第九十一章 記憶の引き金
東京・荒川区南千住──
七月末の午後、雷雲が東の空に膨らんでいた。
だが、かつて特異記録の「第Ⅱ群」に指定されていた一角──旧・都市記録補正支所跡のアパートの屋上では、別種の雷鳴が鳴り始めようとしていた。
三雲翔平は、屋上の隅に設置された簡易アンテナから引かれたケーブルを手に、ポータブルデータデコーダを起動させた。
傍らでは沙耶が、記録室のラップトップを広げてアクセスログを監視している。
「受信始まった……。波形、異常なし。周波数帯域……これは記録用の、旧型のアナログパルスだ」
「岡山の“補完装置”で拾った信号と一致する?」
「いや……むしろ、それ以前。補完以前の、生記録信号。しかも、リアルタイムで送られてきてる」
沙耶は眉をひそめた。
「……誰が今、そんな信号を送ってるの?」
三雲は答えず、デコーダに耳を傾けた。
雑音に混じって、低く押し殺されたような声が断片的に聞こえてきた。
「……第七層、侵入……反応群、移動……座標再設定……」
「……彼らのうち、記録耐性値の高い者は、逆反応を示し……」
「これは……」
三雲の表情が険しくなる。
「記録処置の実験現場そのものだ。“誰か”が、あの現場にいた。“生”の声を記録していた……しかも今、それを我々に送っている」
沙耶は不意に唇を噛んだ。
「……つまり、“記録室”の外に、もう一つの“記録を持つ者”が存在するってことね」
- ■ 不可視の観測者
その夜、神楽坂の旧料亭跡に設けられた記録室の仮本部では、高瀬ユリが一人の訪問者と対峙していた。
男はスーツ姿で、明らかに政府関係者ではなかった。
しかし、その身のこなし、眼差しには、長年情報機関で鍛えられた者特有の緊張感があった。
名は、佐々木修一郎──元・内閣情報調査室の“深層特任班”所属。
現在は引退したとされていたが、実際には“記憶操作プログラム”の初期開発に関わっていた技術者の一人である。
「貴女が記録室の“記録回収班”責任者、高瀬ユリさんですね」
「元公安の人間に、フルネームを呼ばれるとは思っていませんでした」
佐々木は静かに微笑んだ。
「お互い、記録に呑まれた者同士でしょう。“記録を持つ側”と“記録される側”の、ね」
高瀬の目が細くなった。
「目的は?」
「“記録を守るため”です。いや、より正確には、“記録に寄生する記憶”を摘出するためと言ったほうがいいでしょうか」
佐々木は、鞄の中から古びたマイクロテープを取り出した。
「これには、1995年から1998年にかけて行われた“潜在人格実装実験”の録音記録が入っている。
あなた方が補完装置で回収した情報と照合すれば、“嘘の記録”と“本物の記録”の境界が明らかになるはずだ」
「なぜ、それを今?」
佐々木はふと視線を逸らし、低く言った。
「“彼ら”が動き出したからです。“記録そのものを創る者たち”が──再び、“反記録の実行者”として」
- ■ 偽記録の生成装置
深夜、記録室のセキュアサーバー内で、異変が起きた。
画面に次々と表示されるのは、RECORDS-Jの内部構造。
赤松がキーボードを叩く指を止め、静かに叫んだ。
「これは……模倣じゃない。“RECORDS-J”は、完全な“記録複製装置”として機能し始めてる。
しかも、我々のログを模写して、そこに“異なる記憶”を混入させてる……まるで、記録そのものを“塗り替える絵筆”みたいに!」
沙耶が焦った表情でアクセス履歴を追う。
「この改変速度……人間の手じゃない。AI補助型。いや……もしかして、“記憶入力型機械学習装置”?」
三雲が声を上げる。
「“KIKURO”……九州大学の旧型AI。記録室でも設計ベースにしてた、あの実験モデルか……!」
「つまり、奴らは“過去に人が見た記憶”を元に、新しい“もっとらしい過去”をリアルタイムで創っているのよ……」
赤松が言った。
「次の“記憶撹乱戦”は、“嘘を暴く”ことじゃない。“もっともらしい嘘”を、“信じさせない技術”を持ってるかどうかだ」
- ■ “消された少年”の真相
翌朝、岡山の補完装置からの復元作業が続く中で、決定的な証拠が浮かび上がった。
沙耶が復元された映像を止める。
「……これ、見て」
そこに映っていたのは、1999年当時の“記憶矯正プログラム”現場。
ベッドに寝かされた少年。その名は、今井恭平──かつて“反応性記録変異例”として報告され、行方不明とされた人物だ。
