第三章 十津川、尼崎へ
事故から三日後、四月二十八日午前。
JR尼崎駅南口のロータリーでは、数日前の騒然とした雰囲気がいくぶん和らぎ、規制線もやや後退していた。だが、鉄柵の向こう、マンションへと突っ込んだ一両目の残骸は依然として取り除かれておらず、風に乗って鉄と油の匂いが漂ってくる。
十津川警部と亀井刑事は、駅構内の仮設通路を抜け、現場へのアプローチを再開していた。
「この匂いは……もう三日も経つのに、全く消えないんですね」
亀井が眉をひそめて言った。十津川はうなずく。
「死者百七名。遺体確認は終わったが、家族のもとに戻れた者ばかりじゃない。実際、まだ身元が判然としない損傷遺体が数体……」
視線の先にあったのは、ブルーシートに覆われたフェンスの向こうで、黙々と手を動かす警察官と自衛隊員たちの姿だった。
亀井が言った。
「昨日の告発文書、“第二の事故”というのが気になりますな。まさか本当に、ほかの路線で……」
「それが狙いかもしれん。恐怖を拡大させ、会社、国、メディアを撹乱する。テロとも、報復とも、あるいは……組織犯罪とも取れる」
「にしては手が込みすぎてますね。個人ではない、と?」
「あるいは、組織の内部者……会社か、行政か……いや、むしろ、もっと別のところにいる“見えない手”か」
十津川の表情は硬い。捜査の進展よりも先に、拡大する情報の渦が捜査陣を追い詰めようとしていた。
駅の連絡通路を抜けると、待っていたのは神戸新聞の記者、長谷川春香だった。
「十津川さん」
声をかけてきた春香に、十津川は意外そうな目を向けた。
「どうしてここに?」
「例の告発、私にも来たんです。同じ文面で。しかも——」
春香は、懐から二つ折りのメモを差し出した。
「西脇章吾さん。現場の保線担当です。彼が渡してくれました」
メモには、先日のものと同様に、技術部員の実名と“午前八時五十五分、制御装置ログの書き換え”の記録時刻が記されていた。
十津川は、静かに目を細めた。
「これは……確証になり得る。会社の対応は?」
「沈黙です。“調査中”の一点張り。記録の存在すら否定していません。ただ……私の名刺を受け取った社員の一人が、その日のうちに異動扱いになりました。通達は内部文書で、“精神的不調による休職”と」
亀井が吐息を漏らす。
「わかりやすく口封じだな」
「つまり、会社の中に、真相を知る人間がいて、それを外に漏らそうとしている——だが、漏らすこと自体が命取りにもなりかねない、と」
十津川は深くうなずいた。
「春香さん。あなたはこの先、会社にマークされます。取材は慎重に。ただ、今後も情報を共有してほしい」
「もちろんです。私も、このまま“運転士のせい”で片づけられるのは我慢ならないんです」
若い記者の瞳には、強い正義感が宿っていた。
●
その日午後、尼崎運転指令所。
ビルの三階にある会議室には、JR西日本幹部数名と、十津川・亀井の姿があった。
「例の、運転士の勤務記録と、事故当日の指令記録を拝見させてください」
十津川の言葉に、部長クラスの男が顔色を変える。
「警察ではない以上、社外の人間に記録を渡す義務はありません」
「そうでしょうな。ただし、これは“任意の調査”ではない。運輸安全委員会と警察庁合同の特別依頼です」
静かに出された身分証を見て、男はしぶしぶ立ち上がった。
「……わかりました。お持ちします。ただし、閲覧のみ。複写や持ち出しはできません」
「当然です」
記録は三冊に及んだ。
運転士・山本稔の勤務日誌。直前七日間の行動記録。事故当日の出発前点呼簿。そして、午前九時台の運転指令ログ。
中でも、十津川が目を止めたのは、運転指令室の内部通話記録だった。
「……ここだ。午前八時四十九分、“後続の快速が遅延しているため、定通を厳守せよ”とある」
亀井がうなった。
「それって、つまり……多少遅れてても、速度を上げて取り戻せって意味じゃないですか」
「そう解釈する運転士は多いだろうな。運転士に自由裁量を与えているように見せかけて、実際は……“遅れるな”という無言の圧力だけが残る」
十津川は、指でページをはじきながら言った。
「これは、命令ではない。だが、命令に等しい。しかも、紙の上では“指導”という言葉にすり替えられている」
記録には確かに「定通指導」の文言があり、明確な“速度指示”は記されていない。だが、その空白こそが、事故の温床であった。
「運転士個人の判断に委ねたように見せかけて、実は判断を封じている。典型的な“責任の分散”ですな」
亀井の言葉に、部長は小さくうなだれた。
「……我々も、こうなるとは思っていなかったんです」
「そうでしょう。だが、思わなかったでは済まない。百人以上が亡くなっている」
十津川の口調は厳しい。
「この記録の内容、告発者の情報、そして事故現場の構造。全てを合わせて考えると……これは、“必然的に起きるべくして起きた事故”だった可能性が高い」
●
その晩、十津川はホテルの一室で再び匿名のメールを開いた。
タイトルは《次の標的》。
文面には、こう書かれていた。
“次は、京阪神地区最大の混雑路線。乗客数は、倍以上。前回と同じ速度、同じカーブ——だが今度は“編成が長い”。衝突すれば、被害は更に拡大する”
さらにこうもあった。
“次は五月一日。時刻は午前八時台。詳細はまた送る”
十津川は、亀井を呼びつけた。
「動くぞ。次は、もっと多くの人間が巻き込まれる……。この“予告”を見過ごすわけにはいかん」
第四章 列車の影に
神戸・灘区。午後三時十五分。
十津川警部と亀井刑事が乗ったタクシーは、旧国道沿いの古びたマンション前で停車した。目指すのは、この建物の四階に住む元運転士、松田和央。彼は、事故の一年前に“異動”という名目で乗務を外されていた。
