西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第七章・第八章

目次

第七章 企業の中枢

 大阪本社の高層ビルは、朝の日差しを跳ね返していた。交通網の要を担う企業の本拠地は、まるでその責任の重さを象徴するかのように、巨大で無機質だった。

 十津川と亀井は、社員通用口から静かに入館し、応接室へと通された。

「副部長の西田靖が来るのは、あと五分ほどとのことです」

 人事課の職員がそう告げ、部屋を後にする。重厚なテーブルの上には水の入ったグラスが三つ、無言のまま並んでいた。

「緊張してますな」

 亀井がつぶやいた。

「……向こうも、同じだろう」

 十津川は、復元されたログデータと米田運転士のメール文面を丁寧にファイルへ収め、テーブルの上に置いた。

 やがて、革靴の音が近づき、ドアが静かに開いた。

 入ってきたのは、五十代半ばの男。痩身にスーツを纏い、額の皺が深い。副部長・西田靖である。

「どうも。……お忙しい中を、わざわざ」

 彼は丁寧に頭を下げたが、瞳の奥にある警戒心は隠せなかった。

「こちらこそ、お時間をいただき恐縮です」

 十津川はゆっくりと切り出した。

「本日は、事故当時の社内対応について、いくつかお話をうかがいたく参りました」

「もちろんです。すでに社としては、全面的に協力する姿勢でおりますので」

 言葉とは裏腹に、西田の表情は固い。

 十津川は、静かにファイルを開いた。

「では早速。事故後に提出された制御ログと、内部で発見された“旧ログ”に食い違いがある件について。——その編集方針を決定したのは、あなたですか?」

 西田は、言葉を慎重に選びながら答えた。

「……編集とは言いません。あれは“抽出”です。すべてのデータを提出するには膨大な時間がかかる。調査委員会にとって必要な部分を、要点としてまとめたのです」

「要点として——“都合のいい部分”だけを残したのでは?」

 亀井が食い気味に割り込んだ。

「結果的に、そう見えてしまったのかもしれません。しかし、我々には時間も、外部対応もありました。混乱を避けるため、判断したまでです」

 十津川は、次の資料を取り出した。

「これは、事故当日までに米田運転士が上司へ送った業務メールの記録です。安全速度を維持するのが困難だと、何度も進言している。そして、そのすべてに“返答なし”」

 西田の眉が、わずかに動いた。

「……現場からの情報がすべて本部に届くわけではありません。個別の判断に対して、すぐに回答できる体制ではなかった」

「つまり、“見逃した”ということですね?」

「……そうなります」

 西田の顔に、わずかな諦めの色が滲んだ。

「では、あなたがログの改変を命じた理由は、混乱の回避ですか? それとも——企業の評判を守るためですか?」

 西田は、わずかに息を吐いた。

「十津川さん。我々が扱っているのは、“運輸”という名の“信用事業”です。たとえ事実でも、企業として受け止めるには、“今じゃない”ということもあるのです」

 十津川の声が低く響いた。

「しかし——その“今じゃない”の裏で、107人が命を落とした」

 

 会見室の空気は、沈黙で満たされていた。長い時間が流れたあと、西田が口を開いた。

「……あなた方が本気で真相を追うなら、もう一人だけ、話を聞くべき人間がいます」

「誰ですか?」

「当時の安全対策部の統括責任者だった——“香川博志”という人物です。彼は事故の一年前に定年退職しましたが……システム導入と人事改革の中心にいた。今は、関連企業に“再就職”しています」

「再就職、ですか」

 十津川の眉が動いた。

「……事故前のシステム運用マニュアルも、彼の指導で作られたはずです。当時の“時間重視”のダイヤ改正も、彼の企画だったと聞いています」

 十津川はうなずいた。

「ありがとうございます。その香川という人物——どこに?」

「たしか、京都の関連会社、“西日技研”に在籍していたはずです」

「了解しました」

 十津川は立ち上がり、握手を求めた。

 西田は、静かにそれに応じた。

 

