西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第四十七章・第四十八章

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第四十七章 影の狭間

 法廷の緊張は依然として続いていた。証人席に座る者たちの証言は、時に事実を鮮明にし、時に霧を濃くする。裁判官の冷ややかな声が室内に響くたび、記録係のペン先が紙を走る音が、まるで裁きの鐘のように重く刻まれていった。

 梶原は被告席から視線を上げた。彼の顔は痩せ、蒼白な肌に深い皺が刻まれていた。裁判が始まって以来、何度も繰り返される証言と反証。彼の弁護士である村上は冷静を装っていたが、内心では勝機を掴めぬ焦りを隠しきれずにいた。

 一方、検察側の江田は余裕を漂わせていた。証拠の積み上げは揺るぎなく、被告人の責任を追及する姿勢は一貫している。だが村上は、その背後に隠された「見えない手」を感じ取っていた。単なる過失や怠慢の問題ではない。鉄道会社、行政、そして政界の一部までもが複雑に絡み合う構図が、この裁判の奥底に潜んでいることを、彼は確信していた。

 休廷となり、廊下に出た村上の耳に、遠くから控えめな声が届いた。

「先生……少し、お時間をいただけますか」

 声の主は、鉄道会社の元社員を名乗る中年の男だった。眼鏡の奥に潜む視線は怯えながらも鋭さを失っていない。

 二人は人目を避けて、法廷近くの小さな喫茶室へ入った。

「私は……以前、車両整備の部署におりました。事故の半年前、ATS(自動列車停止装置)の一部で不具合が発見されていたのです」

 男は震える手でカップを持ち上げた。

「ですが、その報告は上層部で握り潰されました。理由は、コスト削減と納期の問題です」

 村上の眉がわずかに動いた。これまでに示されてきた証拠の多くは「運転士の判断ミス」に集約されていた。しかし今、この証言は全てを覆す可能性を持っている。

「証言していただけますか?」

 村上の問いに、男は一瞬ためらい、そして首を横に振った。

「……できません。私はすでに退職していますし、あの会社に逆らえば、家族にも影響が及ぶ。ですが……先生にこれを」

 男は封筒を差し出した。中にはコピーされた内部文書が数枚。そこには「不具合報告書」と「対応延期決裁」の文字がはっきりと記されていた。村上はそれを手に取ると、冷たい重みを掌に感じた。

 翌日、法廷は再び動き出した。村上は立ち上がり、証拠提出を求めた。

「こちらは、鉄道会社内部で作成された不具合報告書であります。事故発生前に危険性が指摘されていたにも関わらず、上層部の判断により修繕は見送られました」

 傍聴席がざわめいた。裁判長は厳しい声で静粛を命じ、検察側に意見を求めた。江田は一瞬だけ口元を固く結び、そして低い声で答えた。

「……その文書の真正性については、確認が必要です」

 だが村上は怯まなかった。

「真正性の検証はもちろん必要です。しかし、ここに記されている事実がもし認められるならば、被告人に全責任を負わせることは不当です。過失は組織全体の中に分散されるべきであります」

 裁判長は腕を組み、長い沈黙の後に言葉を発した。

「この件については次回までに証拠調べを行う。検察、弁護双方に準備を求める」

 その瞬間、梶原の目にかすかな光が宿った。長い闇の中で初めて見えた、救いの兆しだった。

 閉廷後、村上は再び廊下を歩いていた。だが背後から忍び寄る視線を感じる。振り返ると、スーツ姿の男たちがこちらを一瞬見て、すぐに立ち去った。鉄道会社の関係者か、それとも政治の影か。

 村上は深く息を吐き、封筒の中身を思い出した。あの証拠が真実を照らすのか、それともさらなる迷宮を生むのか。

 外に出ると、夕陽が裁判所の壁を赤く染めていた。長く伸びた影は、まるで法廷の奥底に潜む「影の狭間」そのものだった。

 

第四十八章 消された記録

 東京地方裁判所の法廷は、張り詰めた空気の中で始まった。

 村上弁護士は、前回の審理で提出した内部文書のコピーを、証拠として正式に認めさせるための準備を整えていた。だが彼の机上には、深夜までかけて読み込んだ判例や過去の裁判資料が無造作に積まれている。その疲労の色は隠せなかった。

 一方、検察席に座る江田は、冷静な表情を崩さない。むしろその眼差しには、これから展開される攻防を見越した余裕が漂っていた。

「弁護側が提出した文書について、検察としては真正性を否定いたします」

 江田の声は澄んでいた。

「まず第一に、文書には署名や押印が欠けており、正式な社内決裁書類とは認められません。第二に、コピーであり原本が存在しない以上、証拠能力に重大な疑義があると考えます」