だが、映像の最後。担当職員が、呟く。
「……今井くん、後遺症は残るが、“操作”は失敗したな。記録が再生されない。だがまあ……抹消扱いでいいだろう」
そして、その映像に記されていた再生コード。
「C-813-BG──まさか……」
高瀬が震える声で言った。
「これ……“我々が今、操作されようとしている記録コード”と一致してる」
沙耶が震える手で口を押さえた。
「……つまり、“今操作されている記憶”の原型は、“恭平くん”の失敗から始まってる?」
赤松が低く言った。
「“失敗した記録”こそが、“新しい記録の起爆剤”になってる。
あの時、操作できなかった少年の“無操作領域”が、いま“記録の空白”として作用し、
奴らにとって最も都合のいい“記録書き換え”の“起点”として利用されている……!」
- ■ 分裂する記録
記録室に緊張が走った。
三雲が深く息を吐いた。
「いよいよ、“記録の分裂”が始まった。“本当だったかもしれない過去”が、独立して歩き始めてる」
赤松が静かに呟いた。
「記録は、過去を保存するものじゃない。“未来に向けて過去を再構築する機械”なんだ。
だからこそ、記録の奪い合いは、未来そのものの争奪なんだよ」
沙耶がその言葉を繰り返した。
「記録の奪い合いは、未来の争奪……」
そのとき、ラップトップの通知音が鳴る。
差出人不明のファイル。中身は、動画ファイル一つだけ。
タイトルは、「記録は誰のものか」
画面には、顔を隠した一人の人物が映っていた。
そして、静かに言った。
「記録室も政府も、どちらも“記録を管理しようとしている”存在にすぎない。
だが……“記録とは、記憶をもたぬ者にこそ支配される”ことを、忘れてはならない」
三雲が低く呟いた。
「始まったな……“記録の真正性”をめぐる、最後の戦いが」
第九十二章 罠の構造
神奈川県・相模原市、旧知的障害者施設跡──
鬱蒼と茂った雑木林を抜けた先に、赤茶けたコンクリートの建物がひっそりと残っていた。
その建物は、かつて厚生労働省が監督していた特別矯正施設──通称「記憶隔離区画」だった。
一九八〇年代末期、政府とある研究団体が共同で行っていた“記録強制除去”実験の主たる舞台。現在では廃棄施設として地図からも抹消されていた。
三雲翔平と沙耶、高瀬ユリの三名は、その地下区画に足を踏み入れていた。
理由は一つ──“記録を加工された人物たち”がこの地に集められていたという匿名告発が、記録室の匿名通報システムを通じて送られてきたからだ。
照明の落ちた通路を、懐中電灯の光がなぞる。
「妙だな……この施設、電源が完全に死んでるわけじゃない。補助回路が作動してる」
三雲が呟く。
壁の一部がわずかに温かい。誰かが最近になって、この施設を再利用している気配があった。
やがて彼らは、地下三階の一室にたどり着く。
扉のプレートには消えかけたペンキで、こう記されていた──**「対記録反応実験室D-4」**
高瀬が鍵を慎重に解除し、中へ足を踏み入れると、部屋の中央に奇妙なものがあった。
巨大な鉄製の椅子。両脇に電極。頭部には記録投影装置と見られる輪状の器具。
「……記録挿入装置の初期モデルか……」
沙耶が息を呑む。
「これ、恭平くんが処置されたものと類似してる。まるで、“記録そのものを身体に流し込む”ような装置……」
三雲は、椅子の下に落ちていた破れかけたメモを拾い上げた。
《記録入力対象:KYOHEI I./挿入信号:C-813-BG/副反応:精神断裂・記録非保持》
「……これは……」
「完全に一致してる。今井恭平。やっぱりここで“記録を書き込まれようとした”のね……。だけど、その操作は失敗して、結果的に“彼の中に空白”が残った」
高瀬は、静かに付け加えた。
「その空白こそが、今、RECORDS-Jの記録改変にとって“最も都合の良い核”になっている。
“誰にも記録されなかった部分”……そこに、何でも上書きできる余白がある」
- ■ 監視者の影
その日の夜。神楽坂の記録室本部。
赤松慎吾は一人、旧JIC(内閣情報調査室)から提供されたログデータを解析していた。
その中に、ひときわ異質なログがあった。
【記録コード:R-XZ-14-α】
観測対象:記録室回収班動向/挿入記録:不明/備考:定期送信対象
「……これは……我々の行動ログ? いや、それにしては不自然だ」
赤松は眉をひそめた。
