第七十五章 浮上する座標
記録室が「記憶改変実施官名簿(1991–2023)」を公開してから、まだ二時間と経っていなかった。
しかし、状況はすでに、“境界線を越えていた”。
中央官庁の動揺。マスメディアの沈黙。ネット上の異常な速度で拡散されるデータ。
そして、なによりも──**“記憶を取り戻した者たち”が動き始めた**こと。
■ 名簿の衝撃
その日、九段下の小さなマンションの一室で、旧公安外事課に勤めていた男が名簿を見つめていた。
田ノ上道雄(たのうえ・みちお)。
かつて、監視と情報改変の“現場技術”に関わっていた技術参事官である。
彼の名前も、そこにあった。
「……載っている」
かつて、深夜に行われた“記憶安定化処置”──国家の敵対者に対して行われた、“言語記憶の剪定”と呼ばれる作業。
法的には存在せず、命令書も廃棄されたとされていた。
「これが……まだ、残っていたとはな」
彼は名簿に記された複数の部下の名前を指先でなぞる。
──藤島、山脇、斉木……
「すでに、二人は亡くなった。斉木も今は病床。……俺に残されたのは、“語る”という選択肢だけか」
田ノ上は、手元のICレコーダーをゆっくりと起動させた。
「記録する。1996年、都内某所で行われた“逆照合作業”について。記憶削除と、再構成手法の実態──」
声は、静かに震えていたが、確かな輪郭を持っていた。
■ 新宿の地下と、名もなき集会
その夜。新宿駅西口の地下通路に、見慣れぬ一団が立っていた。
年齢、職種、服装すらまばらな彼らは、ある特定の共通体験を持っていた。
「あなたも、“記録改変対象”だった?」
「ええ。父の遺品から、改変前の戸籍記録が見つかって。それと照合したら、過去の記憶と一致したんです」
彼らは、名簿に自分、もしくは家族の名前を見つけた者たちだった。
会の主催者は、仮名「ヨシダ」と名乗る男性だった。
彼はかつて記憶心理研究に携わっていたが、異常を訴え出て、現在はフリーの研究者として活動していた。
「記録室のファイルに出てくる“記憶再編集手法”──私が関わっていた。自分たちが何をしていたのか、今ようやく分かったんです」
そして、その場で決定されたことが一つ。
「私たちは、記録室の“目撃者”として、名乗り出る」
■ 政府、極秘の“第八資料室”へ
一方、永田町・某省庁舎の地下四階に存在する、第八資料室。
ここは、国政の中でも“非公開”とされた資料が一時保管される、いわば国家の記憶の墓場だった。
室内に、杉村英介がいた。
彼の目の前には、未整理の箱が20以上積まれていた。
「これが……90年代の“実行記録”か」
古びたマイクロフィルム、FAXコピー、破れかけたテープ。
そこには、“記録改変対象者の生活導線”や、“精神安定度数”などと記された文書が混在していた。
杉村は一枚のファイルを取り出した。
表紙にはこうある──
「第二実装群 対象C-044」
「……これは、“三雲翔平”か?」
一瞬、彼の指が止まった。
かつて学生運動に片足を突っ込み、逮捕を逃れて失踪した青年──それが、現在“記録室”の主要メンバーである三雲翔平の旧名だった。
「なるほど、こういう繋がりか。彼らは、かつての記録被害者でもあり、内部記録の担い手でもある」
杉村の声には、皮肉と恐怖が入り混じっていた。
■ 仮想の国家、実態化へ
記録室のサーバーが夜を越えて安定し、次の朝、**公開されたのは「記憶改変対象市民の統計地図」**だった。
日本列島を模したCG上に、無数の点。
青は「一時記録改変対象」、赤は「恒常的影響対象」、黒は「重度再編集対象」──
誰もが、自らの住む街の中に、いくつもの点を見出した。
それは単なる情報ではなかった。
**「自分たちがその地に“なぜ住んでいるか”さえ、揺らぎ始める」**という経験だった。
■ そして、“記録の告発”へ
その日午後。国会前。
市民による自発的な集会が始まった。
「記録を、返せ」
「誰が、誰を、なぜ“書き換えた”のか、明かせ」
誰かがマイクを握った。
「私は、母の名前が名簿にありました。母は七年前、急に“人が違うようになった”と言われ、職場から解雇されました。いま考えると、あれが“改変”だったのです」
そこに、三雲が姿を現した。
「私も記録された側だった。そして、今は記録する側にいる。
だが、それでも“真実”は私一人では語れない。皆さんが、記録の証人なのです」
拍手は小さかった。だが、確かだった。
■ 国家最終局と“記録の壁”
その夜、内閣官房・情報統括局では緊急の検討会が開かれていた。
「このままでは、“記録室”が“代替国家”として、世論を吸収する」
「我々は、“正統性”を失いつつある。“記録”によって、でたらめが暴かれていく」
「いかがしますか」
そのとき、諫早統一郎が口を開いた。
「……“記録の壁”を動かすしかない。残存している“特級記録”を、開示する。我々の側からも、“真実”を見せるのだ」
「それは……自己崩壊になります」
「違う。“記録”を取り戻すことが、生き残る唯一の道だ」
第七十六章 帳の内側
東京・永田町――
夜が更けても、首相官邸地下の「特別保全室」は異様な緊張に包まれていた。
