第八十五章 影の検証者
東京・神田――
灰色の空から細かな雨が降り続いていた。
記録室仮設拠点。
防音処理の施された地下の一室で、赤松は独りきり、光の漏れぬディスプレイを前に座っていた。
画面には、例の“模倣サイト”――《RECORDS-J》が映し出されている。
「三雲翔平、2001年7月、米サンディエゴにて“記憶提供契約”署名」
「高瀬ユリ、2003年以降、内閣情報調査室の協力要員として活動」
――すべて、実際の記録では確認されていない記述だった。
だが。
「文体、語彙選択、段落構成、証言者の呼吸まで……我々の手口を熟知している」
背後の闇の中から、静かに三雲が現れた。
「どうやってここまで似せられる?」
赤松は、マウスを握る手をゆっくり止めた。
「“影の検証者”が動いている。かつて我々と共に記録に携わっていた者たち……あるいは、我々の記録技法を学んだ連中がな」
三雲は眉をひそめた。
「裏切り者がいるということか」
赤松は目を細め、口を開く。
「いや、裏切りとは言い切れん。奴らは“もう一つの正史”を提示しているつもりなんだ。
……つまり、“虚構の正義”を構築するための、体系的な改竄だ」
■ “設計された異説”
その日の昼過ぎ。
記録室本部では、沙耶が《RECORDS-J》に記された全項目をデータベース化していた。
一つ一つの文が、丹念に構築されている。
明らかな捏造でありながら、それを裏付ける“証人の声”まである。
「赤松さん。これ……どう思います?」
沙耶は一つの動画を再生した。
【2002年6月撮影】
映像内で男は語る。
「ええ、確かに高瀬ユリという名の女性を知っています。
彼女は、記憶処理に関する国家プロジェクトに関わっていた。自ら、処置に参加していたと……そう聞いています」
しかし、この“証言者”の人物は記録室が長らくマークしてきた「架空構成証言者・T-09」に一致していた。
沙耶は言う。
「この男、“実在しない”んです。過去に何度も他の“捏造記録”で目撃されています。
……つまり、これは“組織的な証言合成”です」
赤松は頷いた。
「奴らは、“真実のレイヤー”を模倣することで、虚構を現実に変えようとしている」
「目的はなんでしょう」
「記録室の信用失墜。……そして、“記録そのもの”の曖昧化だ」
三雲が呟く。
「“誰も何を信じればいいのかわからなくなる”ように、地盤を崩す作戦……」
■ “光学協会”と反証者
午後三時。
旧・光学応用研究協会の一室で、かつて赤松が師事していた記録照合技術者・戸倉伸一が、沈黙を破って語り出した。
「これは……記録の“対影形成理論”に基づいた実践だな」
「対影形成理論?」
「記録には必ず“光”と“影”が生まれる。
その“影”――つまり、参照されない断片、意図されざる証言を拾い上げ、
あたかも“もう一つの全体像”であるかのように再構成する理論だ」
赤松は腕を組んだ。
「つまり、“反証されにくい曖昧な記録”だけを切り出し、積み重ねている……」
「その通り。そしてこれは、君たちの記録照合手法を熟知した者の仕業だ。
おそらくは、“元・記録班”の誰かが関わっている」
■ 潜入と“記録崩壊”の兆し
その夜、赤松と沙耶は、東京湾岸のデータセンターに潜入していた。
《RECORDS-J》のホストサーバが一時的に物理アクセスを許している時間帯だった。
赤松がデータ筐体の裏側に設置された一枚のSSDを発見する。
「ここに、“一次編集データ”が残ってるはずだ」
取り出されたデータの中には、作成途中の記録断片が並んでいた。
その一つ。
「記録室、2005年11月以降、公安と連携し“誘導証言”の演出に関与」
沙耶が読み上げる。
「これは……我々を“演出者”に貶めようとする罠ですね」
赤松は目を細める。
「それも、“我々自身の罪”を強調するような作り方だ。
やがて、“真実を語った者こそ操作側だった”という構造を形成しようとしている」
「……記録崩壊ですか」
「いや、もっと深い。“記録という概念そのもの”の解体だ」
■ 検証のための戦い
翌朝。
記録室のメンバー全員が集められ、赤松は新たな方針を発表した。
「《RECORDS-J》に掲載された“すべての偽記録”について、
我々自身の記録と照らし合わせ、“影の痕跡”を検証する。
検証過程とその記録も、公開する」
三雲が口を開く。
「対決姿勢ですか?」
「違う。“対照”姿勢だ。
虚構と真実を並べ、“何がどう違うか”を説明する。
……それが、我々の“透明性”であり、“信頼性”の土台になる」
沙耶が頷いた。
「証拠がすべてであるということですね」
赤松は静かに言った。
「証拠という概念そのものが、問われている。
この戦いは、“記録とは何か”という、根源に迫るものになる」
■ 闇の中の対話
その夜。記録室本部のサーバーに、一本の不明ファイルが届いた。
タイトルは「MIRROR_CONVLOG_01」。
開くと、音声ファイルだった。
男の声で、こう言っていた。
「赤松和志へ。君はまだ“記録に意味がある”と思っているのか?
