第六十七章 拒絶の臍帯(さいたい)
夜明け前の霞が関は、冷たい霧に包まれていた。
照明の灯る一部の庁舎を残し、官僚の動きも鈍い。だが、その沈黙の裏では、いくつもの会議が、密かに、重たく進行していた。
警察庁地下三階の第七会議室。
壁一面のモニターに映るのは、《記録室》のウェブサイトと、関連するSNS投稿の数々。
そこに集まったのは、公安、内閣情報調査室、そしてデジタル庁の幹部。情報の遮断と“修復”を担う中枢だった。
一人の男が低い声で呟いた。
「これは“報道”ではない。だが、拡散する言葉は、国家を超える」
「記録される前に、沈めねばならない」
沈める――それは物理的な排除ではない。人格攻撃、法的潰し、世論誘導。
かつて数多の“告発”を封じた方法が、再び適用されようとしていた。
「高瀬沙耶という記者、過去の不祥事を探せ。赤松大吾は私生活を洗え。三雲翔平は……思想的背景を潰せ」
「ネット空間は『放任』から『制御』へ。民間協力を進めろ」
一人が言った。
「では、総理は?」
返ってきたのは、沈黙だった。
■ 記録室、戦慄の朝
その頃、都内某所の《記録室》仮設編集室には異変が起きていた。
高瀬沙耶がPCを開くと、管理画面に警告が並ぶ。
「…アクセス元不明のログイン試行が今朝だけで七十二件…?」
「データの一部が、消去されてる」
赤松が低く言った。
「始まったな。情報の“殺人”だ」
電源が落ちたわけでもない。外部からの物理侵入もない。だが、証言のひとつが、まるで最初から存在しなかったかのように削除されていた。
「これが“反撃”か」
沙耶の手がわずかに震える。
だが赤松は、静かにUSBを取り出した。
「本物は、まだここにある。表に出さずとも、“証拠”は保存されている。だが、攻撃が始まった以上、守るべきはデータじゃない。人間の意志だ」
■ 匿名の告発者、再び現る
午後。ひとつのメールが届く。
件名:「記録室に、最新情報を託します」
差出人:「Y.H.(仮名)――某政党職員」
添付ファイル:F帳簿・2021年度版(抜粋)
ファイルを開くと、そこには近年の省庁人事と不可解な“職務移動”の記録が羅列されていた。
ある者は突然左遷、ある者は異常な昇進。そして一部には「非開示対象」の記載。
「これは……F帳簿の“現行版”じゃないか……?」
赤松が唸る。
沙耶は言った。
「これ、公開したら、完全に“国家犯罪”になりますよ」
「だが、隠しても意味がない。出し方だ。公開するのではなく、“誰が読むか”を選ぶ。それが今回の勝負だ」
赤松は“記録室”に新しい階層ページを立てる。
《特定関係者限定・暗号認証記録室》
そこへ、政治学者、元判事、報道関係者など十数名だけにリンクを送信する。
読者を煽らない。扇動しない。ただ、“責任ある目”に記録を晒す。
■ ネット空間で起きた異変
だがその夜、“記録室”のサイトには異常が起きた。
「全く関係ない、煽動的動画が無数に貼り付けられてる……! しかもAIで加工された偽証言も……!」
「これは……“偽情報攻撃”だ。真実の重みを薄めるための」
情報の海の中に、“本物”と“偽物”を混ぜる――それが最大の撹乱だった。
赤松は呟く。
「沈黙よりも、嘘を混ぜた喧騒のほうが怖いんだよ。だが……こちらも、次の手はある」
■ 赤松の一手:封筒作戦
赤松は旧知の新聞記者、テレビ局の報道プロデューサー、そして一人のベテラン検事に向けて、それぞれ手紙を書いた。
手書きの封筒には、こう記されていた。
「真実に触れる準備ができているあなたへ。これは、“記録”です」
中には、F帳簿抜粋、証言録、写真資料、そして赤松自身の手記。
三日後、ひとつの報道番組が始まりの兆しを見せた。
だがそれは決して「特集」でも「告発」でもなかった。
ナレーションもなく、映像だけが淡々と流れた。