このコード、記録室の公式ルートからは生まれていない。
むしろ、記録室の存在を“観察している”第三者が記録していたような体裁。
「誰が……?」
そのとき、別端末が通知を表示する。
【Subject: FILE TRANSFER COMPLETE】
From: Unknown
Title: “記録の観測者へ”
ファイルを開くと、そこには一枚の画像データと、極めて短い文章があった。
「“記録を見る者”は、すでに“記録される側”に落ちている。君たちは、観測者ではない。
──“記録に棲む者”であると、いずれ気づくだろう」
赤松の頬を汗が伝った。
- ■ 仮想の記録室
翌日。記録室では更なる異変が続発していた。
全国の大学図書館、地方新聞社、行政アーカイブスの一部にて、**“記録されていない事件の記録”**が次々と発見され始めたのである。
例──
- 「1994年・新潟強制隔離事件」:存在しないはずの大規模集団記憶削除案件。
- 「1997年・仙台地下鉄崩落事故」:実際には起きていない事故にも関わらず、記録映像が存在。
- 「2001年・東海記録中枢の自爆装置起動未遂」:報道履歴なし。しかし、その記録が“検索可能”状態に。
沙耶は震える声で言った。
「……誰かが“記録を発掘する”ふりをして、“虚偽の記録”を社会に紛れ込ませてる……。しかも、人々はそれを自然に受け入れてる」
三雲は拳を握った。
「つまり……“記録の構造そのもの”が改変された。
過去はすでに、“記録に忠実であること”を求めていない。“もっともらしさ”こそが真実にすり替わっている」
高瀬は、低く言った。
「……“真実よりも記録が優先される社会”。
これが、“反記録勢力”が最初から目指していた“虚構優位の現実”」
- ■ 罠の記録
同じ頃、三雲のもとに一本の連絡が入った。
差出人は、かつて記録技術研究班に所属していた人物、九条恭士。
今は隠遁していたはずの男が、突然「話したいことがある」と連絡してきた。
待ち合わせ場所は、文京区・根津の小さな教会。
夜、三雲と沙耶が現地に赴くと、彼はすでに待っていた。
「君たちは、まだ“記録の表面”しか見ていない」
九条はそれだけ言って、小型のハードディスクを差し出した。
「ここには、“記録以前の記録”がある。“記録を書き込むための記憶”……。それがどう作られ、どう定義されているかを記した“設計書”だ」
三雲は言った。
「なぜ、今それを渡す?」
「もはや私にも分からない。ただ、君たちが“記録の中に埋もれてしまう”気がしてならない。
“記録を見る者”のつもりが、気づけば“記録される対象”になっている──そういう罠が、すでに構造として張り巡らされている」
その言葉に、沙耶の背筋が凍った。
- ■ 記録に棲む者
その夜、記録室の仮本部に戻った三雲たちは、九条から受け取ったファイルの解析に取り掛かった。
中には、膨大な数のマニュアル、テスト記録、プロトコルが含まれていたが、最も異様だったのは、一つのファイルだった。
タイトル:「K-ZERO:記録の起源」
開くと、そこにはこう記されていた。
「K-ZEROとは、“誰にも記録されなかった最初の記録”である。
すなわち、記録とは、他者の目を通じて初めて存在する。
それゆえ、“最初に誰かの目に触れなかった記録”は、今も世界のどこかに、潜在的に存在している。
“曇天の螺旋”とは、“その記録が実体化するための構造”を意味するコード名である」
高瀬が震える声で呟いた。
「……私たちは、その“実体化”の過程に巻き込まれていた……?」
三雲は目を閉じた。
「記録が過去を決めるのではなく、記録が“人を決める”。
そしていま、“記録そのものが生命のように、意思を持ち始めている”──」
沙耶が静かに口を開いた。
「……ならば、私たちが戦っているのは、ただの“情報改竄”じゃない。
“意志を持つ記録”との戦い──記録が記録を食い、嘘を真に変える、そんな“螺旋”の中にいるのよ」
三雲は頷いた。
「ならば、次に必要なのは……“記録の死角”だ。“記録に残らない真実”を掘り起こす。それだけが……奴らに対抗できる最後の手段だ」
(第九十三章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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