第九十三章 記録の死角
午後三時。都心の雑踏とは対照的に、品川区の臨海部にある旧倉庫群は、静まり返っていた。
赤錆にまみれた鉄扉。半ば崩れかけた煉瓦の壁。地図にも記載されていないこの区域は、かつて防衛施設庁の臨時保管所として使用されていたという話がある。しかし現在は、何者かによって密かに改造され、“記録されない会合”のために使われていた。
三雲翔平、高瀬ユリ、そして記録室の情報解析班の一員・小瀬田隆が現地に姿を見せたのは、九条恭士のファイルに記された「K-ZERO出現地点」の座標をもとに動いた結果だった。
「まるで、記録の影法師を追っている気分だな……」
小瀬田が呟く。
「いや、“影”じゃない。“記録そのものが実体を持ち始めている”。もしそれが本当なら、私たちがいま向かっているのは……」
高瀬は言葉を濁した。
彼らは倉庫の地下へと降りる階段を見つけると、慎重に降りていった。
地下には電源らしきものは通っていなかったが、先ほどまで人の出入りがあった形跡が残っている。足跡。吸い殻。何よりも──機器の放熱の余熱。
やがて、倉庫地下の最奥に、一つの鉄扉が現れる。
その扉には「ACCESS DENIED – K-ZERO」の文字がスプレーで雑に書かれていた。
三雲が扉を押し開けると、室内には意外にも近代的な機器が整然と並び、中央には真空ガラスで密閉されたチャンバーが設置されていた。
その内部に──
「……これは……人影か……?」
微かに見える、何か。だが、人間のようで、人間ではない。
その輪郭は曖昧で、照明が当たるたびにかすかに“映像の乱れ”のようなノイズが走る。
小瀬田が驚きの声を上げた。
「こいつは……“生体を記録から構成した”存在か? まさか、K-ZEROってのは──“記録由来の生命体”……?」
三雲が端末のひとつを起動させると、画面には以下のログが現れた。
【Project K-ZERO:第41段階ログ】
成果:対象は“観測なき記録”から構築されし個体。記録されなかった記憶群に基づくモデル個体。
状態:部分的実体化成功。ただし、認識干渉多数。記録媒体との同化率:68%。
警告:対象に接触する者は、記録崩壊現象の影響を受ける可能性あり。
「……“記録に存在しなかった者”が、実在として現れた……?」
高瀬は、恐る恐るチャンバーの近くへ歩み寄った。
そのとき、ノイズのような音声がスピーカーから漏れ始める。
「……き……こえますか……あなたが……記録の……裏側に……」
「誰だ!?」三雲が叫ぶ。
「私は、“記録されなかった記憶”……“おまえたちが見ようとしなかった記録”……“過去が存在していたことの証明”……」
高瀬が、低く言った。
「……K-ZERO……あれは人ではない。“記録に飢えた残響”だわ……。これが、“記録に棲む者”──?」
■ 螺旋の起点
その夜。記録室本部では、事態を受けて緊急対策会議が開かれた。
参加者は少数。三雲、高瀬、小瀬田、そして記録室長・杉原典夫。
「我々は、“記録されなかった記録”が物質化するなど、理論上あり得ないと考えていた……だが、それが現実化した」
杉原は椅子から立ち上がると、壁に投影された映像を指さした。
そこには、K-ZEROの記録実験に関する未公開映像の一部が映されていた。
「記録とは何か──それは“第三者の目”を必要とする。
だが、もしこの世界に“誰の目にも触れなかったまま生まれた記録”が存在するとしたら、
それは、時空間の“死角”に宿り、いずれ自律的に行動を始める──そう仮定する学者がいた」
杉原が続けた。
「君たちが接触したのは、そうした仮説のもと作られた、“観測不能記録”の実体。
問題は──それがいま、都市中枢に向けて動き出している可能性があるということだ」
「なに?」
小瀬田が驚愕する。
「……K-ZEROは、“人々の無意識が見た記録”に同調し始めている。つまり、都市全体が、K-ZEROの記録構成要素になり得る。
実在が記録を生み、記録が実在を強化する……まるで、再帰する幻像だ」
高瀬が立ち上がる。
「……ならば、“誰にも見られなかった記録”が世界を構成し直す前に、