 翌日、京都市内。

 西日技研は、伏見区の一角にひっそりと建っていた。外観は地味で、一般企業の事務所となんら変わりはない。

「この建物……警備も緩いですな」

 亀井がぼそりと呟いた。

 二人は受付を通し、応接室に案内された。やがて現れたのは、白髪混じりの穏やかな風貌の男——香川博志。

「どうも……まさか、警察の方が訪ねてくるとは思いませんでした」

 笑顔の裏に、どこか諦念のようなものが漂っている。

「事故当時、香川さんは“安全対策部”のトップでしたね」

「ええ、そうでした」

「いくつか、お尋ねしたいことがあります。とくに——システム構成と訓練制度、“日勤教育”の在り方について」

 香川は、ゆっくりと頷いた。

「……おそらく、避けては通れない話ですね。私は当時、“ヒューマンエラーは教育で減らせる”と信じていた。いや——信じ込もうとしていた」

「“精神的圧力”としての教育が、事故に影響した可能性もあります」

「わかってますよ。あの事故の責任の一端は、間違いなく私にある。ただ……あの体制を作ったのは、私一人ではなかった。上も、現場も、すべてが“時間を守る”ことにしか目を向けていなかった」

 十津川は、一枚の紙を差し出した。

 ——事故当日、米田運転士が「当該ダイヤでは安全運転が困難」と進言した業務メール。

「これは、読まれましたか?」

 香川は、目を通すと、静かに顔を伏せた。

「……読んでません。たぶん、誰も読んでいない。こういうのは、“読む時間”すら許されなかった」

「事故を予見できたとしたら?」

「……それでも、私たちは、止められなかったかもしれません」

 重たい言葉が、部屋に落ちた。

 

 十津川と亀井は、事務所を出て、夕暮れの京都の街を歩いた。

「警部……これは、本当に“事故”なんでしょうか?」

「いや、違う。これは“必然”だ。——この構造が、いつかは命を奪うと、誰もが知っていた。そして、それを“見ないふり”をしてきた」

「じゃあ……我々は、どうする?」

 十津川は、静かに前を見た。

「まだ終わらせない。あと一人——最終責任を担っていた、“社長”に会う」

 その背中に、沈む夕日が静かに差していた。

第八章 供述

 大阪・梅田にあるJR西日本本社の応接室は、外光を遮るようにカーテンが引かれていた。冷房の音だけが静かに鳴る中、十津川警部と亀井刑事は、副部長・西田靖との面談に臨んでいた。

 向かいに座る西田は、五十代後半、整ったスーツ姿ながら、うっすらと汗を浮かべていた。事故後の記者対応、社内調整、政治的配慮――そのすべてが彼の肩に重くのしかかっていた。

「……で、お話というのは?」

 西田はわざとらしく、顎を引いた。十津川は書類を机の上に並べる。

「事故三日後、技術戦略本部のサーバーにアクセスがあり、操作ログの一部が書き換えられました。そのアクセス権限を持っていた藤原浩一氏は、“あなたの指示だった”と供述しています」

 西田の顔がこわばった。だがすぐに、冷静な笑みを浮かべる。

「……彼がそう言ったのですか? ずいぶんと、部下想いのようですね。だが私は、命令などしていませんよ。彼が勝手にやったことでしょう」

「副部長、彼の供述には具体的なやりとりが記録されています。たとえば、あなたが“これは対外的には不要なデータだ”と述べたこと。そして、事故調査委員会に提出されたログと異なる“修正後のログ”が、あなたの承認のもとで保管されたことも」

「それは、会社としての判断です。私個人の独断ではない。企業の信頼を守るため、必要な判断でした」

 亀井が身を乗り出した。

「“信頼”という名のもとに、真実を封じるのか?」

 西田は顔色を変えずに答えた。

「世の中には、“出していい真実”と“出してはならない真実”があるんですよ、刑事さん。企業には企業の論理がある。あなた方の正義が、すべてを救うとは限らない」

 十津川は黙っていた。静かに西田の目を見つめる。

 だがその目は、深い諦念と計算に覆われていた。

「今後は、顧問弁護士を通していただけますか? この場での供述は、無効にさせてもらいます」

 西田は立ち上がった。

 