 傍聴席からは失望のため息が漏れた。せっかく光が差し込んだと思われた梶原の裁判は、再び暗雲に覆われるかに見えた。

 村上は席を立ち、深く一礼した。

「確かに原本は存在しておりません。しかし、これは鉄道会社の元社員から提供を受けたものです。彼は不具合の隠蔽を目の当たりにし、良心に従ってこの文書を外部に出しました」

 裁判長は厳しい声で尋ねた。

「その元社員の証言は得られるのですか?」

「……現時点では困難です。本人は家族への影響を恐れております」

 その言葉に、法廷は再びざわめいた。結局、影の証人の存在は、弁護側の武器でありながら同時に脆弱な足枷でもあった。

 審理が一時休憩に入ると、村上は控室に戻り、机に突っ伏すようにして資料を広げた。そこへ、若い助手の佐久間が駆け込んできた。

「先生、大変です。……例の元社員が消息を絶ちました」

「……何?」

「昨日まで自宅にいたそうですが、突然行方が分からなくなったと。家族も警察に届け出ているようです」

 村上の心臓が大きく跳ねた。あの証言者が消えた。偶然か、それとも意図的か。頭の中で最悪の可能性が渦を巻いた。

 翌日、村上は早朝に鉄道会社本社を訪れた。大理石の壁がそびえ立つその建物は、巨大な権力を象徴しているようだった。受付で名を告げると、秘書が硬い笑顔を浮かべて現れた。

「申し訳ありません。内部資料についてはすでに調査済みで、不具合の報告は確認されませんでした」

「しかし、こちらには文書があります。どう説明されますか」

「……そのようなものは存在しません」

 秘書の声は冷たく切り捨てるようで、まるで村上の存在すら認めないかのようだった。

 その足で村上は都内の古い図書館に向かった。鉄道関連の行政資料を調べるためだ。埃を被った段ボール箱から出てきたのは、十数年前の国会議事録。その中に、鉄道安全委員会で「ATSの改修遅延」に関するやり取りが記されていた。

「やはり……昔から問題は繰り返されていたのか」

 村上は震える指でページを押さえながら呟いた。だが同時に、ある不可解な点に気づいた。議事録の途中、特定の発言だけが黒く塗り潰され、判読できなくなっていたのだ。

 夜。村上のオフィスに一本の電話が鳴った。

「……お前、深入りしすぎだ」

 低い声が受話器の向こうから響いた。誰だ、と問う間もなく、電話は切れた。背筋を冷たい汗が流れた。

 翌日の裁判。江田検事は新たな証拠を提示した。鉄道会社が事故の三か月前に社内で行った「安全点検記録」。そこには、全てのシステムが「正常」と記されていた。

「つまり、弁護側が提出した文書は信憑性に欠けると言わざるを得ません」

 江田は淡々と述べた。

 村上は机を握り締めた。検察が出してきたのは、完全に整えられた「公式記録」。しかし、あまりに完璧すぎる。現実の現場に必ずあるはずの小さな不具合や修繕履歴が一切記載されていないのだ。

 証人尋問のために呼ばれた現役社員は、緊張した声で証言を繰り返した。

「不具合の報告はありませんでした。点検は滞りなく行われていました」

 その言葉は教科書の一文のように機械的で、村上には背後で糸を引く誰かの影が見えた。

 休廷の合図が鳴ると、傍聴席から記者たちが一斉に飛び出していった。村上もまた席を立ちながら、梶原の方を振り返った。被告席の男は、深い絶望の表情を浮かべている。

「先生……もう、駄目なんでしょうか」

 梶原のかすれた声が耳に残った。

 村上は唇を固く結び、心の中で答えた。――まだ終わってはいない。真実は必ず存在する。だがそれは、深い迷宮のさらに奥、影に閉ざされた場所に隠されている。

 夜、オフィスに戻った村上は、再び封筒の文書を広げた。その紙の隅に、消えかけた手書きのメモが記されていた。

《三号車、試験未了》

 その一行に、彼は息を呑んだ。事故で最も大きな被害を出した三号車――そこに何が隠されているのか。

 窓の外では、闇が街を覆っていた。ビルの谷間に灯る明かりが、まるで迷宮の灯火のように点滅している。村上はその光を見つめながら、自らが踏み込もうとしている場所が、もはや後戻りできない領域であることを痛感していた。

(第四十九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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