第八十三章
- 封印の顔
東京・千代田区某所。元・特定調査官の連絡拠点。
午後十一時を過ぎた時刻。赤松と高瀬は、半ば廃墟のような旧ビルの一室を訪れていた。そこはかつて、内閣情報調査室の外部協力者が秘密裏に使用していた“非公認通信拠点”だった。
天井から垂れ下がった配線、壁に埋もれた紙ファイル、錆びついた金庫。時が止まったような空間だった。
高瀬が金庫の前にしゃがみ込むと、複数の封筒が取り出された。封筒の表には「M.T.K. 1995–2003」とだけ記されていた。
「……M.T.K.。これは、室戸貴春のコードネーム“Marquis-Takehisa-Kage”の略ね」
赤松がうなずく。
「室戸が作成したとされる“内部記録操作マニュアル”の原本が、ここに保管されていた可能性が高い」
封筒を開けると、中からは複数のマイクロフィルム、古いZIPメディア、そして紙媒体の記録ログが現れた。
「……これは?」
「1998年3月14日付、文書操作プロトコル“Reverse-Mirror_03”」
「……この日付、例の“第四群少年転移事件”の直後です」
高瀬が唇を噛む。
「つまり、あの事件は“室戸の記録偽装モデル”が試験適用された最初のケースだった……?」
「可能性が高い」
赤松の指が、マニュアルに記された一節をなぞる。
“事実は削除できない。しかし、“参照経路”を操作すれば、事実は“到達不能”にできる。”
「これだ。彼がやろうとしたのは、“記録の隠蔽”じゃない。“記録へのアクセス権そのもの”を社会から奪うという、根本的な記憶隔離操作だったんだ」
- ■ 永田町・再起動される“管理系”
翌朝。内閣官房地下「特別保全室」。
柴山副長官は、前夜の記録室発表に明確な危機感を抱いていた。
「……赤松たちは、“映像の連続性”という一点で我々の管理線を突破した」
隣に座る黒服の男、情報管理局次長の斎藤が口を開く。
「第Ⅲ群記録の“半公開”は、むしろ逆効果だった。奴らに“全体”の中の“端緒”を与えただけだ」
柴山は腕を組む。
「では、どうする?」
「“参照系”を遮断します」
「参照系?」
「はい。奴らが使用している“前後のつながり”こそが、記録の信頼を担保している。ならば、そこを破壊する」
斎藤が提出した資料には、《Secondary Disruption Protocol》の文言が記されていた。
「これは……“記録の系譜”そのものを無効化する技術か?」
「正確には、過去の記録同士の“時系列的一貫性”を崩す操作です。“何が前で何が後か”が不明になれば、映像は証拠足り得なくなる」
柴山はしばし沈黙し、やがて言った。
「……“鏡を割る”というわけか」
- ■ 記録室内・裏切りの兆候
午後、記録室第2セクション。
沙耶は、ネットワーク内に奇妙な挙動を発見していた。
「赤松さん、今朝五時のデータベース自動同期ログ……通常と違うパスが通ってる」
赤松が振り向く。
「どこからのアクセスだ?」
「“編集権限あり”。しかも、それは……三雲さんのアカウントです」
高瀬がすぐさま三雲のオフィスに向かった。
だが、そこには誰もいなかった。
机の上には、ノートPCと一通の封筒。中には手書きのメモがあった。
「私は、室戸に会いに行く。彼が全ての起点だ。
君たちが追っているのは“記録”だが、私は“その記録を作った動機”に触れたい。
それが、もう一つの真実になるかもしれない」
沙耶が読み終えると、赤松が呟いた。
「……彼は、“記録の外”に向かおうとしている」
- ■ 南方、偽装された証拠
三雲の行方を追う中、記録室に一本の通信が入る。
発信元はインドネシア・スマトラ島メダン近郊。地元公安筋からの情報だった。
「日本人と思われる男が、数日前から現地の記録収集所を訪れている。彼は“1996年の国際記録交換会”の関連文書を探していた」
「……1996年。あの年に開催された“第三国際記録連携会議”か」
赤松の顔がこわばる。
