プロローグ —揺れる車窓の果てに—
2005年4月25日午前9時18分。
陽射しはやわらかく、春の光が窓ガラスに映えていた。JR福知山線5418M快速電車は、日常の喧噪に取り込まれたまま、宝塚から尼崎へと向かっていた。
七両編成の電車は、定刻よりわずかに遅れていた。運転士は22歳の若者。経験は浅く、前日にも運行ミスで叱責を受けたばかりだった。焦りと緊張が、狭い運転室を支配していた。
カーブに差しかかったその瞬間だった。
激しい揺れとともに、車体が宙を舞う。先頭車両が線路を逸れ、前方のマンションに突入した。鉄とコンクリートがぶつかる音が、周囲の空気を切り裂いた。
乗客と運命を共にした107人の命が、その瞬間、奪われた。
この事故は単なる過失か。それとも、もっと深い闇が背後に潜んでいるのか。
警察庁広域捜査官・十津川省三と、部下の亀井定男は、異例の形でこの事故に関与することになる。始まりは、一通の奇妙な匿名文書だった。
第一章 予兆の月曜日
その朝、事故が起きることを知っていた者は、誰一人としていなかった——。
だが、それは確かに予兆を孕んだ月曜日だった。
午前8時、東京・霞が関の警察庁広域捜査課。十津川警部は、定例の会議を終え、机に戻ってきたばかりだった。春らしい空気に包まれた都心のビル群を窓越しに眺めながら、彼は湯呑みに口をつけた。
「今朝、関西で事故がありました。かなり大きいようです」
亀井刑事が新聞を片手に部屋へ入ってくる。年齢は六十を超えているが、足取りはしっかりしている。
「事故……?」
「ええ、兵庫の尼崎で。JR福知山線の快速電車が脱線。先頭車両がマンションに突っ込んだと。まだ詳細はわかりませんが、死者も多数出ているようです」
十津川は眉間に皺を寄せた。
「……福知山線。宝塚と尼崎を結ぶ都市近郊路線だな。事故の原因は?」
「速度超過が疑われてるようです。制限70キロのカーブを百キロ近くで走行していたという話です」
十津川は机に置かれた地図を手に取り、事故現場とされる「塚口-尼崎間」に目をやる。
「だが、それだけでこんな大事故になるだろうか? 専門の調査委員会が立ち上がるのは当然としても……」
そのとき、庁内の内線電話が鳴った。亀井が素早く受話器を取る。
「はい、広域捜査課……ええ……はい……わかりました。十津川さん、警察庁長官官房からです。すぐに会ってほしいと」
十津川は頷き、立ち上がった。
彼の予感が外れることは、あまりなかった。
一方その頃、神戸新聞の社会部記者・長谷川春香は、現場に最も近い取材班の一人だった。二十九歳、報道の現場で鍛えられてきた叩き上げの女性記者である。彼女が現地に到着したとき、すでに辺りは騒然としていた。
「すみません、神戸新聞の者です。中へ入れてください!」
現場を囲む警察官に声をかけながら、彼女はカメラマンとともに現場へ滑り込んだ。
その眼前に広がっていたのは、凄惨な光景だった。曲がりくねったレール、粉々に砕けた車体、崩れたマンションの外壁、そして搬送される遺体。
「——これが、都市鉄道の事故……?」
震える手でシャッターを切りながら、春香の目には、搬送用ブルーシートの脇でひとり膝を抱える男が映った。制服を着たJR西日本の職員のようだった。だが、その視線はどこか空虚だった。
春香は直感的に思った。
この事故には、何かもっと深い「理由」がある——。
その夜、十津川は東京駅から新幹線「のぞみ」に乗り込んだ。行き先は新大阪、そこから尼崎まで向かう。
同行するのはもちろん亀井刑事。だが今回は警察庁主導の“特命”だ。通常の事故調査とは異なる。
「十津川さん、長官が言ってました。『この事故の背後には、企業体質の問題だけでなく、もっと根深い“構造”がある』と」
「構造……か」
十津川は窓の外を見つめた。新幹線は、何事もなかったように夜の車窓を駆け抜けていく。だがその先には、国家レベルの隠蔽工作と、企業による情報操作が待っているとは、彼もまだ知らなかった。
第二章 事故調査委員会の迷走
事故翌日の4月26日午前。
神戸市中央区、国土交通省・運輸安全委員会神戸支部臨時会議室。
狭い会議室には、報道陣の目を避けるようにして集まった省庁職員や鉄道技術者たちの緊張した面持ちが並んでいた。
先頭に座るのは委員長代理の嶋岡達郎。鉄道局出身で、事故調査の経験は長い。だが、今回のような規模の事故は、彼のキャリアでも初めてのことだった。
「まず、昨日の事故の概要だ。……兵庫県尼崎市、塚口─尼崎間。5418M快速電車、七両編成。午前9時18分、制限70km/hのカーブを時速116km/hで進入、1・2両が脱線し、1両目がマンションに衝突。死者107名、負傷者562名——これが現在の確認状況だ」
