松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第六十九章・第七十章

目次

第六十九章 顔を晒す者たち

午前十時。

《記録室》に投稿された片岡道隆の“実名告発”は、まるで嵐の予兆のようにネット空間を揺さぶった。ツイッターでは「#実名告発」「#片岡道隆」「#記録室の証言」が一気にトレンド入りし、特に若年層を中心に一種のカタルシスのような反応が広がった。

一方で、異様な静けさもあった。大手メディアが、これまでにない沈黙を保っていたのだ。まるで、何かを待っているかのように。

赤松大吾は、仮設編集室で片岡の投稿を十度以上読み返していた。

かつて私が見たもの。それは、「記録」の変造ではなく、「記憶」そのものの改竄だった。

「日本人らしさ」を強化するという名目で、過去の情報にアクセスする能力そのものを変える技術。

誰がそれを命じ、誰がその設計図を描いたのか。私は知っている。

「……ここまで出すとはな」

赤松がつぶやくと、高瀬沙耶がモニター越しに答えた。

「彼は、仮面を脱いだ。誰かが“顔を出す”という行為は、どんな爆弾より重い」


■ 監視の目、動く

千代田区の警視庁地下情報管理室。

複数の監視用端末が並ぶ中、一つの端末に“警告音”が鳴り響いた。

「片岡道隆、映像メディアでの言及準備。自宅から報道フリーランスのオフィスへ移動中です」

監視員の報告に、責任者の公安調査庁第二部・柴田卓也が顔をしかめた。

「……やはり、出てくるか。“顔を晒す”とは、つまり守られる場所から出てきたということだ。潰せる」

柴田は無言で資料をめくり、一枚の計画書を指さした。

案件コード:F-82 “信頼崩壊工作(人格攻撃)”

対象:片岡道隆、高瀬沙耶、赤松大吾

方法:過去の交友記録の精査・スキャンダル構築・SNS内部誘導工作の実行

「始めろ」


■ 醜聞というナイフ

その日、午後五時。

とあるニュース系まとめサイトに、一本の記事が投稿された。

元防衛技官・片岡道隆氏に“過去の不正受給疑惑” 取材協力者が証言

「彼は記録操作ではなく、ただの“経費詐取”の言い訳をしているだけ」

同時に、ある匿名アカウントがこうツイートした。

「なんか急に“正義の人”ぶってるけど、昔は経費で風俗行ってたんじゃん? #片岡道隆」

この投稿は、短時間で拡散された。

明らかに“仕組まれた”臭いが漂っていたが、それでも疑念は疑念として人々の心に残る。

「人格を潰して、発言を無力化する……こういうやり口か」

沙耶は口元を引き結んだ。

だが赤松は、逆に冷静だった。

「ここからが勝負だ。どれだけ“泥”を投げられても、それでも声を残せるかどうか」


■ “告白者”の再来

その夜、《記録室》に新たな投稿があった。

差出人は不明だったが、文体、構成、そして記載された内容から、すぐに赤松はそれが佐伯功であると気づいた。

……片岡氏は、本物です。

彼がかつて私を救ったことがある。記憶が崩壊しかけた私に、「それでも記録せよ」と言ってくれた唯一の人間だった。

もし彼が“仮面”だというなら、私もまた仮面だ。

だが、仮面にも誇りはある。

我々の記録が、どんな嘘に包囲されても、真実そのものは“声”の中に残っている。

赤松は静かにその文章を読み終え、ゆっくりと頷いた。

「仮面を剥がされる覚悟が、仮面そのものの強さになる。ならば、我々も覚悟しよう」


■ 録音された“沈黙”

同じ頃。品川の高級ホテルの一室で、男がひとり、古びたICレコーダーを机に置いた。

「……あの時の録音、まだ残っていたとはな」

男は元国会議員秘書。

10年前、官邸内での“非公式ブリーフィング”を隠し録りしていた音声ファイルを、ただ一人のジャーナリストに託そうとしていた。

「自分の声も入ってる。出せば、自分も潰される。だが……記録の価値は、声の恐れを越えたときにあるんだろ?」

彼は静かにイヤホンを装着し、再生ボタンを押した。

――《……いずれ、国民の記憶は整理される。混乱を防ぐために、必要なことだ。個人の感情は、国家にとって障害でしかない》

その音声の主は、かつての首相補佐官だった。


■ 総理官邸の“決断”