エレベーターは動いておらず、二人は階段をのぼった。四階の廊下は陰鬱な気配を漂わせ、壁の一部には雨染みが広がっていた。
チャイムを押すと、数秒後にドアが静かに開いた。
「……警察の方ですか?」
細身の中年男が、戸口から顔を出した。やつれた顔に無精髭。だが、その目だけは鋭かった。
「松田さん。少し、お話を伺えますか?」
「……どうぞ。狭い部屋ですけど」
通されたリビングには、埃をかぶった鉄道模型と、折りたたまれた制服の一部が置かれていた。退職後も、彼が“鉄道”という世界から完全には離れられなかったことを物語っていた。
「福知山線の事故について伺いたい。あなたは事故の前に、福知山線での乗務を外されていますね?」
松田は小さく笑った。
「ああ、あれか。『注意義務不足』ってやつでね。運転中に、制限速度を超えたことがある。ATSが作動して、上司に始末書を書かされた」
「たった一度で?」
「一度じゃなかった。二度だ。だけど、正直に言えば——制限時間内に駅を出発できないダイヤに、無理があったんだよ」
十津川がメモを取りながら尋ねた。
「事故を起こした運転士・米田幸生とは面識が?」
「ある。訓練センター時代に、同じ班だった。真面目すぎるぐらいのやつだったよ。時間には几帳面で、教官の言うことをノートにすべて書き写してた。……あんな男が、時速116kmでカーブに突っ込むなんて、俺には信じられない」
十津川はその言葉を慎重に受け止めた。
「事故後、会社から何か圧力は?」
松田は、一瞬だけ口をつぐんだ。そして、立ち上がると小さな書類ケースを取り出し、一枚の紙を差し出した。
「これを見てください。異動命令書。日付は、事故の三ヶ月前。そして——その直前に、ある研修に出席した記録がある。『非常時対応マニュアルの再確認』ってやつでね。そこにいたのが、事故調査委員会に出てきた“あの男”だった」
「“あの男”?」
「技術戦略本部の藤原浩一。何をしてる奴かは知らなかったが、全員の記録装置について細かく尋ねてきた。“運転士が誤作動を起こした場合、ログはどう残るか”って」
十津川と亀井が目を合わせる。名が出た。記者・長谷川春香の入手した内部文書にも登場していた、重要人物だ。
そのころ、兵庫県伊丹市——。
長谷川春香は、市内の小さな郵便局前で足を止めていた。先日、自宅ポストに届いた匿名封筒には、「事故当日のログに“手が入っている”」との一文と、送信者の連絡先が書かれていた。彼女はその送り主との面会に向かう途中だった。
局内で呼び出されたのは、背広姿の男性だった。彼は簡単に自己紹介をした。
「私は元・JR西日本の保安部門にいた者です。名乗るわけにはいきませんが、どうしても伝えたいことがある」
男が取り出したのは、緻密なグラフと共に印刷されたPDFファイル。事故当日の制御ログの解析結果だった。
「この記録、社内の公式データと一致しません。というより、社外に出された記録は、“後から加工された可能性がある”」
「加工された、とは?」
「ブレーキのタイミングです。“非常ブレーキが作動した”とされてますが、実際には、運転士は“常用”ブレーキを断続的に使い続けていた。それが記録に残っていた。——本来のログにはね」
長谷川は、手帳に記録しながら口を開いた。
「なぜ、そのデータがあるのです? 削除されたのでは?」
「……削除命令が出た。しかし、内部サーバーに残っていた一時ファイルが復元できた。技術的な裏道でなければ無理だったろう」
「その命令を出したのは……?」
男は答えなかった。ただ、視線だけで“推測しろ”と語っていた。
一方その頃、十津川と亀井は事故現場跡地近くの交番を訪れ、当時の第一通報者——マンション住人の証言を求めていた。
証言者の名は、北浦美代子。事故当時、マンションのベランダにいた彼女は、列車が異音を発しながらカーブに差し掛かるのを目撃したという。
「すごい音でした。ゴゴゴッ……て、鉄がきしむ音。で、そのあと“ピィィィィーッ!”て変な警報音がしたんです」
「変な警報音?」
「ええ、ふつうの汽笛とは違う。何ていうか……機械が暴走したみたいな音。テレビの“警報音”みたいな……」
十津川は考え込んだ。
「ATSの警告音かもしれませんね。非常停止前に自動発報される信号……あるいは、異常なデータを検知した際のアラートか」
「でもその直後、止まるかと思ったら……そのまま建物に突っ込んだんです。止まらなかった。まるで——」
「まるで?」
北浦は唇を震わせながら言った。
「まるで、止める気がなかったみたいに、一直線に——」
その晩、神戸・須磨の刑事部宿舎。
亀井は十津川の机に、調査結果を広げて言った。
「社内規定により、事故後のログ閲覧は“技術戦略本部”の決裁が必要だった。その本部長代理……藤原浩一。そしてもう一人、副部長の西田靖。この二人が、事故の三日後にログを確認している」
「ログは、原本か?」
「いや、“一部出力”とされている。サーバー上の直接アクセスは不可。その出力を誰が、どう加工したか……そこは社内でも“調査中”だと言っていた」
十津川は腕を組んだ。
「原本が破棄されていた場合、立件は難しい。しかし——内部告発や証言、そして“復元されたデータ”があれば、道は開ける」
その目は、鋭く光っていた。
「“事故”ではない。“意図された結果”がそこにあるかもしれない」
捜査は、静かに核心へと近づいていた。
(第五章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件
コメント