松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第七十三章・第七十四章

目次

第七十三章 沈黙と振動

新宿の地下鉄駅構内、午前九時十二分。

通勤ラッシュがようやく緩みはじめたタイミングで、ひとりの男が足を止めた。

男は黒いワークマンのようなジャケットを羽織り、無精髭をわずかに残したまま、ICカードも使わず券売機で切符を買った。

──目立たない行為だが、それは彼が「追跡妨害の基本」を心得ている証だった。

その男、宮路泰三(みやじ たいぞう)。

かつて、公安外事二課に籍を置いていた人物。現在は“自由契約の調査員”という名目で情報業界の周縁にいる。

手には、数時間前にネットにアップされた**「心理遷移管理指針(1982)」**のコピー。

電車が到着する数秒前、宮路は小さくつぶやいた。

「こんな代物を、公開するなんてな……あいつら、本気で国家と刺し違える気か」


■ 官邸地下、制御不能

永田町・官邸地下、特別会議室。

内閣危機管理官・**杉村英介(すぎむら えいすけ)**は、映し出されたスクリーンを睨みつけていた。

「誰だ。こんな爆弾を拡散させたのは」

「三雲翔平と高瀬沙耶、そして“赤松惣一郎”です」

応じたのは、総務省側の調査班。

「三雲と高瀬は顔が割れている。追える。しかし赤松がいまだに情報の霧の中だ。どうなっている?」

「おそらくですが……彼の“履歴”そのものが、既に一度以上“補正”されている形跡があります。つまり……存在していなかった時期がある」

杉村の目が細くなった。

「では、“記録の外側”から来た存在というわけだな」

「はい。記録操作前の素体、あるいは“実験過程で逸脱した記録者”の可能性も」

「……このまま進めば、“歴史修正技術”そのものがバレる」

杉村は席を立った。

「もう政治判断ではなく、国家防衛問題だ。“抑止ユニット”に切り替えを伝えろ。“排除”だ」


■ 沙耶、過去の扉を開く

午後、記録室の沙耶はある人物に会っていた。

待ち合わせ場所は、浅草の古い喫茶店。

そこに現れたのは、かつて大学時代の“情報工作員”と疑われた男──坂城真である。

「久しぶりだな。ずっと見てたよ、君のやってることを」

「見てた……?それとも、“監視してた”の?」

「両方だよ」

坂城は、躊躇なく答えた。

「君が大学の報道研究会に入ったとき、既に“ターゲット”になってた。“記録室計画”に加担しそうな学生リストが、文科省から流れてたんだ」

沙耶は震える手でコーヒーを口に運んだ。

「どうして、いま話すの?」

坂城は、ポケットから小さな紙を差し出した。

そこには、あるコード番号が記されていた。

【MK-FL-00121】──高瀬沙耶・記録操作予定対象・1999年候補生案

「……これは?」

「君も、“書き換え予定の記録者”だった。だけど、ある段階で除外された。“人格安定度が高すぎて、改変に向かない”って」

沈黙。

沙耶は、やっと言葉を紡いだ。

「それを、なぜ今……?」

「俺はもう、こっちの側にいる。“改変”は、必ず自分の中も侵食する。何年かけても、取り戻せない何かを失うんだよ」

坂城は背を向け、立ち去った。

その背中を見送りながら、沙耶の目に、一筋の涙がにじんでいた。


■ 破壊者と守護者

その夜、記録室内では**“最終公開”に関する議論**が続いていた。

「ここまで来たら、後戻りできない。でも、次の一手は……」

赤松は、しばし沈黙したあと、口を開いた。

「我々が今持つ情報の中で、最も破壊力のあるものは、“記憶改変実施リスト”だ。つまり、“誰が操作されたか”の一覧」

「それを出すんですか……?」

「名前を伏せたとしても、関係者の職業や改変理由から、容易に個人が特定されるでしょう。下手をすれば、“日常が壊れる”」

三雲が言う。

「でも、それでも公開すべきだ。“この国家の思考構造が操作されてきた事実”が、いま問われてる」

沙耶も静かに頷いた。

「一度でも書き換えられた人生があるなら、それに対して“記録の正義”がなければ、すべてが虚構になってしまう」

赤松は、ゆっくりと端末を開き、画面にリストファイルを表示した。

そのタイトル:

『国家心理遷移計画・対象記録一覧(1989–2020)』


■ 降下する影

深夜1時。

記録室の拠点周辺に、身元不明のドローンが複数、低空を旋回していた。

監視カメラには、黒づくめの人物がビルの影に立ち、何かを受信している姿。

三雲が窓辺から身を乗り出した。

「もう、“直接的な排除”が始まってる。近いうち、ネット遮断もあるかもしれない」

「なら……公開は、明日の午前4時だ」

赤松は、時計を見つめて決めた。

「国家が起きる前に、記録を起こす」


■ “記録の審判”

そして、午前4時。

“記憶改変対象リスト”は、記録室の専用サーバを通じて、分散型ノードに送信された。

アップロード完了と同時に、ネットには不穏な空白。

一部サーバが遮断され、一部メディアサイトが「臨時メンテナンス」に入る。

しかし、分散されたファイルの一部はすでに複数の国際研究機関に複製されていた。

「止まらない……もう誰にも」

沙耶がつぶやいた。

赤松は言った。

「記録は、人間の声だ。誰にも消せない、忘却に抗う鼓動だ」

その瞬間、記録室のモニターがひとつ、警告を表示した。

“外部アクセス検知──正体不明。強制遮断作動中”

