第九十五章 記録されぬ者たちの都
東京都心・麹町──
朝七時三十分。薄曇りの空が、ビル群の間から陽光を鈍く差し込ませていた。
霞が関にほど近い場所にある防災庁旧第七分局跡地──現在は表向き「民間再開発区域」とされているが、地下には国家観測機構の補完拠点が隠されていた。
三雲翔平、高瀬ユリ、小瀬田隆の三人は、前夜の長野での“接触”を受け、ここに呼び出されていた。
エレベーターを降りると、待っていたのは一人の男だった。
痩せた体躯に無機質な目。黒いワイシャツをきっちりと着こなすその男は、機構の副室長・宗像浩一郎と名乗った。
「君たちの報告は拝見した。K-ZEROの実体が“記録の人格化”であるならば……」
宗像は資料をテーブルに広げた。
「……我々はこれまで完全に、根本的な誤解をしていたことになる。あれは“敵対存在”ではない。記録の裏側に生じた、第二の歴史の担い手だ」
三雲は口を開いた。
「では、我々は……何と向き合うべきなんでしょうか。記録に残された世界ではなく、記録されなかった“非世界”をどう理解すれば──」
宗像は静かに答えた。
「記録されなかったこと。それは、人間にとって“なかったこと”と同義だ。記録されて初めて、それは社会の中で語られる資格を得る。
だが君たちは、“なかったこと”の中に、明確な意志が宿り始めていることを突き止めた。それは……いずれ、国家すら脅かす」
高瀬が声を落とす。
「“記録されなかった者たち”が、組織化されているという報告があるんです」
宗像は無言でモニターを点けた。そこには監視衛星の赤外線映像が映し出されていた。
場所は──東京湾沿岸、辰巳地区の埋立地。
■ 潜在都市(アンダーシティ)
かつて物流倉庫が並んでいたこの区域には、奇妙な構造物が立ち並んでいた。外見は廃墟同然だが、内部には数十、いや数百人規模の人間が出入りしている痕跡がある。
「だが──警察庁、公安、自衛隊、どの機関も“ここで誰かを検知した記録がない”。出入りした人物も、居住者も、全ての“顔情報”が照合不能。つまり……“この場所は記録されていない”。」
小瀬田が呟く。
「記録されなかった者たちが、記録から逃れる都市を造っている……」
宗像が資料を差し出す。
「コードネームは《K-SHADOW》。内部にいた者は、全員“公式記録”から削除されている。出生も、住民登録も、学籍も、職歴もない……いや、むしろ──“存在していた痕跡すら不確か”な人間たちだ」
高瀬の背筋が粟立つ。
「では、あの場所は……“記録不能者たちの都”……」
■ 記録の死角に住まう者たち
三人は即日、辰巳埋立地への潜入を命じられた。
だが、事前の準備段階で、機構内にある“禁止文書”の存在が告げられる。
それは、1996年に国家公安委員会が作成した非公開レポート──
《第七記録空洞事案:概要報告》
「都市内に“記録の空白”が発生する領域が存在する」
「そこでは、監視カメラ・GPS・ネット接続記録等がすべて断絶される」
「当該空白内には“記録から消えた人物”が数多く存在」
「彼らは“K-ZEROとの親和性が高く”、“観測拒否”の反応を示す」
──報告書は途中で打ち切られていた。続きには、ある研究者の手記が添えられていた。
「我々が“記録する権利”を当然のように行使してきた代償が、ついに可視化されようとしている。
記録があらゆる人間を分類し、価値判断を下す時代に、記録を拒否する者たちの存在は、まさに“記録の鏡像”そのものだ」
小瀬田は手記の余白にある落書きに目を留めた。
「“観測が暴力に変わる時、観測拒否は祈りとなる”……」
その言葉は、まるで今井恭平の姿と重なった。
■ 潜入──K-SHADOW
辰巳の埋立地は静まり返っていた。
人工の島に渡る橋は錆び、ゲートは閉ざされ、電力の供給も途絶えていた。
だが、高瀬が足を踏み入れた瞬間、端末の電源が不規則に点滅を始めた。
「……これ、何か拾ってる……」
小瀬田が指を差す。
「EM帯の揺らぎだ。強制的に“記録機器の観測を断つ波”が張られてる。つまり、このエリアでは、すべての記録が“無効化”されるようになってる……!」