「そこに参加していたのが……室戸貴春」
「ということは、三雲は室戸の国際記録工作に直接迫っている……」
その夜、記録室に転送されてきた映像ファイルがあった。
映像には、現地で撮影された一枚のパネル写真が映っていた。
そこには、若かりし室戸、そして背後に見覚えのある顔があった。
「これは……」
沙耶の手が止まる。
「内閣官房副長官、柴山敬一……!?」
「つまり、柴山は室戸と“国際的記録操作会議”に参加していた?」
赤松は深く頷いた。
「奴は、“記録室の敵”というより、“記録の設計者”そのものだったんだ……」
- ■ かつての言葉
夜。記録室の端末に、またしても差出人不明のメッセージが届いた。
そこには、室戸の肉声が再び再生された。
「記録を追う君たちは、いつか“記録を信じるな”という記録に出会うだろう。
その時、おそらく君たちは試される。
記録とは、事実の証明か、それとも……自己催眠の手段か」
沙耶が、画面を見つめたまま呟いた。
「私たちは……“何を信じるか”を問われているのね」
赤松は言った。
「そうだ。“記録”とは、真実そのものではない。“信じられる構造”を設計する行為だ。いま、我々はその構造の中にいる。もしくは――構造ごと、欺かれているのかもしれない」
その瞬間、画面がノイズを発し、ひとつの映像が映し出された。
それは、三雲が海沿いの建物に入っていく姿だった。
「彼は……もう、室戸と会っているかもしれない」
第八十四章 幻影の座標
岡山の旧研究施設で発見された“記憶補完装置”の一部を携え、赤松と三雲は東京・目白台の記録室本部へと戻ってきた。
既に夜は更け、室内には暗い蛍光灯の光と、ディスプレイの青白い明滅だけがあった。
沙耶と高瀬は、既に帰京していた赤松たちの到着を知るや否や、解析班の若手を動員して作業室を立ち上げていた。
赤松が小型のポータブルハードに保存したデータをコンソールに接続すると、すぐさま画面上に波形が現れる。
「1999年、TK-041群の音声記録だ。補完装置により再構成された“未改変時の記録”」
ざらついたホワイトノイズに混じって、微かに少年の声が聴こえてくる。
「ぼくの名前は、たぶん……陽介、だったと思う。でも……誰も、そう呼ばない……」
「……光が、音が……ひとつになって、怖くて、泣いた……でも、みんなが笑っていた」
沙耶が唇を噛みしめた。
「この声……“処理後”のものじゃない。処理“前”、あるいは“処理途中”。純粋な“残響”です」
「つまり……この音声こそ、“操作される直前の記憶”というわけだな」
高瀬の言葉に、赤松は深く頷いた。
「これが証明されれば、国家側の“正当化”を覆す武器になる。奴らが出した“部分開示”は、事実の断片を切り出したにすぎない」
「だが……」三雲が静かに続けた。「これが“真実”として扱われるには、世論の“認識座標”が変わらねばならない。記録の“精度”だけでは、不十分だ」
赤松は黙っていた。
彼の視線は、記録室奥の“ロックされたファイル群”に向いていた。そこには、未だ誰も手をつけていない一群のデータ――すなわち「第Ⅳ群」があった。
- 銀座・地下の接触
翌日夕刻。
銀座八丁目、裏通りのビル地下にあるクラブバー「カテドラル」。
その奥の個室に、一人の男が現れた。
青柳。元・警察庁情報分析局所属。現在は行方不明者リストに名を連ねる“故人”扱いの人物である。
高瀬は、慎重に身分証もスマートフォンも封印したうえで、この面会に臨んでいた。
「久しいな。……記録室の動きは、予想以上に速い」
青柳はソファに体を沈めながら、グラスを傾ける。
「記録戦とは、つまり“信憑性の戦争”だ。真実かどうかではない。“真実らしく見えるか”だ」
「あなたが“RECORDS-J”の立ち上げに関与しているという話がある。……それは事実ですか」
青柳の口元が歪んだ。
「正確には、“RECORDS-J”は、第三勢力が立ち上げた“模倣記録群”。