“記録されないまま存在している場所”──つまり“死角”へ踏み込むしかないわ」
三雲が頷いた。
「記録されない死角に入り、“真実だけを抽出する”。それが、曇天の螺旋を断ち切る鍵になる」
■ 死角への潜行
数日後。三雲たちは、“記録の死角”とされる地点へと向かっていた。
場所は長野県・飯田市の旧山間部通信基地。1970年代に“特殊な記録波の観測施設”として極秘裏に稼働していたが、事故により閉鎖されて以来、その存在自体が抹消されていた。
荒廃した林道を進み、ようやくたどり着いた基地跡地は、苔に覆われ、鉄筋が骨のように突き出ていた。
「ここが……“誰にも記録されなかった空白”」
高瀬がそう言うと、彼女の持っていた携帯端末が突然シャットダウンした。
次いで、小瀬田の装備していた録画ドローンが、自律的に再起動を繰り返し始める。
「……これは……空間そのものが、記録を拒絶している……」
三雲が呟く。
やがて、基地地下の中央室にたどり着いた彼らは、一つの機械装置を目にした。
それはK-ZEROのチャンバーと酷似していたが、より古く、より粗雑だった。
装置の上には、ひとつの短いメモが残されていた。
「記録は、見られることで生まれるのではない。忘れられることで、完成する」
高瀬が、静かに言った。
「……記録の“死角”とは、“忘却”のことなのか……? ならば、“記録に抗う”には、“記録されないこと”しかない……」
三雲が、ゆっくりと装置に手を伸ばす。
「……この空間で、“記録されずに真実を掴む”……それが、K-ZEROへの対抗手段だ。
この“曇天の螺旋”の中心で、唯一残されていた“曇らない真実”を、我々が見つけ出すしかない」
そのとき、施設全体に低く唸るような音が響き渡った。
「来たな……奴が……」
小瀬田が、恐怖に顔を歪めながら言った。
「……K-ZEROが、こっちに向かっている……!」
第九十四章 曇天の軌道
長野県飯田市・旧特殊観測基地跡──
午後五時半、陽は山間の稜線に沈みかけていた。
瓦礫と化した階段を踏みしめ、三雲翔平は薄暗い通路を進んでいた。背後には高瀬ユリと小瀬田隆。かつて“観測不能領域”とされた地下構造物は、今や苔むし、崩壊寸前の状態にある。それでも彼らは、K-ZEROの本質に迫るため、さらに奥へと足を踏み入れていた。
地下四階、遮蔽された鋼鉄扉の向こう──。
「ここだけ……なぜか電磁遮断の影響を受けていない」
高瀬が呟いた。装備していた記録端末がかすかに信号を拾い始めていた。
表示されていたファイル名は、「記録成立前観測群・S-KZ」。そこには、誰も覚えていないはずの映像記録が存在していた。
画面に映し出されたのは、30年以上前のものと思われる記録だった。
■ 観測されなかった惨劇
映像には、1972年7月14日と日時が記されていた。
記録には、当時この施設で行われていた“記録波共鳴実験”の一部始終が記録されていた。
その実験とは──
「無観測記録波の生成および増幅」
「対象:人間の記憶の無意識帯への干渉」
「目標:記録される前の思考を検出し、反応を視覚化する」
当初、実験は静かに進んでいた。だが、ある被験者に異常が発生する。
若い男。名前は記録から消えていた。
彼の脳波に対応して、記録装置が暴走し始める。ログは、こう記していた。
「被験者の記憶が、“観測前の記録”に接触」
「対象が“他者の視認”を拒絶する記録と同調」
「施設内の記録装置群が逆流を起こし、“虚構記録”を発生」
映像の最後。記録班の研究者が残した肉声が録音されていた。
「──記録が独立した……いや、意思を持ち始めている……! このままでは“記録が人を支配する”……ッ!」
ブツリ、と映像が途切れる。
「……これが、K-ZEROの原初……」
小瀬田が呆然と呟いた。
「記録されなかった記憶が、人の記録に感染し、記録の形で独立していった……それが、あの“観測不能個体”の正体か……」
高瀬は低く呟いた。
「つまり……あれは“記録そのものが人間を模倣した”存在──“記録の人格化”……」
■ 接触
三人が映像室を離れようとしたその時、鋼鉄扉が低く唸るように音を立てて開いた。