翌朝、総理執務室。

現首相・志波敬一郎は、仙波仁と二人きりで対峙していた。

「……片岡の件、拡散が止まらん。君のチーム、まだ制御できるのか?」

仙波は無言で資料を出した。

「次のステップに入ります。これは“法”の出番です。情報管理強化法の緊急上程を図りましょう。記録という概念そのものを“公的なもの”と定義する法案です」

「記録を、国の管理下に?」

「その通りです。“自由な記録”が世を乱す。ならば、記録とは“国家の責任”であると定義してしまえばよい」

首相は沈黙したまま、窓の外の曇り空を見ていた。


■ 夜の声明

その夜、《記録室》は公式にこう声明を出した。

記録は、過去を封印する道具ではない。未来を開く扉である。

仮面を脱いだ者を、我々は決して見捨てない。

たとえどんな泥が投げつけられても、“声”の重みを、歴史に刻む。

高瀬沙耶はこの文を読み上げると、静かに息を吐いた。

「これで……誰も引き返せなくなる」

赤松は、静かにパソコンの電源を切った。

「だからこそ、“記録者”になるんだ。泥の中に咲く、記憶の花のために」

第七十章 濁流の門

午前三時すぎ、雨。

東京・阿佐ヶ谷。人気のない住宅街を、黒いワゴン車が二台、音もなく走っていた。ナンバーは加工され、車体にはメーカーのロゴさえなかった。

その車が停まったのは、築三十年を超える一軒家の前。そこは《記録室》の一部機能が移された、赤松大吾の仮設編集拠点だった。

静かに車から降りた黒衣の男たちが、手にしていたのは――家宅捜索令状。

表札の灯が雨に滲む。「赤松大吾」。

ひとりがインターホンを押し、数秒の沈黙のあと、玄関がわずかに開かれる。

「……何か?」

「赤松大吾氏ですね。警視庁公安部です。“国家機密保持法違反の疑い”により、捜索させていただきます」

「国家……機密?」

赤松はわずかに驚いた声を漏らしたが、即座に引き締めた。

「なるほど。来るとは思っていたが、“この名目”で来るとはね」


■ 粛々たる強制

赤松の許可なく、男たちは屋内へと足を踏み入れる。書棚、デスク、ノートパソコン、通信機器……あらゆるものが無言で回収されていく。

「この令状は、任意の通信記録まで押収対象に含んでいます。ご承知を」

「あいにく、そこまでお利口なファイルはここには置いてないがね」

男の一人が無言で赤松を睨んだ。だが、赤松は怯えなかった。むしろ静かに挑むような眼差しを向けていた。

その最中、別室でサーバー用のタワーが電源を落とされ、次々とコードが抜かれてゆく。

沙耶からのメッセージがタブレットに届いた。

「“記録の枝”が折られ始めた。私の方でもバックアップを移動させる」

赤松は即座に返信した。

「まだ“幹”は折られていない。だが奴らは、次に“根”を狙ってくる」


■ 公共放送の無音

翌朝八時。

NHKのニュース番組では、次のような一文だけがテロップで報じられた。

《記録室》運営関係者の一部に、国家機密保持法違反の疑い。警視庁が任意での事情聴取を開始――

報道には背景説明も、関係人物の名も一切なかった。視聴者の大半は、この短文にどこか既視感を抱いた。あまりに、よくある“情報封じのテンプレート”だったのだ。

しかし、それは火消しにはならなかった。逆に、ネット上では次々と《記録室》への支持を訴える声が広がった。

「事実を出したら、次は“国家機密”扱いか?」

「自分の記憶が、国家のものになる日が来たんだな」

「だったら俺たちは、無数の《記録室》になろう」

その波は、思った以上に速く、そして重かった。


■ 反撃の端緒

その昼、地方都市・浜松の工業団地の片隅で、小さな集会が行われていた。

そこには、若い大学生から元技術者、60代の退職教師まで、30名以上が集まっていた。

「これが、赤松たちのために我々にできることです」

その男は、《記録室》の投稿内容を紙に印刷し、独自に翻訳・要約したものを地域の図書館や大学に匿名で送り届ける手配をしていた。

「“真実”は、デジタルだけのものじゃない。文字として、紙として、手の温度で残せるものだと信じたい」

誰かが拍手した。

その瞬間、濁流の中にあっても“火”があると知った。


■ 匿名の電話

午後五時。

沙耶の携帯に、非通知の着信。

「……もしもし?」

「高瀬さん、あなたが今も《記録室》の中核を担っていると知って、連絡した。私は某通信大手の技術部門にいた者だ」

男の声は震えていた。

「2009年、政府の要請で“特定サイトのDNS誘導遮断”の実験が行われた。その対象に含まれていたのが、当時の“記憶保存系統”だった」

「記憶保存系統……まさか、図書館のバックアップ・クラウド?」

「その通り。過去の新聞、教育番組、文化財記録……それらが“誤作動”によって消えたとされたが、違う。“故意の圧縮”だった」

沈黙。

沙耶は受話器を強く握った。

「あなた、証言できますか? 実名でなくても、記録に――」

「送る。すべて送る。私の罪でもあるから」


■ 沈む光、浮かぶ声

その晩、赤松は一人、仮設拠点近くの河川敷を歩いていた。

誰にも話しかけられない時間を必要としていた。

川の水面には、濁った空の光が静かに反射している。

「記録とは何か。真実とは何か。俺はそれを文章にすれば答えられると思っていた。だが……」

彼の手が、ポケットに忍ばせた古びたカセットテープを握りしめた。

それは、彼が記者になったばかりの頃、ある老人の証言を録音したものだった。

「ワシの記憶なんか、誰も信じんだろう。けどな、大吾クン。記憶ちゅうのはな、“信じる側”の問題なんじゃ」

テープの中の声が、ふいに脳裏に蘇った。

赤松は夜空を見上げた。

「信じる側がいなくなれば、記録なんてただの紙屑か……でも、まだいる。そうだよな」


■ 次なる標的

その夜遅く、政府関係のある内部文書が関係省庁に配布された。

《記録室》拠点の次なる解体候補:A地区・Bサーバー群

次回作戦コード:黒灯(くろび)

対象者一覧:高瀬沙耶、片岡道隆、佐伯功……

優先順:心理的脆弱性の高い順に“操作”を開始

この文書の写真が、一枚だけ何者かにより《記録室》にリークされた。

投稿タイトル:

「彼らは、記録すら記録される時代に生きている」

反響は、凄まじかった。


■ 声の海

第七十章の終わり。

夜中の記録室には、世界中から投稿が寄せられていた。

「私は、東欧の記録運動に参加した元学生です」

「我々も、歴史を国家に奪われた」

「記録する者よ、負けるな」

赤松はその声の海を眺めながら、口元をゆがめた。

「誰かが、どこかで、記憶を持ち寄ってくれている――」

曇天の下、記憶の炎は消えていなかった。

(第七十一章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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