松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第七十七章・第七十八章

目次

第七十七章 鏡像の迷宮

東京・文京区、午後十一時過ぎ。

記録室仮設本部のモニターには、ネット上に突如現れた新たな記録アーカイブ「RECORDS-J」が映し出されていた。

「まったく同じUI、記述形式、そして証言のスタイルまで……」

高瀬ユリが眉を寄せる。

「これは、我々の記録を完全に模倣している。しかも中身は“編集された偽史”だわ」

赤松は冷静に頷く。

「奴らの狙いは単純じゃない。“真実と虚偽の境界を曖昧にする”ことが目的だ。

人間は、似ている情報を“同一”と誤認する。特に、証拠が電子的であればあるほど……」

その言葉に沙耶が鋭く反応した。

「だったらこちらは、“本物にしか出せない証拠”を用意しなきゃいけない」

「つまり、“改ざんできない一次情報”だな」

赤松は立ち上がり、棚の奥から古びたトランクを取り出す。中にあったのは、デジタル化されていない8mmフィルムとアナログの録音テープ。

「これは……?」

「“映像と肉声の原本”だよ。まだ公開していない、保管庫に眠っていたものだ」

彼は一枚のラベルを指さした。

「K-09/1998年10月12日・北関東第七施設・処置記録」

「この映像には、記憶処置の最中に被験者が“拒否反応”を示し、処置が失敗した瞬間が映っている。

偽の記録室では、これは絶対に再現できない。なぜなら、“実際の処置過程を知らない”からだ」

高瀬が唸る。

「……だが、それを公開するということは、被験者の人権やプライバシーに触れる危険もある」

沙耶が立ち上がった。

「私が出るわ。……その映像の中に、私の姉が写っている」

全員の視線が集中した。

「姉……?」

沙耶はゆっくり頷いた。

「沙耶じゃなくて、“佐谷麻子”って名前で登録されていたはず。彼女は1998年秋、群馬の実験施設に“記憶定着被験者”として強制的に送られたの」

赤松は息を呑む。

「それが……お前の姉か」

「……私が記録室に関わることを決意したのは、その映像を一度見たからよ。あの時の姉の叫び声が、私の記憶から一度も消えたことはない」

しばし、部屋に沈黙が落ちた。

「いいのか?」

「もう、“記録”から逃げないって決めたから」


■ “信頼性証明プロジェクト”始動

翌朝。

記録室は緊急記者会見をオンライン形式で開催した。

「私たちは“RECORDS-J”というサイトの偽装と捏造に対抗し、“真実性を証明する映像記録”を段階的に公開していきます」

壇上の沙耶は、やや青白い表情で語り始めた。

「今から公開するのは、1998年に実際に国家機関の施設内で行われた“記憶操作処置”の一部始終です。

この映像には、私の姉・佐谷麻子が映っており、彼女はこの処置ののち行方不明となっています」

緊張に満ちた数秒後。

映像が再生された。

白黒の画面に映る、ベッドに縛りつけられた若い女性。

頭部には電極、口には発声制御装置。

その瞳が、カメラを睨んでいた。

「違う……違う……これは……わたしじゃ、ない……」

その声はかすれていたが、確かに沙耶の声と酷似していた。

映像の後半には、研究員たちが慌てて装置を止めようとする様子、そして女性が意識を失う直前に発した一言が残されていた。

「記録を……守って……」

会見は、世界中のSNS上で瞬く間に拡散された。

“RECORDS-J”との比較検証が行われ、ユーザーたちは次第に、**「模倣と真実の差異」**に気づき始める。


■ だが、敵は動く

その夜、あるメッセージが赤松の個人端末に届いた。

差出人不明。差出IPはミャンマーを経由。本文は一行だけ。

「次は“映像そのもの”が改ざんされる」

赤松は眉をひそめた。

「映像の改ざん……つまり、次は“本物の偽装”だ」

高瀬が苦い顔をする。

「深層学習技術を使えば、“肉声”や“映像”ですら合成できる。私たちの優位性は、時間との競争になる」

沙耶が拳を握り締める。

「ならば、“誰が語ったか”じゃない。“どこから届いたか”で戦うしかない」


■ 通信経路の封鎖と復元

数時間後。

記録室のネットインフラが突如シャットダウンされた。

大手プロバイダーが、“安全性未確認の映像”として配信元を一斉遮断。

「やられた……政府か、それとも“情報業者”か……?」

だが赤松は静かに笑った。

「奴らが焦ってる証拠だ」

彼は隠しサーバーに接続する。

「ここからは、“アナログ”で届ける」

旧式の短波ラジオ放送。ローカル局との連携。大学生グループによる街頭配布チラシ。

あらゆる手段で「記録の真贋」を巡る“情報戦”が展開された。


■ 沙耶の決意

その夜、沙耶は一人、姉の旧居を訪れていた。

埃をかぶった部屋の隅に、一冊の手帳があった。

日付は1998年10月9日。

そこにはこう書かれていた。

「わたしの“記憶”は誰にも渡さない。

誰にも書き換えさせない。

……沙耶、あなただけは、信じてくれると信じてる」

沙耶はその場に崩れ落ちた。

「……わたし、必ず記録を守るから」


■ 終わりなき“記憶戦”