・崩れた地下鉄構内
・精神を病んだ証言者の病院記録
・記録室のWEBサイトを開く無言の若者
――静かな、だが痛切な可視化。
SNSではある言葉が拡散され始める。
「これは、“政府批判”ではない。“記録の可視化”だ」
■ 公権力の応答
内閣広報室が翌朝、声明を発表した。
「現在、ネット上に流布されている“F帳簿”なる文書について、政府は一切関与しておらず、またその信憑性には疑問があると認識しております」
だが、その文言には“偽造”や“違法”という語は使われなかった。
司法の判断も、動きも、なかった。
沙耶は呟く。
「無視はもうできない。でも、“正面衝突”もしたくない。これが、国家の態度なのね」
赤松は静かにうなずいた。
「ならば、我々も同じだ。“真実を突きつける”のではない。“記録を残し続ける”だけだ」
■ 最後の行:三雲翔平の決断
その頃、三雲翔平は再び郡山の古書店を訪れていた。
店主が一冊の書物を差し出す。
「これ、君の祖父が書いた“未公開の手記”だよ。栗原医師の最初の協力者が誰だったか、そこに記されている」
三雲はページを開いた。
そこには、衝撃の名が記されていた。
《上條省吾、元内閣参与――1967年、記録保存計画の創案者》
三雲の手が止まる。
「……あの人が、“記録室”の始祖だったのか」
彼は決意する。
「記録を、今度こそ、本にしよう。紙にして、後世に残す」
■ 記録された沈黙、その胎動
“記録室”の名前が、ついに新聞の片隅に載った。
《ネット上に匿名告発サイト、真偽定かならずも「記録」という形で拡散》
その短い記事は、だが確かに、人々の目に触れ始めていた。
沙耶はPCを閉じる。
「記録は、沈黙ではない。準備された未来への証言だ」
赤松も、手を止めて言った。
「そしてこれは、まだ“予兆”だ。風が吹き始めたにすぎない」
外では、蝉が最後の鳴き声を残していた。
第六十八章 仮面の演説
永田町の空が、重く垂れ込めていた。梅雨入り前の気配が、霞ヶ関の官庁街にじわじわと忍び寄る。
午後二時。衆議院第二議員会館。
六階の一室に、報道陣の姿はなかった。代わりに集められたのは、各省庁の渉外担当、広報官、国家安全保障局の実務官僚たちである。
そこに現れたのは、内閣情報調査室次長・仙波仁(せんば・ひとし)。年齢不詳の風貌に、ひときわ冷たい眼差しを宿した男だった。
「この“記録室”という動き。放置はできません。現時点で明確に政府機関が名指しされているわけではないが、連鎖は時間の問題です」
彼はプロジェクターで、ある一枚の画像を表示させた。
それは、《記録室》に投稿された一通の“手紙”だった。封筒の表面には、はっきりとこう書かれていた。
「厚労省地下第三研究区画で“記憶補正プログラム”に従事していた者です。現役を退いた今こそ、真実を語ります」
室内に、ざわりと波紋が走る。
「このままでは、記録は記憶を侵食し、記録者は英雄化する。それが政治にとっていかに危険か、説明は要りませんね」
仙波は冷笑を浮かべながら、口元を拭った。
「“仮面”を使いましょう。正義の仮面を被った人間を、逆に利用するのです」
■ “告発者狩り”という名のゲーム
同じ頃。都内のシェアオフィス《記録室》仮設編集拠点。
高瀬沙耶は、一本のファイルを読んでいた。それは昨日、郵送で届いた匿名証言の原稿。
「これは……公安内部の文書?」
中には、内部監視システムの運用指針が記されていた。そこには、明らかに違憲と判断されるような市民監視の手続き、AIによるネット上の“発言傾向”の自動分類、さらに“問題人物”と判断された者の“社会的無力化”プロトコルの記載まであった。
「……これを、本当に出すのか?」
赤松大吾は、いつになく慎重な表情で問う。
「出さなければ、次に狩られるのは“事実を信じた者”です」
