第七十九章 記録に血が滲む
東京・品川区、旧印刷工場地下――
午後八時三十七分。記録劇場での第六回上演は、観客十九名を迎えて始まる予定だった。
だが、開演十五分前。控室の蛍光灯が一斉に明滅し、次の瞬間、爆音とともに舞台装置の一部が吹き飛んだ。
「伏せて!」
叫び声とともに、天井から埃が舞い落ちる。赤松が沙耶をかばうように伏せ、観客の誘導を高瀬が手際よく行った。
火花を散らしながら、ステージ裏の機材が黒煙を上げて崩れ落ちる。だが幸い、死者は出なかった。
「破壊工作……意図的だな」
赤松の口調は冷静だったが、目は明らかに怒気を帯びていた。
■ 「RECORDS-J」犯行声明
事件から三時間後。
ネット上に匿名掲示板であるメッセージが投稿された。
「我々は“記録の奪還者”。記録は演じるものではなく、護るものだ。
赤松らによる“記憶の演出”は、虚偽と美化のプロパガンダである。
よって、“偽りの劇場”を排除するための行動を開始する」
署名は、「RECORDS-J分派 “Σ/エスィグマ”」。
さらに、偽劇場「Echo-Stage」からも声明が出された。
「暴力には反対する。しかし、“記録劇場”が本当に人々の記憶を守るものかどうか、再検証されるべきだ」
同時にSNSでは「演出された真実など要らない」というハッシュタグが拡散され、
記録室側の手法への批判も強まっていった。
沙耶は唇を噛んだ。
「“記録を演じる”という選択が、反発を呼ぶことは分かっていた……でも、これは明らかな“恐怖の植え付け”よ」
赤松は頷いた。
「つまり、“記録の所有権”をめぐる本格的な戦争が始まったんだ」
■ 記憶の所有者は誰か
数日後、赤松は都内の小規模出版社で座談会に参加した。
テーマは、「記憶の所有とは誰に帰属するか」。
参加者は、記録学者・岩井紘一、元裁判官・佐伯敬一、記録処置被験者の家族・二宮洋子、そして赤松。
岩井が発言する。
「記録というのは、もともと“他者の視点”によって成り立つ。記憶が個人に属しても、記録は社会の所有物だ」
だが佐伯が反論する。
「では、“改変された記録”を社会の所有とすることが正しいのか?
“加工された真実”を誰が裁ける?」
赤松が口を開く。
「記録は、個人から社会に“投げられたもの”だと思う。
だから、その形が加工される過程もまた、透明であるべきだ。問題は、“誰が演出し”“誰がそれを見抜くか”だ」
その言葉に、二宮が涙ながらに語った。
「私の息子は、記録処置後、“過去を忘れていい”と言われました。でも、忘れるべきか、覚えておくべきか、それを選ぶのは“本人”のはずです。
記録は、国家のものでも学者のものでもない。“その人のもの”なんです」
会場には重苦しい沈黙が流れた。
■ 高瀬の過去、断片的再生
一方で、高瀬ユリのかつての“処置記録”が、一部復元されていた。
記録室のエンジニア班が、岡山で回収されたテープから、音声データのノイズ除去に成功したのだ。
「記録番号U-42-B:2000年5月/高瀬ユリ/改変段階1.5/記憶内容:親族に関する負債と医療問題」
データ再生の中で、小さな声が聞こえた。
「母を……返して……お願い……」
三雲が呟く。
「ユリ……お前も、“削られた側”だったんだな」
高瀬は沈黙したまま、録音が終わるまで一言も発しなかった。
そして再生が終わると、ぽつりと呟いた。
「……今の私は、誰なのかしら」
沙耶が手を伸ばす。
「それを、記録に書いていきましょう。ユリさんの現在の記録は、ユリさんが“自分で書く”ものよ」
■ 暴露サイト「MIND-VAULT」の出現
さらに数日後。
「RECORDS-J」とは別のルートから、新たな暴露型サイトが出現した。
その名は、「MIND-VAULT(マインド・ヴォルト)」。
このサイトは、記録室のデータベースから盗まれた一部の音声や動画を“編集付きで”公開していた。
問題は、その編集内容が改竄されたものと一致していることだった。
「これは、やばいな」
赤松が端末を見ながら声を低くする。
「音声を切り貼りして、まるで我々が“被験者を操った”ように見せかけている」
動画の一部では、沙耶が少女の記憶処置を冷徹に命じるようなセリフを“偽造”されていた。
実際の音声では、沙耶はその処置に反対し、涙ながらに抗議していたのだ。
沙耶は震える声で言った。
「これはもう、記録そのものの“信用”を殺すための戦争だわ……」
■ “記録戦争”の終わりなき始まり
赤松は、記録室の全スタッフを前に、初めて声を荒げた。
「我々は、記録を守ろうとしている。しかし相手は、“記録という形式”そのものを壊そうとしている。
これは、もう“情報戦”ではない。“存在戦”だ」
スタッフの顔が一様に引き締まる。
「我々は問われている。“何を信じるか”ではない、“信じる価値があるものとは何か”を」
彼の言葉に、三雲が小さく頷いた。
「記録とは、証明ではない。“選択の証”だと、俺は思う。
だから、嘘を混ぜ込まれたときでも、我々が“なぜそれを信じたか”が問われるんだ」
高瀬も、沙耶も、静かにうなずいた。
■ 最後の決意
その夜、赤松は一枚の便箋に文字を書いていた。
「記録とは、手元に置くためのものではない。
誰かに渡すために存在する。
だからこそ、それが偽物だったとき、人は絶望する。
本物の記録とは、“絶望させない記憶”である」
便箋を閉じると、彼は静かに言った。
「もう一度、劇場を開こう。どんなに壊されようと、あそこにしか“声”は残らないんだ」