一方、RECORDS-Jはさらに巧妙な更新を続けていた。

そこに追加された最新の“証言”には、こうあった。

「記録室が公開した映像は、実は“演出”であり、参加者全員が“記憶撹乱実験”の被験者だった。

真実を語っているのは我々の方である」

赤松が低く呟いた。

「……これはもう、“情報”ではない。“信仰”だ」

彼は新たな作戦を口にする。

「我々は、“記録”に“目撃者”を加える。人々を、記録の現場に連れていくんだ。

それができなければ、誰も本物を信じない」

沙耶が顔を上げる。

「“記録を目撃させる”……現場に、人を」

「そう。“記録の公開”ではなく、“記録の体験”へと進む」


第七十八章 記録の劇場

東京・品川区――

かつて印刷工場だった廃ビルの地下に、小規模なシアター空間が作られていた。

照明、客席、簡素なステージ。そしてその奥に設置された数台の旧式プロジェクター。

「これが……“記録の劇場”?」

沙耶が呟く。

赤松が頷いた。

「映像や文書だけでは、もう“真実”は伝わらない。“体験”という一次情報に触れさせなければ、もはや人々は何も信じない」

高瀬が眉をひそめる。

「つまりこれは、“演劇”だと?」

「演劇……というより、“再現”だ。記録の演出じゃない。実際に存在した会話、空気、声、泣き声、匂い、手触り。そういったものを、極限までリアルに再現する。“偽の記録”には絶対にできない手法だ」

赤松は白い紙束を机に広げた。

そこには、かつての記憶処置施設での出来事が、克明に記された脚本のようなメモがあった。

「1998年10月14日午後。群馬県北部の処置施設において、“田ノ上班”が行ったB群被験者への最終対応。会話の録音、移動経路、処置室の気温、床材の材質まで記録されている」

沙耶は息を呑む。

「これは……記録というより、“痕跡”ね」

「そうだ。記録を“遺す”のではなく、“蘇らせる”。

これからここで、“記録の演じ直し”を行う」


■ 体験者第一号

三日後。

記録劇場に、一般公開に先立って最初の体験者が招かれた。

その人物は、元新聞記者であり、現在はフリーの情報分析家として知られる日下部渉(くさかべ・わたる)。

60代前半。情報戦の表も裏も知る人物だ。

「……何を見せられるのか知らんが、真実を演出するなんてことが本当に可能かね」

舞台の幕が上がった。

仄暗い照明のなかで再現される、あの“記憶改変施設”の空気。

白衣の研究者、拘束具の椅子に座らされる若者。遠くで鳴る警報。静かに響く女のすすり泣き。

そして、「記録番号B-041」に記載された沙耶の姉・麻子の最期の言葉。

「記録を……守って……」

すべては、一次資料の会話・映像・録音に基づいて再現されたものだった。

演劇というより、再体験。

日下部は終演後、静かに言った。

「……これは、“史料”だ。演技じゃない。“空気の記録”だ」

その感想は、各メディアの文化欄に取り上げられ、静かな反響を生んだ。


■ 三雲の過去

その頃、三雲は赤松から一本の封書を手渡されていた。

「お前の名前が、“初期記録処置班”の中に出てきた。……それも、被験者としてではなく、“記録技術者”として」

三雲は驚き、封書の中身を開く。

「Mikumo Shohei:1997年7月着任/記録連結処理係/対象者との個別インタビュー記録あり」

「俺が……関わっていた?」

高瀬が傍らで囁く。

「記憶が改変された可能性は? 自分の関与すら消されたとすれば……」

三雲は青ざめた。

「俺は……“記録を記す側”だった。だが、それを忘れていたとしたら、俺自身もまた“記録の犠牲者”なのか……?」

赤松は静かに言う。

「なら、お前がこれから“記録する側に戻る”しかない。過去の自分が忘れていたことを、未来の誰かに遺すんだ」


■ “偽劇場”の出現

その翌週、記録室にまた新たな動きが報告される。

「RECORDS-Jが、“記録劇場”の模倣バージョンを立ち上げました。“Echo-Stage”という名で、都市部の複数地点で上演されています」

報告を受けた沙耶は机を叩いた。

「また……先回りされた」

Echo-Stageでは、同じような構成で記憶処置を描くが、細部の表現が違っていた。

例えば、記憶処置は“被験者の同意の上”で行われ、職員は皆“倫理ガイドラインに則っていた”とされている。

三雲が呟く。

「これはもう……“記憶の演出”を競う戦争だ」


■ 本物の証拠

赤松は、一冊のノートを取り出した。

「これを……公開する」

それは、かつて赤松が補佐として記録現場に立ち会っていた頃に、こっそりつけていた手記だった。

鉛筆書きで淡々と書かれた観察記録の中に、ある一文があった。

「第9処置室、午後三時十四分。少女が泣きながら言った。

“私の記憶は、わたしのものなのに”。その声を、誰も記録していないと感じた。

だから、私は書く。これは公式記録ではない。私個人の記憶だ」

「このノートを、“記録劇場”の最後に読ませる。

データではない、“記録者の手の温度”を伝えるものとして」

沙耶がうなずいた。

「記録は、道具じゃない。……生きた人間の、軌跡なのよね」


■ 最後の幕開け

数日後、再び記録劇場が開かれる。

今回は、人数を絞り、報道関係者ではなく一般市民十名を招いた。

幕が上がり、再現される記憶の現場。

麻子の叫び。

処置の直前に交わされた、少女と技術者の短い会話。

「あなたは誰?」

「記録する者だ」

終演後、ひとりの大学生が口を開いた。

「これは演劇じゃない……“祈り”だと思いました」

沈黙の中、沙耶は立ち上がり、観客に向けて言った。

「もし、皆さんが“記録”を見たと信じたなら……それはもう、あなただけの“記憶”です。

それをどう信じ、どう語り継ぐかは……あなたの物語になります」


(第七十九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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