三雲がつぶやいた。

「“奴ら”も、最後の手に出てきたな」

第七十四章 仮面の崩落

午前七時。

首都圏の通勤時間帯を前にして、ネット空間は静かだった。

不自然なまでの静寂。

まるで、嵐の前の呼吸を潜めるような、沈んだ気配で満ちていた。

だが、その沈黙は午前七時二十二分、ある一件のツイートによって破られた。

「これは私の父の名前です。記録改変対象として、このリストに含まれていました。私は何を信じて生きてきたのか。#記憶の虚構 #記録室」

この投稿が、引き金となった。

一気に、連鎖が起きた。

「弟が三年前、突然職を辞して姿を消した。いま、理由がわかった気がする」

「1989年のデモに参加した直後、母が“発作性健忘”にかかったとされていたが、彼女は“記憶改変実施者”だった」

“記憶”と“記録”という、本来内面に閉ざされるはずの領域が、ネット空間であけすけに暴かれ始めた。

その事実の重みよりも、“証言が出る”という事態そのものが、国家の安全保障にとって危険だった。


■ 霞が関の破裂点

総務省・情報セキュリティ統括室。

午前八時、職員たちは通常通りの出勤風景を装っていた。

だが、本庁三階の会議室では、極秘の緊急招集が行われていた。

「すでに拡散済みです。遮断しても、ミラーがいくつも存在する」

「対処不能……か」

官僚の一人が、小さく肩を落とした。

「このリストは、実名こそ伏せられているが、構造から見て、少なくとも“内部関係者”しか知り得ない書式だ。国家が、認めたに等しい」

その場にいた老官僚──政策情報室長・**諫早統一郎(いさはや とういちろう)**が唇を噛んだ。

「最悪の事態だ。これで、内閣どころか制度そのものが問われる」

「……いかが致しますか」

誰かが問う。

諫早は、躊躇しながら言った。

「“記録室”への実働措置を、司法経由で進める。だが、それと並行して**“スケープゴートの構築”も急げ。全責任を“第三勢力”へ転嫁する線だ**」

「はい。いわゆる“海外勢力による情報偽装”という枠で……」

「そうだ。すべて、架空にすり替えろ。記録も、証拠も、存在自体も」


■ 記録室、防衛の決断

高瀬沙耶は、記録室のサブ端末に向かっていた。

その表情に、これまで見せなかった“決断の色”が宿っていた。

「もう、“自動分散”だけでは足りない。こちらから“記録の核心”を、公開していくしかない」

「それって……禁じ手だ」

三雲が言う。

「禁じ手じゃない、“最終手段”だよ。いま出さなければ、全てが“ねつ造”として扱われる」

沙耶の言葉に、赤松も頷いた。

「よし。“MK-FR-T1”ファイルの公開準備に入れ。あれが、“心理遷移計画”の設計根拠だ。国家が否定できなくなる」

そのとき、サーバーの警告音が鳴った。

「アクセス遮断工作、ステージ3に突入。第三者によるDNS破壊試行を確認」

「速い……奴ら、仕留めにきてる」

「急げ。“司法枠”を巻き込め。告発と同時に、“違法調査と記録改ざんの憲法違反”を訴えるんだ」


■ 法廷への突破

その昼、記録室の弁護士チームが、東京地方裁判所に「国家機密改変と基本的人権の侵害」に関する訴状を提出した。

これが、司法記者クラブ経由で報道機関に漏れる。

夕刻のNHK特番では、珍しく“政府コメントなし”という状態が続いた。

一方で、SNS上では無数の市民が次々と名乗り出ていた。

「私の記録も、改変されたはずです。書類と実体験に明確な齟齬があります」

「精神病歴が突然つけられた。調べると、“改変後の安定化”のためと記された書類が」

その波は、止まらなかった。

止まるはずがなかった。


■ 崩れる中枢と“別の声”

その夜、官邸地下にある特別監視室。

杉村英介は、複数の端末を前に指令を出していた。

「フェーズC。物理排除の準備に入れ。記録室の拠点、物理的接触の検討を開始」

「了解」

だが、その背後のモニターが突然、何者かのハッキングを受けた。

画面に映るのは、黒いフードの男の顔。

音声は変調されていた。

「この国の記録は、あなた方のためだけに存在しているわけではない。私たちも、“記録”する側だ」

「誰だ……!」

「あなた方が忘れた、もうひとつの“政府”だよ。記憶の影から這い出してきた、“かつての補助者たち”だ」

映像はそこで、断ち切られた。

杉村の表情が、凍りついた。


■ 民衆の声、そして次の審判へ

深夜。

「記録室」の名前はトレンド一位を超え、“仮想政府”として、いくつかの政治団体にまで接触を受けていた。

高瀬沙耶は、自らのスマートフォンを見つめながらつぶやいた。

「もう、止まらない。“記録”は、国家をも動かす時代に入った」

赤松は黙って、明日の公開予定ファイルを確認した。

その名は──

『記憶改変実施官名簿(1991–2023)』

(第七十五章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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