第八十九章 断層
長野・上田市、旧電波観測所──
赤松の手元で、帝太一が遺したUSBメモリがわずかに震えた。
瞬間、床下の電磁波制御装置が低くうなり、部屋全体が微細に振動した。
「セキュリティ・アラート。……誰かが施設の周囲に侵入している」
三雲が眉をひそめた。
「記録室の位置を知られていたのか?」
帝──いや、“名を捨てた男”は静かに言った。
「この施設の周波数観測機能は、記録と連動している。私の記憶が“アクセス”された瞬間、施設は存在を発信した。……これは、迎えの合図でもある」
沙耶が身構えた。
「“RECORDS-J”か……」
帝はうなずいた。
「彼らはすでに“模倣記録”を完成させている。そして今度は、本物を取りに来る。
模倣を本物にするには、本物を“消す”必要がある。……私を含めて、な」
■ 鏡像の侵入者たち
そのとき、階上で破壊音が鳴り響いた。
三雲と沙耶が即座に拳銃を抜き、階段へ向かって構えた。
暗闇の中、無言のまま降りてきた男たち。
顔には無表情なマスク、服装は政府職員と見まがうほど整っていた。
「動くな!」
三雲の声に、男たちは止まらなかった。
むしろ、一人が前に出て、ゆっくりと手を上げた。
「我々は、“記録訂正管理局”──あなた方と同じ、記録を守るための者たちです」
赤松が低く問う。
「“訂正”という言葉が、何を意味するか分かっているのか?」
「当然です。……記録は時と共に腐敗する。人間の記憶もそう。あなた方のような“保存主義者”では、記録は重みに耐えきれずに崩壊する」
別の男が、奥から銃を構えながら言った。
「だから、必要なのです。“模倣の力”が。“記録の更新と清掃”こそが、この国の過去を整える」
帝が目を閉じて呟いた。
「……来たか。かつての私が恐れていた、“記録の清掃人”たちが」
■ 再生される記録
赤松は一瞬の隙をついて、USBを端末に差し込んだ。
モニターが点灯し、記録データの再生が始まる。
【ZETA:記録構造体001】
記録者:帝太一
内容:1998年12月、「国際記憶技術会議」にて発表予定だった国家的実験「REM構想」の概要と中止過程。
「REM構想……?」
沙耶が顔をしかめた。
「REMとは、“記憶の選択的編集を国家単位で管理する”構想。対象国民を“記録参照”から切り離す技術だ。……記録室の原型は、この中にあった」
赤松が声を震わせる。
「つまり我々は、元々“削除のため”に設計された器だった……」
■ 最後の選択
突如、記録ファイルが自動変換を開始した。
【ZETA-EX】
「閲覧者に対する判断を要求します」
・この記録を“公開”する
・この記録を“封印”する
・この記録を“転送”する
赤松の手が止まる。
帝は言った。
「その選択は、記録の未来を決める。公開すれば、国家は大混乱に陥る。
封印すれば、同じ記録改変が繰り返される。転送すれば──“RECORDS-J”が受け取る可能性もある」
三雲が唇を噛みしめる。
「……この国の過去は、どこまでが“真実”だった?」
帝が静かに答える。
「それは君たちが、これから決めることだ。
記録は、誰が読むかによって“意味”を変える。“客観的な記録”など存在しないのだよ」
■ 銃声
そのとき、突如として銃声が響いた。
偽装記録派の一人が撃たれ、床に崩れた。
背後の出入口から、高瀬が現れた。
「赤松さん、急げ! サーバーにアクセスして“ZETA”を複製中! 全て終わる前に、決断を!」
赤松は歯を食いしばった。
「……よし、転送だ。だが、“記録室自身”の手で、別サーバーへ送る」
「公開しないのか?」
「今公開しても“偽記録”に飲まれる。ならば、未来に託す」
キーボードを叩きながら言った。
「“ZETA記録”、仮想サーバー“MNEMOS-9”へ転送開始。認証コード、記録室新設主任・赤松孝行」
送信バーが点灯する。
敵も味方も、ただその行方を見守った。
送信完了。
■ 崩壊
その瞬間、施設の制御系が異常を検知し、爆破防止のための自壊システムが作動した。
「退避だ!」
赤松、三雲、沙耶、高瀬――そして帝を連れ、彼らはかろうじて施設を脱出した。
背後で、観測所は白煙をあげながら沈黙した。
■ 夜明け前
山を降りた一行は、麓の仮設拠点に集まった。
高瀬が尋ねる。
「……あれで、よかったんですか」
赤松がうなずく。
「未来に読む者がいればいい。……我々の時代が選べなかったことを、選ぶ者が」
帝は、静かに目を閉じた。
「記録は終わらない。ただ、“書き続ける者”が必要なだけだ」
第九十章 引き継がれる闇
都心の地下――
赤松が再び“記録室”の中枢に足を踏み入れたのは、深夜三時を回った頃だった。
室内には、わずかな照明が灯るだけ。
天井に設置されたモニターの群れが、断片的な記録映像を映し出していた。
2002年、2010年、2023年……
その時代ごとの“事実の切れ端”たちは、まるで沈黙のまま何かを訴えかけてくる。
赤松はデスク端の端末にログインし、キーワードを打ち込んだ。
#記憶処理継承系統図/国家保安指定L群
数秒の沈黙ののち、現れたのは一枚のフローチャート。