第八十章 偽証の刻印
東京・大田区、記録室臨時オフィス──
再開を目指す記録劇場の準備が静かに進んでいた。破壊された照明機材の代わりに、旧式のフィラメント灯が持ち込まれ、舞台の床も再塗装された。
三雲が、古びたレコードプレイヤーを設置しながら、赤松に問いかけた。
「またあの“声”を再生するのか?」
赤松は頷いた。
「ああ。ただし、今度は“演出なし”だ。ありのまま、録音されたままを流す」
「裸の記録、ってわけか」
「そうだ。加工も装飾も一切排す。ただ、事実だけを並べる。“虚構の劇場”に抗うには、それしかない」
沙耶が照明リストを手に加わる。
「逆に言えば、“事実だけ”を提示することで、観客がそれぞれの“真実”を感じる余地を与える、ってことね」
■ 地下鉄構内の“囁き”
そんなある夜、沙耶は奇妙な出来事に遭遇する。
帰宅途中、霞が関駅の地下通路で、背広姿の男に声をかけられた。顔は眼鏡にマスク。低く、くぐもった声。
「あなた、“記録の沙耶”ですね」
「……誰?」
「“鏡の中の記録”は、ただの始まりです。あなたたちの記録は、既に“引用可能な対象”にされていますよ」
「引用? 誰に?」
男は口元を吊り上げるように笑い、ポケットから一枚の紙片を渡して去っていった。
そこには、沙耶の名とともに、「1999.10/記録操作協力者」の記述。出典は「記録読本・第Ⅲ版」となっていた。
沙耶は動揺を隠し切れなかった。
「“読本”? ……あの記録が、まるで“教材”みたいに誰かに配布されてるってこと?」
■ “記録読本”の正体
数日後、記録室スタッフの一人が、都内の大学図書館から、件の“記録読本”なる冊子を入手した。
表紙には、「記録情報教育研究会 編」とだけ書かれ、出版元は存在しない企業名。
だが中身には、明らかに記録室の内部資料から改変されたデータが載っていた。
・沙耶=第17事案協力者(証拠なし)
・三雲翔平=“記録を外販した”人物として記載(脚注には匿名証言者あり)
・赤松司=「記録劇場」による記憶誘導の意図を持った張本人と断定的に記述
高瀬が本を手に取り、怒りを込めて言う。
「これは、言ってみれば“記録の捏造本”よ。しかも、大学や公共図書館に紛れ込ませてる」
赤松は目を伏せてから、静かに言った。
「これはもう、“情報テロ”だな。記録に“偽の刻印”を押して回る……そんな静かな爆弾だ」
■ 赤松への“匿名の招待状”
その夜、赤松のもとに一通の封書が届いた。
中には、無地の名刺と、手書きで記された一文。
「あなたの記録も、いずれ“教材”にされる。真実を守る最後の機会として、“西麻布の部屋”に来たまえ」
日付は翌日の夜十時。差出人の名はない。
沙耶が警戒する。
「罠かもしれないわ」
だが赤松は、コートを手に取りながら答える。
「構わない。“記録が誰のものか”を語る奴が現れるなら、対話してやる価値はある」
■ 西麻布の部屋
翌日。夜十時。
赤松は西麻布の裏通りにある古いビルの五階に現れた。
部屋には薄明かりが灯り、カーテンが閉め切られていた。テーブルの向こうに、白髪混じりの男が一人。
「……ようこそ。君の“記録”、拝見してるよ」
「誰だ?」
「名は出さない。だが、私は“記録教育の編者”の一人だ。“記録読本”を作った者たちのひとりだよ」
「目的は何だ。“真実を歪めること”か?」
男は笑う。
「真実は常に複数ある。そして、教えられるものだけが“次世代の記録”になる。
我々は、未来の人間が“何を信じたか”を制御しようとしているのさ」
赤松は一歩前に出る。
「つまり、“記録を書いた側”ではなく、“読ませる側”になろうってことか」
男は静かに言った。
「その通り。“記録の未来は、編集された信仰にある”。我々の仕事は、“信じられる記録”を提供することだ」
「それが“偽り”だったら?」
「誰も検証できない。“記録者”がいなければ、どんな改竄も“原本”になり得る」
赤松は拳を握った。
「ふざけるな……俺たちは、記録者として、まだここにいる」
■ 赤松、演説台に立つ
帰還した翌日、赤松は再開した記録劇場で短い演説を行った。
「皆さん。今日は“改変されなかった記録”をお見せします。
記録とは、信じることと疑うことの間にある、あいまいな領域です。
でも、我々にはそれを受け止める“倫理”があるはずです。
どうか、この声を聴いてください。これは、改竄ではない。これは、語られなかったままの“在りし日の息遣い”です」
暗闇の中で、録音された少女の声が響く。
「お母さん……これ、夢だったらいいのに……」
観客の中に、涙をぬぐう者がいた。誰も声を上げなかった。ただ、静かに“記録”が染み込んでいった。
■ そして、またひとつの“改竄”が起きる
公演の翌朝。記録室の公式サイトが改ざんされていた。
トップページには、「RECORDS-J ∴Σ」のマークとともに、こう記されていた。
「演出は、もういらない。事実も、もういらない。“記録そのもの”の不在を創り出す。それが我々の目的だ」
沙耶が呟いた。
「彼らは……“虚無”を残すつもりね。記録があっても、信じる者がいなければ、それは“存在しなかった”も同然」
赤松は、静かにモニターを見つめながら言った。
「ならば我々の戦いは、“記録を守る”ものじゃない。“記録を信じる心”を守ることだ」
(第八十一章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
コメント