 「逃げますな、あれは」

 応接室を出たあと、亀井が吐き捨てるように言った。

 だが、十津川は言った。

「いや、逃げきれない」

「え?」

「すでに藤原からは“音声記録”が提出されている。事故翌日、会議室で西田が“削除しろ”と命じた証拠音声だ。彼は、裏切った」

「まさか……」

「彼にも子どもがいる。“子どもにだけは胸を張りたい”と、そう言っていたらしい。だから証拠を渡してきた」

 亀井はしばらく黙っていた。

「……誰だって、最後には人間に戻るんですね」

 十津川は頷いた。

「だがここからが本番だ。我々は、社内だけでなく“外”も見なければならない」

「外、ですか?」

「――政治家だ」

 

 調査が進む中、浮上してきたのは、事故当時の国交省鉄道局との不可解な関係だった。

 事故当日、JR西日本の幹部が複数の国会議員や官僚OBと非公式に接触していた記録が残っていた。いずれも、会社の“防衛”を最優先に考えたやりとりだ。

 その中でも名前が何度も登場したのが、元国交省幹部で現在は「公共交通インフラ推進機構」の理事を務める川井啓一だった。

「川井……たしか、JR西日本の元顧問をしていた人物だな」

 十津川が資料をめくる。

「この人物、かつて運輸省時代に列車ダイヤ編成の標準化を推進していた。当時から“効率重視”で、現場の声を封じ込めていたという話もある」

「事故後、JR西の幹部と何度も会ってるようですな。何を話していたのか……」

 

 数日後、東京・霞が関の旧運輸省ビル。

 十津川と亀井は、川井のもとを訪ねた。彼は七十代半ば、白髪に眼鏡。飄々とした物腰だが、その目は鋭かった。

「やあ、十津川警部。君の名前はよく聞くよ。で、今回は“何を疑って”来たのかな?」

 川井は、ニヤリと笑って椅子に腰掛けた。

「あなたは、事故後にJR西の幹部と接触しましたね。何の話をしたのです?」

「それは“OBとしての助言”というやつだよ。事故対応の広報の仕方、遺族への対応、マスコミ対策……会社が混乱しないように、ね」

「混乱を避けるために、真実を伏せたのでは?」

「警部。君は勘違いしている。国家のインフラを支える企業が、一度の事故で倒れていいと思うのか? それが正義なのか?」

 川井の声には、冷ややかな正論があった。

「会社を守ることと、真実を隠すことは、別です」

「だが、現実には同じになることもある。遺族に説明すればいい。運転士の過失です、と。会社の名誉も保てる。……なぜそれがいけない?」

 十津川はしばらく黙った。そして、こう言った。

「あなたは、“運転士の過失”で済ませようとした。だが我々は、“構造の責任”を問います。それが、人の命を扱う組織の在り方です」

 川井は口を閉ざした。

 その目には、微かな陰りが差していた。

 

 その夜。

 十津川と亀井は、神戸の遺族支援センターを訪ねた。

 事故で娘を失った女性・森本佳織が、彼らを迎えた。

「……真実を、知りたいです。あの子の最後の瞬間が、どうだったのか。誰が、何をしたのか」

 彼女の言葉は、静かだった。

「遺族として、たくさんの言葉を聞いてきました。“残念な事故”“悔やまれること”……でも、それじゃ納得できない」

 十津川は深く頷いた。

「必ず明らかにします。我々の正義は、“償い”ではなく、“記録”と“再発防止”ですから」

 森本の目に、涙が光った。

 

 数日後、藤原浩一の証言、削除ログの復元、メール記録、川井との接触記録などがすべて整理され、警察庁は正式に「業務上過失致死容疑」としてJR西日本幹部らの事情聴取に踏み切ることを決定した。

 その第一報が、新聞各紙を飾った。

「JR西日本、事故対応で虚偽報告か 警視庁が幹部事情聴取へ」

 亀井はその記事を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。

「ここからが、戦いですね」

「そうだ。だが我々は一歩進んだ。真実は、隠しきれない」

 

 事故から三か月。

 遺族会は、JR西日本に対し、企業構造の見直しと責任者の処分を求める正式な要望書を提出した。

 十津川は、その提出に立ち会ったあと、空を見上げた。

 神戸の秋の空は、あの日よりも少しだけ、澄んでいた。

(第九章へつづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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