会議室中央に置かれた黒いハードケースの上には、封印された数枚のディスクと、厚さ二十センチに及ぶファイル群。
それらは、日本国家の“意図された記憶操作”の中でも、特に危険視されたカテゴリー。
**「特級記録・第Ⅲ群」**と呼ばれる資料であった。
背広の襟を締め直した官房副長官の柴山は、震える手でそれを開いた。
【記録番号C-813】
1999年8月、都内某所にて、未成年者11名を対象とした“反応性記憶矯正”を実施。
処置後、対象の一部に“発語不能状態”“自己同一性障害”が発生。
結果は「処理済」と記録。
沈黙が流れた。
「この資料……出すのか」
「出さねば、“記録室”に国家の物語を奪われる」
柴山は深く息を吸い込んだ。
「発表しよう。“我々自身の記録”として」
■ 発表の朝
翌朝九時。内閣官房報道室。
事前告知なしで突如始まった記者会見に、主要メディアは色めき立った。
司会者の声が張り詰める。
「本日、政府は“過去に国家機関が関与した記録操作”の一部について、公的説明を行います」
壇上に上がったのは、柴山副長官。
その手には、例の黒いファイルが握られていた。
会見が始まる。
「1991年以降、一部の国家機関において、精神的危機や犯罪防止、あるいは国家安全保障を理由とした“情報再構成処置”が行われておりました。
このたび、記録と証言の一致性が確認された件について、一定の開示を行います」
カメラのフラッシュが絶えず瞬く。
「……ただし、これらは“目的の正当性”の元に実施されたものであり、“犯罪性”の有無は、法的判断に委ねるものといたします」
会場は騒然となった。
ある記者が叫んだ。
「では、国は正式に“記憶改変”を認めるのですか?」
柴山の口元がわずかに歪んだ。
「認める。だが、それは国家の持つ“危機管理”のひとつの形式であった――と、現時点では定義する」
■ 記録室、逆手に取る
その報を聞きながら、赤松は記録室の仮設オフィスで小さく頷いた。
「来たな。ついに、“彼らの口”が開いた」
沙耶が問いかける。
「これで、私たちは優位に立ったと思いますか?」
赤松は首を横に振った。
「いや、これは“国家が記録の座標に参入してきた”ということだ。
逆に言えば、記録戦の正面戦が始まったという合図でもある」
高瀬が背後から声をかけた。
「奴らは、“部分的に認める”ことで、“記録の全体像”をごまかすつもりだ」
「そうだ。“全体”に至らせないための“切り取りの技法”……奴らは、報道技術に精通している」
■ 西日本、幻の“補完装置”
その日の午後、岡山市の郊外にある旧研究施設に、三雲と高瀬は向かっていた。
施設名は「感応情報工学研究所」。
90年代後半、総務省の外郭団体として作られたが、2003年に閉鎖されたはずだった。
だが、記録室に届いた一通のメールにより、その実態が明るみに出る。
「そこには“記憶補完装置”がある。改変される前の“残響記録”が保存されているはずだ」
薄暗い廃墟のような建物の奥。
冷却機のような装置と、無数のテープが並ぶ保管室。
三雲がテープを手に取ると、そこにはラベルが貼られていた。
「1999.12.08_TK-041 “未処理反応対象者・B群”」
「これは……誰だ?」
高瀬が資料の紙束を広げる。
「……田ノ上道雄の処理群に属していた青年たち。ほとんどが“消息不明”とされていた」
その夜、記録室は、テープの一部をデジタル化し始めた。
「声が、残っている。処置の直前の、“本当の記録”が……」
■ 第三勢力の動き
だが同じ頃。
“記録室”のサーバーに奇妙なログイン履歴が出現した。
IPはシンガポール経由の複数匿名ノード。アクセス元不明。
しかも、**“内部の操作権限を持ったまま侵入している”**形跡。
赤松が画面を見つめながら呟く。
「誰かが、我々の“記録の内部”を模倣し始めている……」
沙耶が指を指した。
「このログ、“高瀬”さんのIDで動いています」
一瞬、場に緊張が走る。
だが高瀬は毅然と答えた。
「私じゃない。……誰かが、我々の“記録”そのものをハッキングし、別の記憶を注入しようとしている」
赤松の声が低くなる。
「つまり……次は、“偽の記録室”を作ろうという奴らの仕掛けが、始まった」
■ 記録撹乱作戦──“鏡の中の記録”
深夜。闇の中、ネット上に突如現れたサイト。
その名は、「RECORDS-J」。
見た目は記録室の完全な模倣。ロゴ、デザイン、文体まですべて酷似。
だが、掲載されている“証言”は異なっていた。
「三雲翔平は2001年、CIAとの接触記録あり」
「高瀬ユリは“工作員”として記憶を書き換えた加担者だった」
――虚偽。
だが、それは限りなく“信じられそうな形”で編集されていた。
赤松が唇を噛みしめる。
「やられた。“記録を偽造する者”がついに動き出した。……これが、本当の戦いの始まりだ」
(第七十七章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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