だが、それは系統図というよりも、複雑に絡み合う蔓のようなものだった。
国家公安庁・警察庁・総務省・自衛隊情報本部……
それぞれが「独立した形で処置を行いながらも、情報だけは一元的に管理されていた」。
そして、その中心に浮かび上がる一つの名称。
――《阿久津征二》
「やはり、ここに繋がっていたか」
かつて総務省情報流通局に所属していた阿久津征二。
記録改変技術の“最初の実務運用責任者”にして、2004年に謎の失踪を遂げた男。
だが、その“痕跡”は至るところに残されていた。
■ 地下八階「第零封鎖室」
高瀬ユリは、国家記録センターの立入制限区域にいた。
機密区画“地下八階”――通称「第零封鎖室」。
ここは、実質的に国家が情報の“神域”とした場所だった。
存在そのものが明かされることのない“記憶の骨壺”ともいえる。
高瀬はIDカードを差し込むと、鉛のような重い扉が開いた。
中にあったのは、極端に古びた記録媒体――磁気テープ、βマックス、DAT、そして紙のカルテ。
埃を払うように一つずつ棚を辿っていくと、背面に貼られたラベルが目に留まる。
「処置番号:AKTS-001」
「施行官名:阿久津征二」
「記録対象:1985年以降に出生した全国抽出群(A-12系)」
高瀬はそのまま膝を折って崩れ落ちた。
「……始まりは、ここだったのね」
彼女自身の“幼少期の記憶”にある違和感。
母の死、再婚した義父、転校、そして“ある日から突然消えた時間”。
全てが“この記録系統”に内包されていた。
■ 録音された「命令」
岡山にいる沙耶は、研究所跡地から持ち帰った古いボイスレコーダーの解析を終えていた。
音声には、男性の声が記録されていた。
その声は、甲高くも低音を含み、断定的で、しかし何処か壊れかけた機械のようだった。
「――対象群B、応答反応不全。再記録処置を“以後世代”に委譲」
「我々は“記録する手”であって、“判断する手”ではない」
「記録を残すこと。記録を埋めること。記録を……奪うこと」
「この声……もしかして」
赤松がファイルを確認する。
「一致している。音声のパターン、呼吸の癖……これは“阿久津征二”本人だ」
沙耶は震えるように言った。
「じゃあ……彼は、生きてるの?」
赤松は静かに首を振った。
「生きている、とは限らない。
だが、記録そのものが“彼を生かし続けている”のかもしれない」
■ “偽の記録室”の招待
その夜、記録室のメンバー全員に、一斉メールが届いた。
差出人不明。
件名は、「RECORDS-J:審判の記録へようこそ」
本文にはこう書かれていた。
“あなたたちは本当に真実を知っているのですか?”
“記録室”は“誰かの記録”を引き継いだだけではないか?”
“次の記録は、あなたたちの中で始まっているのではないか?”
高瀬はメールの末尾に記されたIPアドレスに気づいた。
それは――北海道・天塩郡のとある廃病院のサーバーだった。
■ 田ノ上の“後継”
その頃、東京都内の別の場所。
かつて記録操作の直接執行者だった田ノ上道雄の名前が、再び捜査線上に浮上していた。
だが彼は既に他界しているはずだった。
2009年、山中で“焼死体”として発見された。
だが、火葬記録もDNA鑑定も、どこか“曖昧”だった。
記録室の調査員・榊は、東京医科歯科大学の一角にある解剖記録の保管庫で、一つのカルテを発見した。
「死体は別人。下顎骨の一致率が大きく乖離しています。……つまり」
「誰かが、“田ノ上”を死んだことにして、どこかに“隠した”」
榊は口元を固く結んだ。
「そして今、その“後継者”が、国家と記録室を同時に揺さぶっている」
■ 阿久津征二の“意図”
翌朝。
赤松は再び、地下の記録室で一つのファイルを開いていた。
「記録番号:X-0040」
「記録提供者:匿名」
「内容:阿久津征二の“未発表草稿”」
それは、手書きの走り書きがスキャンされたものだった。
「我々は“記録”を道具にしてきた。だが、“記録”が意志を持ち始めた時、それは人間を制御し始める」
「記録とは、人間の“影”であり、“影”は時として実体を食い尽くす」
「その時、真実は“書き残された虚偽”の方に宿ることになるだろう」
赤松は、書き込みの最後の一文を見つけて震えた。
「もしこの記録が発見されたなら、それは“次の継承者”の前にある。
そしてその継承者とは、“自らの記録を信じない者”である」
■ それぞれの記憶へ
物語は、一人一人の記憶へと向かい始めていた。
沙耶はかつて忘れていた兄の名前を、夜の廃墟で思い出した。
高瀬は失われた8歳の記憶を、自らの夢の中に探し始めた。
榊は、“記録されなかった死”の存在を知り、言葉を失った。
そして赤松は――記録ではなく、“記録されなかった人生”に価値を見出しつつあった。
「記録とは、誰かが残す“記憶の地図”だ。だが、それを歩くのは――」
彼は画面を閉じ、深く息を吐いた。
「……俺たち自身だ」
(第九十一章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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