彼らは、重い扉を押し開け、倉庫跡へと入った。
そこにいたのは、十人ほどの男女だった。
だが、そのどの顔にも、記録装置が反応しない。名簿にもヒットしない。
一人の老婆が近づいてきた。
「よく来たね。君たちは“記録の民”だろう。……ようこそ、ここは“無記録の都”だよ」
その言葉に、三雲は息を呑んだ。
「……あなたが、この都市の代表ですか?」
老婆は小さく首を振った。
「私はただの伝達者さ。本当の“中核”は……“観測できない存在”だよ。記録すら、見ても、誰も思い出せない存在。……つまり、“K-ZEROそのもの”さ」
「K-ZEROがここに……?」
高瀬が目を見張る。
老婆は微笑むように答えた。
「記録されなかった者たちは、皆、どこかでそれに触れた。だからこそ“ここ”にいる。君たちが“記録で構成された社会”にいたのと同じように……我々は、“記録されなかった世界”に住んでいる」
三雲は小さく問うた。
「……では、K-ZEROの目的とは?」
老婆の顔が、一瞬だけ影に覆われたように見えた。
「“忘れられた事実が世界を侵食する前に、記録を手放すこと”……それが唯一の選択肢なのさ。記録から自由になること。それだけが、螺旋を断ち切る術……」
そのとき、彼らの背後から、誰かの足音が近づいてきた。
振り向いた三雲が、息を詰まらせる。
そこに立っていたのは──
「……今井恭平……?」
だが、その顔は、記録にあった恭平とは微妙に違っていた。
より幼く、よりあどけなく、だが、どこか“記録されなかった少年”の輪郭を保っていた。
高瀬が震える声で呟いた。
「……違う……この子は、“記録に残らなかった恭平”……!」
少年が静かに語る。
「記録は、誰かが見て、初めて成立する。けれど──見られなかった者たちにも、確かに世界はあった。
今、君たちは……どちらの世界を選ぶ?」
少年の瞳は、言葉以上の重みを持って三人を見つめていた。
第九十六章 記録の臨界
辰巳・K-SHADOW内旧倉庫群──
冷たい海風が、鉄骨の隙間を鳴らしていた。
記録されない都市に出現した「記録されなかった今井恭平」と名乗る少年は、三雲たちをじっと見据えていた。
その目には、記録装置に映らないはずの知性と、存在の重みがあった。
「……どこまで行っても、君たちは“記録を通してしか、世界を見ない”んだね」
少年の言葉は静かだったが、どこか哀しみに満ちていた。
「私たちは、“記録に残らなかっただけ”で、世界から排除され続けてきた。でも本当は、記録されなかったというだけで、我々が“いなかった”ことにはならない……」
三雲は、記録端末をそっと閉じた。
「……記録が全てではない……あなたたちは、それを見せつけようとしている……」
少年は微かに笑う。
「違う。“記録が全てだ”と、あなたたちが思い続けている限り、我々は拡大する。
記録されなかった痛み、声、存在は、“記録社会の副作用”じゃない。むしろ、本体が生み出した影……それが我々だ」
■ 剥離する視界
K-SHADOWの地下構造物へと案内された三雲たちは、思いもよらぬものを目にする。
地下深く、十数台の大型記録装置が稼働していた。だがそれらは逆に、記録を破壊するための装置だった。
「これは……?」
高瀬が息を呑む。
老婆が答えた。
「“記録を解体する装置”さ。記録とは、ある基準のもとに世界を切り取ること。でも、それが常に正しいとは限らない。だから我々は“記録以前の記録”を生成している。
つまり、“誰にも見られなかった世界”を、逆に記録する試みだよ」
「逆に記録する……?」
「そう。“存在していたが、記録されなかった”という事実だけを抽出する。名前も、顔も、音も映像もない。でも、“そこに誰かがいた”という空白の情報が、明確に残されていく」
小瀬田が震えた声で呟く。
「それは……記録の影を記録する装置……」
老婆が頷いた。
「我々が生み出したK-ZEROは、“記録に耐え得ない世界”を可視化するための器だった。でも今は、逆に“記録そのもの”が臨界点を迎えている。