沙耶の返答に、赤松はゆっくりとUSBを手に取った。
「出す。ただし、“記録”としてだ。断定も、感情も要らない。読み手が判断する」
■ メディアの逆流
深夜、記録室のサイトに「公安監視指針」が掲載された。もちろん、全ページの公開は避け、法的リスクを回避するギリギリの形式での“引用”にとどめた。
それでも、ネット上には即座に波紋が広がった。
「これが事実なら、日本の監視国家化はすでに完了している」
「まるで戦中の特高警察の再来ではないか」
「誰が、どこまで知っていたのか」
同時に、大手メディアにも変化が生じ始めた。
あるキー局の情報番組が、わずかに記録室の動きに触れた。コメントの一つ。
「“陰謀論”と切り捨てるには、あまりにも証言の質が高い。これは記録ではなく、現代史だ」
それは、記録室の中にいた誰もが予想していなかった「逆流」だった。メディアが“外堀”から動き出していた。
■ 仮面の会見
その翌日。総理官邸前、午後三時。
総理補佐官・園田重信が、突如会見を開いた。
いつものように曖昧な笑顔を浮かべながら、彼はゆっくりと語り始めた。
「近年、インターネット上には“国家的陰謀”と称する未確認情報が流布されております。いずれも匿名性を利用した、不確かな記述です」
淡々とした語り口。それは、まるで《記録室》の存在を名指ししているかのようだった。
「我々は、真実に向き合う覚悟を持っています。しかし、匿名という仮面の下にある言葉には、必ずしも正義があるとは限りません」
だが、彼の言葉は奇妙な矛盾を含んでいた。
「政府としても、記録を重視しております。よって、民間の記録活動についても、必要に応じて協力する所存です」
高瀬沙耶がその会見の映像を見て、呆然とした顔をした。
「……利用する気だ。“記録”という言葉を政府のものにして、形骸化させようとしてる」
赤松はうなずいた。
「“仮面”を被ったんだよ。まるで我々が『正義ごっこ』をしているように見せかけて、記録という概念そのものを政府のプロパガンダに吸収させようとしている」
■ 破壊の準備
その夜。新宿の雑居ビルにて。
男がひとり、無言でモニターを見つめていた。公安系の下請けIT企業の内部端末。
画面には《記録室》の内部構造、通信トラフィックの分析結果、そして「関与者」と推定される個人名のリストが表示されている。
そこに、新しいプロトコルが追加された。
“P-3”:関与個人に対する“信頼性崩壊”施策の準備開始
彼は電話を手に取った。
「ターゲット、確認。準備に入る。標的は赤松大吾、および高瀬沙耶」
■ そして、沈黙を破る者
翌朝。
《記録室》の運営メンバーに一通のメールが届いた。
件名:声を繋ぐ
本文:
かつて、私は防衛省で記録操作のプロジェクトに関与していた。
その過程で失われた「記憶」こそが、国民の主体性を奪っていると確信した。
記録は、個人の声でなければならない。仮面ではなく、顔を晒して語る。
だから、私は“実名”で出ます。
名:片岡道隆(元技術研究本部職員)
添付:内部メモ、当時の議事録、覚書写し、証明可能なバッジナンバー
赤松は、画面を見つめながら、静かに言った。
「……始まるな。“本物”が出てきた」
■ 仮面の裏側にあるもの
同じ頃、永田町の地下通路。
仙波仁がひとり、スマートフォンで画面を見つめていた。
「片岡……また面倒な奴が出てきたな」
その目には怒りも、焦りもなかった。
ただ淡々と、冷静に次の一手を練るような光だけが、残っていた。
(第六十九章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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