松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第八十一章・第八十二章

目次

第八十一章 偽証の迷路

東京・杉並区高円寺の一角、古びた喫茶店「シュヴァルツェン」に三雲翔平の姿があった。

重く垂れたカーテンの隙間から午前の日差しが斜めに差し込む。静かな空間に、小型プロジェクターの光が壁に淡く揺れていた。投影されているのは、ネット上に出現した“模造記録サイト”──「RECORDS-J」。

「……これはもう、虚構の力ではなく、現実の秩序を侵食する暴力だ」

そう呟いたのは、向かいの席に座る赤松だった。灰皿には細く燃え残った煙草が二本、同時に消えかけている。

「問題は、なぜ“これ”が我々と同じ形式で書かれているのか、だ」と赤松は言った。

沙耶が背後のカウンターから顔を出す。

「形式どころか、証言の文体、証拠画像の解像度、メタデータの付け方まで同じ。つまり……内部に協力者がいる、ということですか?」

赤松はわずかに頷いた。

「“協力者”というより、我々の記録を根本から模倣する“構造の解読者”がいる。コード構成が一部、我々の旧データと一致していた」

「内通者ですか?」

「……それも一案だが、私はもっと別の可能性を考えている。“我々自身の過去”が、どこかで誰かに渡っていたのではないか、と」

その言葉に三雲が反応する。

「つまり、“過去の我々”を誰かが保存し、再編集している……?」

「そうだ。記録というのは、残されて初めて利用される。逆に言えば、残された記録は“いつでも再構築されうる”ということでもある」

その瞬間、沙耶の端末が警告音を鳴らした。

「また、“RECORDS-J”が更新されました。“新たな証言”と題されています……!」

三人の視線が、壁のプロジェクターへ集中する。

【新たな証言:2000年11月、赤松誠一は“真賀田計画”の実施指揮者であり、精神薬投与を主導していた。記録映像あり。】

一瞬、時間が凍りついた。

「……“真賀田計画”だと……?」

三雲が震えた声で呟いた。

それは、国家機関の中でも最も深く、もっとも闇に近い、記憶誘導の初期実験だったはずだ。

そしてその事実は、記録室の誰にも話されていなかった──はずだった。


■ “真賀田”という記号

午後、記録室の仮設ラボ。赤松は自らの旧ファイルを解析していた。

「“真賀田”は、私が若い頃に関わった唯一の未完プロジェクトだ。確かに1998年、初期段階では関与していた。だが……」

高瀬が傍らに座った。

「だが、正式運用には至らなかった……と?」

「いや、“運用はされた”。私は途中で外され、記録から名を抹消された。だが、その後の経過は一切知らされなかった」

沙耶が囁く。

「なら……“RECORDS-J”の記述は、虚偽ではないかもしれません」

沈黙が落ちた。

赤松は煙草を口にくわえ、火を点けようとしたが、やめた。

「これが本当に過去の記録から来たものなら、“RECORDS-J”の背後にあるものは、我々よりもさらに古い“記録保持者”だ」

「……記録を記録してきた“観察者”」

「そうだ。私たちが“記録すること”を学ぶ前から、既に記録をしていた者がいる。国家か、あるいはそれを超えた何か……」


■ “認証”の新戦術

その夜、記録室本部では緊急会議が開かれた。

「このままでは、RECORDS-Jが我々より信頼を集める可能性がある」

「すでにネットの一部では、“本物の記録室”はRECORDS-Jだという論調すら出始めている」

「報道機関も混乱している。“真賀田”の存在は、確認が取れない」

その言葉に、三雲が立ち上がった。

「我々が打つべき手は、“記録の認証構造”を作ることです。“証言の原証拠”を第三者の立場で明示し、改変不可能な形で保存する。ブロックチェーン技術を応用し、証拠の時系列性と真正性を確保する」

沙耶が頷く。

「記録に“記録の証拠”をつける、ということですね」

「そう。記録を“物語”ではなく、“時系列の構造物”として示す。主観と客観の中間領域に、“可視化された信用”を導入するんです」

赤松がゆっくりと言葉を続ける。

「そのためには……“初期記録”を掘り起こす必要がある。“真賀田”の原点、1996年の映像記録を。……唯一それを撮影した人間がいるはずだ」

「誰です?」

「……室戸貴春。元・内閣調査室、映像記録官。1996年3月までに国家の“観察カメラ”で撮った最初の“記録映像”を持っているはずだ」


  • ■ 室戸を追え

翌朝、高瀬と沙耶は、山口県下関に向かった。

室戸が最後に姿を見せたのは五年前。旧海軍施設跡地に居住していたとの情報を元に、二人は現地の防空壕跡に踏み込んだ。

懐中電灯の先、石壁の奥に、古い映写機が残されていた。

沙耶が手にしたフィルムには、こう記されていた。

「記録対象:試験被験者K群、指導者・田ノ上道雄、記録官・室戸貴春」

フィルムの再生装置は劣化していたが、持ち帰った映像から解析された画面に、当時の記録風景が蘇る。

そこには、白衣の田ノ上、そして遠巻きに見守る若き赤松の姿があった。

三雲が呟いた。

「“本当の記録”は、確かにあったんだ……」

赤松は目を細め、映像を見つめていた。

「ならば……それを“証拠”に変えよう。“語るための映像”ではなく、“確証としての構造”として」

記録はもはや、語るための武器ではない。信じさせるための証明であり、守るべき座標そのものだった。


第八十二章 

  • 記録と証明の裂け目

記録室第3ラボ。午後3時18分。

高解像度スキャン機器が唸りを上げ、旧式フィルムの再構築が始まっていた。

ラボのモニタには、1996年3月3日に撮影されたとされる「真賀田計画試験映像」の冒頭が映し出されていた。白衣の田ノ上道雄、数人の研究助手、そして室戸貴春のメモを取る姿。それらが、粒子の荒いグレースケールの中に浮かび上がっていた。