室内には沈黙が落ちた。
事故の重大性は、数字では計り知れない。
「JR西日本から提出されたATS(自動列車停止装置)記録によると、カーブ進入前に運転士が非常ブレーキをかけていた形跡がある。ただし……この記録が“操作”されている可能性がある、という指摘も出ている」
ざわめきが走った。
「操作? 記録を改竄したと?」
「断定はできない。だが、尼崎駅構内で記録装置のアクセスログが一部消去されていたという報告がある。誰が、なぜ、何の目的で……その調査が急務だ」
誰も口を開かなかった。
「原因が運転士個人の過失だけであれば、話は単純だ。だが本件は、それでは説明がつかない兆候がいくつもある」
嶋岡の声が、わずかに震えていた。
机の上には、匿名で届いた封書がある。
JR西日本の社員と名乗る人物からの内部告発だった。
「原因は速度ではありません。会社が、運転士に“不可能なダイヤ”を押し付けたのです」
添付された運行スケジュール表には、当日のダイヤと照らし合わせても、通常の制動距離を無視した不自然な時刻修正が記されていた。
“制限速度を守れば遅延確定。遅延すれば上司から叱責。それを恐れて速度を上げる”——この構図が、運転士の心理に影響を及ぼしたことは否定できなかった。
「私たちは、真相を隠してはならない。でなければ、同じ事故がまた起きる」
嶋岡の声は、会議室の壁に静かに響いた。
一方、同時刻の大阪駅北口。
十津川警部と亀井刑事は、駅前にあるビジネスホテルの一室にいた。庁からの指示で、尼崎駅周辺の関係者への聞き取りを開始するための準備を進めていた。
「まずは、事故当日の指令所、そして現場で対応した保線担当者……だな」
「あと、地元警察との連携も確認しておきましょう。兵庫県警は組織的な捜査には消極的のようです。県警本部から“上”の圧力がかかっているとかいないとか……」
十津川は頷いた。
「だろうな。遺族対応もままならない状況だ。国鉄の民営化以降、こうした鉄道事故に対する“統一的責任”の所在が曖昧になっている……その結果が、これだ」
彼は小型のノートパソコンを開き、匿名の告発文書を確認した。運輸安全委員会にも届いているものと、同一の内容だった。
「“不可能なダイヤ”か……。現場に行こう。実際に線路を見なければわからん」
同日午後、事故現場。
立ち入り制限区域の外周には、報道関係者、警察、救助隊、そして見物人までもが入り乱れていた。
十津川と亀井は、身分証を提示して現場内に入った。線路脇では、技術者たちが脱線原因の再検証を行っていた。
「……こいつはひどいな。カーブの角度もきついが、緩衝ゾーンがほとんどない。もしブレーキが遅れたら、確かにここで吹っ飛ぶ」
亀井が呻いた。十津川は足元のレールをじっと見つめた。
レールの接続部には、明らかに“異常な摩耗”が見られた。専門家の検査では、通常の維持点検記録に比して、この区間の保守は“形式的”だったことが判明していた。
「人災……そう言わざるを得ないな」
神戸新聞社会部の長谷川春香も、再び現場に戻っていた。
前日取材した職員の姿を追っていたのだ。
「あ……」
いた。制服姿の男性、名札には「西脇章吾」とあった。
春香は声をかけた。
「すみません、昨日もお話を聞かせてもらった記者です。少しだけ、また……」
西脇は、しばらく無言だった。
だが、ポケットから一枚のメモを取り出し、春香に手渡した。
「制御装置の記録は、当日午前8時55分に一度、改竄されています。アクセス権限を持つのは、技術部門の特定の三名のみ。名前は——」
メモには、はっきりと実名が記されていた。
春香の鼓動が速くなった。
「これは……確かなんですか?」
「……信じるかどうかは、あなた次第です。でも……このまま会社が“個人の過失”で終わらせる気なら、私は黙っていられない」
彼の眼差しは真剣だった。
その夜。
十津川の携帯に、庁から緊急の報告が入った。
「警部、匿名の告発者がもう一通、文書を送ってきました。“第二の事故”が起きると警告しています」
「……第二の事故?」
静かだった部屋に、緊張が走った。
「どこでだ?」
「場所は書かれていません。だが、文中にはこうありました——“次は、もっと混雑する路線で、もっと多くの犠牲が出る”と」
十津川は言った。
「間違いない。これは“偶然の事故”ではない。“何か”が動いている」
(第三章へ続く)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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