西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第二十九章・第三十章

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第二十九章 取り残された真実

 大阪地方裁判所の法廷に、午後の柔らかな光が斜めに差し込んでいた。

 窓越しに射し込む陽射しは、そこに集う人々の顔に微妙な陰影を落とし、傍聴席に座る遺族たちの表情をいっそう沈痛に見せていた。

 裁判は終盤を迎え、検察側・弁護側双方がこれまでの主張を整理し、最終的な論点を絞り込む段階に入っていた。

 福知山線脱線事故からすでに年月が経過していたが、真相はなお多層的な迷宮の中に閉ざされ、被告席に座る元運転士の上司や管理責任者たちは、各々に硬い表情を崩さなかった。

 法廷の最前列に腰を下ろしていた刑事・十津川省三と亀井定雄は、静かにその成り行きを見守っていた。彼らはすでに事件そのものの捜査からは外れていたが、ここまでの長い過程を追ってきた責任として、最後まで目をそらすわけにはいかなかったのだ。

 検察官の声が響いた。

「この事故は単なる人為的ミスではありません。背景には、企業体質そのものが抱える慢性的な問題が存在していました。過密ダイヤ、過度な効率化、そして社員に対する過剰な締め付け。これらが連鎖的に作用し、最悪の結果を招いたのです」

 言葉を聞きながら、十津川は小さく目を閉じた。

 彼の脳裏には、事故現場に横たわる車体と、救助を求めて必死に声を上げる乗客たちの姿が再び浮かんでいた。あの日、現場で感じた熱気と焦げた匂い、そして静かに広がる死の気配――。すべてが消えることなく、彼の記憶に深く刻まれている。

 一方、弁護人は立ち上がり、声を張り上げた。

「確かに組織的な問題は存在していたかもしれません。しかし、ここにいる被告人たちが、直接事故を起こしたわけではないのです。彼らはシステムの一部でしかなく、個人に過度の責任を負わせるのは、正義とは言えません」

 法廷内に静寂が広がった。

 誰もが「責任」の所在をめぐって揺れていた。

 犠牲者の遺族のひとり、中年の女性が小さく嗚咽を漏らした。息子を事故で亡くした彼女は、毎回の公判に足を運び、裁判の一言一句に耳を傾け続けていた。

 ――本当に、真実はどこにあるのか。

 十津川の隣で亀井が低くつぶやいた。

「課長……。こうして聞いていると、誰かひとりに責任を押し付けるだけじゃ、結局何も変わらないんじゃないですかねえ」

 十津川はうなずいた。

「そうだな。鉄道という大きなシステムの中で、ひとりの運転士だけを裁いても、それは真実の一部に過ぎない。だが……遺族にとっては、せめて誰かが罪を認めなければ、納得できないのも確かだ」

 二人の視線の先では、傍聴席の一角に座る若い女性が拳を握りしめていた。彼女は事故で婚約者を失った被害者遺族で、これまで取材にも一度も応じていない人物だった。だが今日、その瞳には確かな光が宿っていた。

 公判が休廷に入ると、彼女は立ち上がり、法廷の出口に向かう十津川に声をかけた。

「刑事さん……」

 十津川が振り返ると、彼女は必死に言葉を探すように唇を震わせた。

「どうして……どうして、あの事故の“裏側”をもっと明らかにしてくれなかったんですか? ニュースでは運転士のミスばかり言われて……でも、彼だって人間です。そんなに追い詰められていたなら、本当は会社の責任じゃないですか」

 彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 十津川は言葉を返せず、ただ深く頭を下げた。

 彼自身もまた、その問いに明確な答えを持ち合わせてはいなかったのだ。

 ――真実は、いまだ迷宮の中にある。

 夕暮れの街に出ると、亀井が長い溜息をついた。

「課長、この事件は結局、誰も幸せにしませんな」

「そうだ。だが、だからこそ語り継がなければならない」

「語り継ぐ……」

 亀井がつぶやきを繰り返したとき、裁判所の外に集まっていた記者たちが一斉にシャッターを切った。遺族のひとりが手を掲げ、記者に向かってこう叫んでいた。

「忘れないでください! あの日のことを、私たちは一生忘れません!」

 その声は、冷たい秋風に乗って大阪の街に広がっていった。

 十津川は歩みを止め、しばしその声に耳を傾けた。

 裁判が終わっても、事故の記憶は消えない。むしろこれからが本当の意味での戦いなのだろう――。

 その夜、宿泊先のホテルで十津川は机に向かい、手帳に短い言葉を記した。

「福知山線事故――人の命を預かる責任の重さを、永遠に記憶に留めること」

 文字を閉じると、彼は深く息を吐いた。

 窓の外には、大阪の街の灯が果てしなく広がっていた。


第三十章 迷宮の出口

 大阪地方裁判所の大法廷は、独特の緊張感に包まれていた。傍聴席には記者や遺族、一般市民が詰めかけ、法壇の中央に座る裁判長の一挙手一投足に視線が注がれている。

 この日、JR福知山線脱線事故に関連したJR西日本元幹部らの裁判は、証人尋問の大詰めを迎えていた。

 証言台には、元技術戦略本部の課長・藤原浩一が立っていた。彼の証言は、会社が事故後に意図的に情報を隠蔽しようとしたか否か、その核心に迫るものだった。

「……私は、当時の副部長から“このデータは社外に出すな”と命じられました」

 静まり返った法廷に、彼の声が響いた。

「ただ、その判断が“会社を守るため”だと理解していたことも事実です。しかし、被害者の遺族の方々を思うと、あの判断が正しかったとは今でも思えません」

 その言葉に、傍聴席の一角で嗚咽が漏れた。裁判長が制止の木槌を打ち、法廷の秩序を保とうとする。だが、その空気の揺れは隠しようもなかった。

 亀井刑事は後方の傍聴席で、十津川と並んでそのやりとりを見守っていた。

「……やっぱり人間ってやつは、最後には心を抑えきれないもんですな」

 亀井が低くつぶやく。

十津川は目を細め、静かに答えた。

「だからこそ、この証言には重みがある。組織の論理ではなく、人の心から出た言葉だからな」

 だが、法廷での攻防は一筋縄ではいかなかった。

 被告人席に座る西田元副部長の弁護士はすかさず立ち上がり、藤原の証言に対して反対尋問を仕掛けた。

「あなたは会社の中間管理職にすぎなかった。その立場で“副部長が直接命じた”と断定できるのですか? 記憶違いや、周囲の圧力に影響された可能性はないのですか?」

 藤原は一瞬、言葉を詰まらせた。だが、すぐに顔を上げて言った。

「記憶違いではありません。その場で私は録音をしていました。提出した音声データを確認すれば、事実は明らかです」

 法廷がざわめいた。弁護士は顔色を変え、裁判長が再び木槌を打つ。

 十津川はそのやりとりを見ながら、わずかに口元を引き締めた。

「これで、逃げ道はなくなったな」

「ええ、証拠と証言が揃った」

 十津川と亀井の視線の先で、被告席の西田は硬い表情を崩さなかった。だが、その手が膝の上で小刻みに震えていることに気づいたのは、十津川だけだった。

 

 その日の公判終了後、十津川と亀井は裁判所を出た。夕暮れの大阪の街には、赤や橙に染まった光が差し込んでいた。

「長い戦いでしたな。警部」

 亀井が歩きながら肩を回した。

「まだ終わってはいない。判決が出るまでは気を抜けん」

「それに……事故の真相を“どう受け止めるか”ってのは、遺族の方々一人ひとりに残された問題ですからな」

 二人は無言で歩いた。梅田の雑踏の中で、人々は日常を営んでいる。だが、彼らの胸には事故の日の記憶が重く沈んでいた。

 

 翌日、神戸市内の遺族会事務所。

 遺族代表の森本佳織が、記者会見に臨んでいた。

「……私たちが求めてきたのは、ただ一つ。“真実”です」

 静かな声に、記者たちは耳を傾けた。

「私の娘は、二十歳でこの世を去りました。彼女の未来を奪ったものは何だったのか。その問いに答えるために、私たちは声を上げ続けてきました。今日、法廷での証言を聞いて、ようやく一歩前に進めた気がします」

 会見を終えた森本の目に浮かぶ涙は、悲しみとともに確かな決意を帯びていた。

 

 一方、東京に戻った十津川は、警察庁の会議室で報告を行っていた。

「今回の件は、単なる企業事故にとどまらない。組織文化、監督行政、政治的な力学――すべてが絡み合った“迷宮”でした」

 会議室にいる警察幹部たちが、深刻な面持ちでうなずく。

「だが、迷宮には必ず出口がある。我々はそれを示すことができた。あとは、司法の判断を待つだけです」

 報告を終えた後、十津川は窓外を眺めた。東京の夜景はまばゆい光で埋め尽くされていたが、その光の下で生きる人々の中には、まだ事故の影を背負う者が数多くいる。

 

 数日後。大阪地裁前に集まった群衆の中で、判決の日を待つ人々の姿があった。

 秋の冷たい風が吹き抜け、空は高く澄んでいた。

 その空を見上げながら、亀井がつぶやいた。

「警部、あの空の向こうに、犠牲になった人たちがいるんでしょうかね」

 十津川はしばらく無言だった。やがて、静かに答えた。

「いるさ。だからこそ、我々は歩みを止めてはならない」

 その言葉に、亀井は深くうなずいた。

 二人の視線は、これから下される判決を超えて、さらに遠い未来へと向けられていた。

 

 やがて午後。

 大阪地方裁判所の法廷に再び人々が集まり、判決の時を迎える。

 傍聴席の空気は、張り詰めた糸のように硬く緊張していた。

 裁判長が口を開いた瞬間、法廷内の全員が息をのんだ。

「主文――」

 その声が響く中、十津川は静かに目を閉じた。

 長きにわたる“迷宮”の出口が、いまようやく見えようとしていた。


👉 (第三十一章へつづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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