その影は法廷を越え、社会全体を覆っているのかもしれなかった。

 休廷の鐘が鳴った。人々はざわめきながら退廷するが、その声はどこか抑えられていた。まるで目に見えない圧力が、法廷全体を覆っているかのように。

 廊下で加納刑事は立ち止まり、窓越しに冬空を見上げた。灰色の雲がゆっくりと流れていく。

「まだ真実は隠されている……」

 彼の呟きは、自身への誓いのようでもあった。

 ――沈黙を破る者が現れるまで、この迷宮は出口を示さない。だがその日が、確実に近づいていることを、加納は直感していた。

(第五十一章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次