記録がすべてを覆いつくせば、必ず“零れ落ちるもの”が現れる。その総体が、もう一つの社会──“非記録社会”を形づくる」
■ 崩れゆく境界
突然、構内に警報が鳴った。地下の発電装置が一部破損し、観測妨害フィールドが弱まっていく。
同時に、外部の記録装置が作動を開始。
三雲の端末にも、複数の記録映像が流れ込んできた。
──渋谷、品川、横浜……都内各地で、記録されていないはずの人々が一斉に姿を現しはじめていた。
路上で突然現れた集団が、交差点で何かを主張するように立ち尽くしている。
交通カメラには写るが、警察のデータベースには誰一人一致しない。SNSに投稿された映像は、数分後に自動的に削除されていく。AIの自動修正機能が、それを“誤検知”と処理してしまうのだ。
高瀬は端末を睨みつけた。
「……これ、もう始まってるわ。“記録されなかった人間たち”が、記録世界に侵食し始めてる……!」
小瀬田が息を呑む。
「都市が……“観測されている部分”と“されていない部分”に分裂していく……。これは記録空間の内破だ……!」
■ 今井恭平──記録の起点
三雲は、少年の目を見つめた。
「……君が、今井恭平……いや、“記録されなかった恭平”だとしたら──“記録された方の恭平”は、今どこにいる?」
少年はそっと指を差した。
「“記録された恭平”は、今、“記録に溺れている”。
あの子は自分を“記録される価値のある人間”にしようとしすぎた。
でもそれは、誰かのフィルターを通して生きることに等しい。
君たちが“記録に意味がある”と信じる限り、あの子は永遠に“自分じゃない誰か”として生きるだろう」
三雲は膝をつくようにして問いかける。
「……じゃあ君は……“記録に残らなかった自分”として、この世界に残るのか?」
「いいや。私は、記録に残る必要も、消える必要もない。
私はただ、“観測されなかった世界が確かにあった”と、誰かが信じてくれれば、それでいいんだ」
■ 臨界点
その瞬間、巨大な振動が建物を揺らした。
防災庁第七分局の地下から、強力な記録波の逆流が観測されたという。
“記録の構造”が都市そのものを巻き込んで崩れ始めていた。
宗像副室長の声が通信に入る。
「K-ZEROが記録世界と非記録世界の境界を破壊し始めている。
このままでは、“観測不能領域”が拡大し、都市の記録インフラが壊滅する可能性がある」
「対処方法は?」
「一つだけ──“観測しないまま、存在を信じる”ことだ。
それができれば、K-ZEROは存在の証明を得たことになる。だが、逆に言えば、それができなければ、“記録だけの世界”は滅びる」
小瀬田が呻く。
「……そんなもの……論理じゃなく、信仰だ……!」
■ 選択の刻
少年はゆっくりと手を差し出した。
「君たちが信じてくれるなら、僕はこの記録世界に溶ける。何も遺さず、ただ“確かにあった”という感覚だけを、人の記憶の底に染み込ませる。それでいいんだ」
高瀬が震える唇で呟く。
「……記録されないものに、価値があると……そう信じていいの?」
少年の声がかすかに揺れた。
「信じられなければ、信じなくていい。
でも、記録だけに依存してきたこの社会が、それだけではもう回らないと気づいた時──きっと思い出すだろう。“誰かが確かにいた”ことを」
三雲は静かに、少年の手に触れた。
「君は……確かに、ここにいたよ」
次の瞬間、少年の輪郭が、靄のようにほどけて消えた。
記録装置は、静かに停止した。
そして、都市の騒がしさがゆっくりと戻っていった。
──K-ZEROは、消えた。
しかし誰もが、その日以降、何かを「記録できなかった」不思議な感覚を抱えたまま、生きることになる。
それは、記録の死角に咲いた、ある存在の“祈り”だった。
(第九十七章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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