我々は、それを“逆用”しているにすぎない。虚偽の中に、真実を混ぜることで“混濁”を作り出す。……分かるか?」
高瀬の目が細まる。
「つまり……あなた方の狙いは、“記憶そのものを信じさせない世界”を作ること?」
青柳は応えず、煙草に火をつけた。
「“信じるに足る過去”が崩壊すれば、人間は未来に縋るしかなくなる。そして“未来”を設計できるのは……“国家”だけだ」
その言葉は、苛立つほど静かで、冷ややかだった。
- 消される者たち
その夜、記録室にて、三雲が沙耶に一通の紙ファイルを手渡した。
「これは……?」
「“B群の処理リスト”だ。さっきの音声に出てきた“陽介”の名前があった」
沙耶は目を走らせた。
《対象番号:B-014/氏名:千葉陽介/生年:1984年/処理記録:99年12月~2000年3月》
《備考:家族関係に関する記録なし/転居履歴不明/最終所在:東京都足立区千住四丁目》
「……住所まであるんですね」
三雲はうなずいた。
「さっき、俺が行ってきた。……だが、そこには人の住んだ痕跡さえ残っていなかった。家族の情報も、公的記録には存在しない」
沙耶は、ふと眉をひそめた。
「消されている……のではなく、“最初から存在しない”ようにされている」
「そうだ。“記憶の外側”だけでなく、“存在の座標”まで捻じ曲げられている。……そういう操作が、2000年代初頭には行われていた」
彼女は、重たく呟いた。
「“記憶の不在”ではなく、“存在の不在”……」
- 国家の“更新”作戦
同時刻。永田町、内閣情報調査室。
柴山は、報告書を読みながら、鋭く目を細めていた。
《記録室、旧岡山施設にて未許可記録データを取得。未処理情報含む疑義あり》
《RECORDS-J、当室が管理していた旧スキームと酷似。模倣により混乱誘発の意図か》
そして、さらに一枚の報告があった。
《内閣府広報戦略室より提案:“記憶操作の是非”に関する世論誘導策として、新規ドキュメンタリー番組を編成。
主要局と共同制作案、仮タイトル『記憶という名の防衛線』》
柴山は呟いた。
「記録室が“記憶の真実”を語るなら、我々は“記憶の正当化”を語るまでだ」
政府は、“記憶操作の必要性”を、国民に物語る映像作品を用意しはじめていた。
それは一種の“現代神話”であり、虚偽と事実が入り混じった、新たな“国家的記憶”の形成でもあった。
- 二重の戦場へ
その頃、記録室では、高瀬が一枚のメモを沙耶に渡していた。
「これは……?」
「“記録の境界線”に関する仮説だ。“操作記憶”と“自然記憶”の境界を可視化する方法がある。
簡単にいえば、“どこからが作られた記憶か”を、色で示すマッピング技術。例の残響装置に基づく解析から導けるかもしれない」
沙耶の目が光った。
「それが成功すれば、“改変された記録”を見破る基準になる」
高瀬は頷いた。
「それこそが“記録の法廷”を成立させる唯一の道だ。今は、誰が真実を語っても“信用”が定義されない。だが、そこに色の境界が現れれば……“事実の地図”になる」
赤松が、部屋の隅でその会話を聞いていた。
彼は、長く目を閉じてから、静かに言った。
「二重の戦場が始まる。“記憶そのもの”を奪い合う戦場と、“その真偽を判断する基準”の戦場だ」
- 終わりの始まり
夜。
記録室の奥、封印された「第Ⅳ群」の一部が、誰かの手によって“解錠”されていた。
サーバールームの画面に、ひとつのファイルが開かれる。
《記録番号Z-004/1995年・地下鉄記録操作事案・極秘》
その瞬間、警告アラームが鳴り響いた。
「誰だ――!」
沙耶が叫んだが、アクセスログには何も残っていなかった。
それは、まるで――“記録そのものが意志を持って開いた”かのようだった。
(第八十五章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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