“記録されるもの”など、すべて“編まれた時間”だ。
……我々は、君たちの“記録幻想”を終わらせに来た」
赤松はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がり、呟いた。
「来いよ。記録とは幻想であり、同時に、現実だ。
……お前たちが“壊す”というなら、俺たちは“編み直す”。
記録は、闘争の記録でもある」
第八十六章 偽装の風景
夜、赤羽台団地の一角――
かつて、内閣調査室の外郭研究所として存在していた「日本感応心理研究センター」。
今は廃墟同然のその建物に、ひとつのノートPCが静かに起動された。
画面には、あの模倣サイト《RECORDS-J》。
そしてその裏に接続されている管理画面のURLが表示される。
操っているのは、白髪交じりの細身の男。
名は矢作達哉。かつて記録室の前身である「文書照合室」に属していた、赤松の先輩だった。
矢作は、記録というものを「物語の器」と定義し、実証性より“物語性”の強度を優先する思想を持っていた。
「お前たちは、まだ“真実”を掘り起こすつもりか……」
矢作は呟きながら、証言改変のスクリプトを動かした。
その名も、“交差証言再合成システム”。
証言の発話者、文体、録音時間、映像の目線、音響ノイズ――
すべてを“本物らしく”組み替え、記録に“現実の重み”を模倣させる仕掛けだった。
■ 検証会議──記録の十字路
その頃、記録室本部の仮設会議室では、深夜に及ぶ検証会議が行われていた。
ホワイトボードには、模倣記録《RECORDS-J》に掲載された“38件の虚偽証言”の内訳と、
それらが本来の記録とどのように食い違うかが一覧化されていた。
「問題は、この“差分”の粒度です」
沙耶がレーザーポインタで一点を示す。
「完全な虚偽ではなく、“正しい記録”に“微細な改変”を加えている。
しかもその改変の箇所が“検証困難な領域”ばかりなんです」
赤松は腕を組みながら頷いた。
「事実を完全に捏造するのではなく、“疑いの余地”を持たせてくる……。
それが奴らの最大の武器だ」
三雲が口を挟む。
「これ、内部の人間でなければ不可能ですよ。
記録の保存方法、非公開証言の構成、我々の編集ロジック――全部知っている」
「つまり、“内通者”の可能性がある……」
赤松はそう言うと、壁際に立てかけられたファイルを一冊手に取った。
「文書照合室・1996年度メンバー名簿」
その中には、ある名前があった。
――矢作達哉
「いたな……“物語性の優位性”を主張していた男だ」
■ 矢作の論理
数日後、沙耶が特定したIPアドレスから、都内某所のプロバイダー拠点が判明した。
三雲と共に向かったその場所は、赤羽台団地近くの小さな郵便受け番号――
そして、その先の部屋で、矢作達哉は彼らを待っていた。
「ようやく来たか、赤松は来なかったのか?」
「あなたが、“RECORDS-J”を作ったんですか」
沙耶が真正面から問う。
矢作は小さく笑った。
「違う。“私が作らせた”のだよ。今は優秀な協力者たちがいる。
だが、基本構成は私の理論で動いている。――“実証は真実に劣る”という、記録工学の逆説だ」
「それは詭弁です。あなたは“真実の代替品”を作っているだけだ」
「その“代替品”を選ぶ人間が、現に存在する以上、それは記録になるんだ。
君たちの信じる“記録”こそ、幻想に過ぎない。政府の編集も、君たちの保存も、どちらも“物語”でしかない」
三雲が低く言った。
「だから潰すのか。“記録という概念”そのものを」
矢作は目を細めた。
「潰すのではない。“置き換える”のだ。
物語を、物語で上書きする。
記録とは、常に“どちらの物語が強いか”の勝負なのだから」
■ “補助記録”の闇
その夜、記録室では矢作にまつわる過去の記録を調査していた。
彼は2005年まで、正式に記録室に在籍。
その後、姿を消し、複数の“協力証人”として裏で記録捏造に関わっていた形跡がある。
さらに、“補助記録”という名目で、一部のデータを自ら改変していた記録が見つかる。
「これは……彼がすでに15年以上前から、“記録撹乱”の実験をしていた証拠です」
沙耶の声が震える。
「まるで……“現在の崩壊”を予測していたようにさえ見える」
赤松が呟く。
「矢作は、記録という“制度そのもの”に仇なしている。
だがそれは、理念の破壊ではない。理念の再設計だ」
■ 決裂
翌日、再び矢作に会いに行った赤松は、最後通牒を突きつけた。
「君がやっていることは、“正史の解体”ではなく、“記憶の破壊”だ。
それは、記録室にいた人間がやるべきことではない」
矢作は一瞬、寂しげな表情を浮かべた。
「赤松……君はまだ、記録に“倫理”を求めるのか。
私はもう、記録の中に人間を信じていない」
「ならば、君に勝たねばならない。記録を守るのではない。“記録を信じる人間”を守るために」
矢作は立ち上がり、背を向けた。
「いずれ分かる。“人間は記録に勝てない”ということを」
(第八十六章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
コメント