「これが……“起点の記録”……」

高瀬は、画面から目を離さずに呟いた。

沙耶は、スキャンデータのフレームを一枚ずつ確認しながら言う。

「ここに映っているのは、被験者K-04、K-06、K-09……。全部で5人分の記録がある。でも……そのうちの2人、現在“RECORDS-J”の偽証言と一致しています」

赤松が背後から口を開いた。

「つまり“RECORDS-J”が言っていたのは、真っ赤な嘘ではなかった。“何か”を基に改変している」

「じゃあ、この記録を逆に“証拠”として突きつけるべきでは……?」

「問題はそこだ。この記録自体が、本当に“オリジナル”かどうか、保証がない」

「え?」

赤松は、スキャンされたフィルムの縁に目を向ける。日付、タイムコード、ロール番号。

「これらは“後から焼き付けられた”可能性がある。加工の痕跡が微細に残っている。つまり、我々の“原記録”と信じた映像もまた、誰かの編集を経ているかもしれない」

高瀬が眉をひそめる。

「……誰が?」

「“室戸”だ」


  • ■ 室戸貴春という幽霊

記録室が保有する室戸のファイルは、ごく断片的だった。1960年生まれ、早稲田大学理工卒、元・内閣調査室所属、2003年以降所在不明。だが、驚くべきことに、彼の退官届けには直筆署名がなかった。

「この人間は、“記録の専門家”であると同時に、“記録の操縦者”でもあったわけですか……」

沙耶は、紙焼きの退官書類を指で撫でる。

「記録官が“記録されていない退官”をする。まさにこの国の闇そのものね」

赤松は深く椅子に座り込み、目を閉じた。

「私は室戸に一度だけ会ったことがある。1997年冬、彼が映像部から分析班に異動する直前だった。そのとき、彼が言った言葉を思い出す」

“記録は真実の墓標ではなく、虚構の生き証人だ”

「つまり……?」

「奴は、“映像という形式”そのものが、事実を保証しないことを熟知していた。むしろ、“本物らしく見せる技術”にこそ価値があると考えていた」

三雲が呻くように言う。

「つまり、このフィルムさえ……“記録としての偽装”の可能性があると?」

赤松は静かに頷いた。


  • ■ 岩国、眠る箱

室戸がかつて潜伏していたという情報を辿り、高瀬と沙耶は山口県岩国の旧陸軍通信所跡を訪ねていた。

山中に残る防空壕の奥、封鎖されたコンクリート扉。中には一台の旧型金属ロッカーがあり、扉には「M.F.1996」とだけ刻印されていた。

内部から取り出されたのは、密封された黒いカートリッジ。リール式の磁気記録媒体。現代では読み取れない方式だった。

「おそらく、これが“真正な第一次記録”だと思われます」

東京に戻った赤松は、旧防衛庁の協力を得て、当時の“解読機”を一台、国会図書館の地下倉庫から借り出した。

40分後──

回転するリールから、微かに映像が映し出された。

“被験者K-04、精神定着処理直前の記録”

それは、目を見開いた少年が、無言で何かを訴えようとする姿だった。

「この映像、見覚えがある……」

高瀬が呟いた。

「RECORDS-Jにあった動画の“数秒手前のシーン”だわ」

「つまり、あちらは“ここから切り取られた断片”だった」

赤松が結論する。

「この記録を完全に開示しよう。“改変された記録”の前に、“何があったか”を世に出す」


  • ■ 対話という証明

数日後、記録室は独自の記者会見を開いた。

場所は内幸町の日本記者クラブ。壇上には赤松、高瀬、そして特別証人として三雲が並ぶ。

会場の空気は異様な緊張を孕んでいた。

「本日公開するのは、1996年3月3日に撮影された映像記録です。これは、国家主導で行われた“記憶誘導”の記録であり、RECORDS-Jが公開した断片情報の“前後を含む全体”です」

スクリーンに映し出された少年の目、震える手、そして静かに動く白衣の人間たち。

会場から嗚咽が漏れる。

「この記録は“原映像”であり、解析の結果、加工の痕跡は一切確認されておりません。証拠情報は、ブロックチェーン上に分散保存されています」

記者の一人が叫ぶ。

「ならば、RECORDS-Jの記録は“改変されたもの”だと断定できますか?」

赤松は静かに答えた。

「我々が主張するのは、“この映像の方が先に存在していた”という事実です。真実は一つとは限りません。だが、時系列の構造こそが、記録の唯一の証明となる」


  • ■ 動き出す新たな影

その日の夜。

記録室のサーバーに、奇妙なファイルが送られてきた。

差出人不明。ファイル名は《S.M-1996-補巻》。

開封すると、室戸の声が再生された。

「君たちは、記録を信じすぎる。映像が真実であると思い込んだ時点で、それは“記憶に侵入された者”と同じだ。

記録は、記録された瞬間に、もう“誰かの目”を持っている。

そしてその目は、いつか君たちを見返すだろう――」

沙耶が顔をこわばらせた。

「これ……本人の音声ですか?」

「間違いない。室戸貴春、生存している」

赤松は低く答えた。

「そして……“真の記録戦”は、まだ終わっていない」


(第八十三章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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