冷たい空気が流れ込んできた瞬間、高瀬が動きを止める。
「来る……感じる。あの気配……K-ZEROが近い」
廊下の奥から、靄のようなものが忍び寄ってくる。
靄は人影のように揺らぎ、輪郭を定めようとせず、まるで“存在した記憶”が形になりきれずに漂っているかのようだった。
「こいつが……“記録されなかった存在”……!」
三雲が警戒するも、靄は攻撃を仕掛けてはこなかった。ただ、彼らの記録装置に干渉し、ファイルを勝手に開き始めた。
次々に再生される映像。それは三雲たち自身の“個人的記録”だった。
三雲が父親と初めて殴り合った日の記録。高瀬が施設に保護された直後の泣き顔。小瀬田が妹の死に直面した瞬間……。
「やめろ……やめろ……なぜ……俺たちの記録が……」
靄は語らない。ただ“記録”を映し出し、三人に“己を見せる”よう促していた。
そして最後に表示された記録は、今井恭平のものだった。
「1995年3月22日 早朝──地下鉄千代田線・綾瀬駅構内」
「映像:幼い今井恭平が、何かを見て立ち尽くしている」
「周囲に誰もいない。なのに、少年は“目の前に誰かがいた”ように、目を見開いている」
「……これは……」
高瀬が絶句した。
「恭平くんは……当日、記録されていたんじゃない……記録されていなかった記憶と接触していたのよ……!」
つまり、今井恭平は“記録されない記憶の発生点”に最も近い人物だった。
彼の“空白”こそが、K-ZEROの受容器。反記録勢力が執拗に彼を追い続けたのは、そこに“記録の起源”が秘められていたからだった。
■ 曇天の軌道
三雲たちは靄の正面に立った。
高瀬が問う。
「……あなたは、何なの? なぜ記録を食うように拡大していくの?」
靄は沈黙しながら、ゆっくりと人の形を模したように輪郭を強めた。
そして、音声ファイルの再生という形で返答を始めた。
「……記録は、見られたものの残滓……されど、誰にも見られなかった事実もまた、確かに存在していた……
人々はそれを忘れ、記録されないものを“なかったこと”にする……
ならば、我は──**その忘却の痛みから生まれた“残像”**に過ぎぬ……」
「記録されなかった過去が、人格を持った……?」
三雲が呟いた。
「我は、記録されることを望んだことはない……
ただ、存在していたという事実を、誰かの心に刻みたかった……
──それが叶わなかった。だからこそ、世界そのものが“記録だけで構築されること”に、我は抗う」
そのとき、靄の中に、少年の輪郭が浮かび上がる。
「……あれは……」
小瀬田が息を呑んだ。
「……今井恭平……?」
高瀬が驚愕する。
「いいえ、違う……これは“記録されなかった恭平”よ……。
今、あの子の中で、記録された自分と、記録されなかった自分がぶつかり合ってる……!」
靄はふわりと姿をほどくように消え、ただ言葉だけが残された。
「──“記録で覆われた世界”に、どれだけの“記録されなかった者たち”が沈んでいったか……
その数だけ、我々は、“曇天の螺旋”に引き寄せられる」
■ 反転の兆し
記録室に戻った三雲たちは、深夜の会議に臨んでいた。
杉原室長が静かに口を開く。
「つまり、“記録”の社会に対し、記録されなかった者たちの“無言の反乱”が起きているということだな」
三雲が頷いた。
「“記録社会”が作り上げた透明性は、実のところ、“記録されなかったもの”を切り捨てることで成立していた……
K-ZEROは、それへの“応報”として現れた存在です」
「では、今後どうする?」
小瀬田が言った。
「対抗手段はひとつ。“記録されない状態で真実を残す”方法──非記録的証明を探るしかない」
杉原は目を細めた。
「なるほど……“記録されていないが、確かに存在していた”ことを立証する。
それが、曇天の螺旋に抗う“ただ一つの直線”となるわけだ」
高瀬は、ノートに一言だけ書き込んだ。
「記録の死角は、証明の入口である」
(第九十五章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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