第六十五章 記憶の対価
八月最後の午後、都心の温度は37度を超えていた。
霞が関の古びた合同庁舎。その最上階――廃室に近い書類保管室の一角に、一人の男がいた。
退官から既に十年が経っているにもかかわらず、彼は今なお省の一室に自由に出入りできる“例外的存在”だった。
堀内祐一(ほりうち ゆういち)。かつて国家戦略室に所属し、「記憶管理政策」の草案作成に深く関与していた男だ。
彼の前には、三冊のファイルが並んでいた。
表紙には、それぞれ鉛筆で書かれたイニシャル。
「H」「F」「K」
それらは過去の対象者コードであり、同時に、“記憶改変計画”における中核被験体の略称でもあった。
堀内はゆっくりと椅子に腰を下ろすと、ため息混じりに呟いた。
「……ついにここまで来たか」
机の上には、印刷された《記録室》のトップページが置かれていた。
数日前から更新を追い、特に昨日の“佐伯証言・第二弾”を読み、ついに覚悟を決めたのだった。
■ 暗黒の年
堀内の頭には、二十五年前のある会議が蘇っていた。
都内の某研究所。防音扉の奥で開かれた“非公式プロジェクト会合”。
そこには、厚労省、警察庁、防衛省、文科省からの代表が一堂に会していた。
議題は一つ。
「改変可能な記憶の条件とその社会的応用」
堀内はその中心にいた。心理学博士として招聘され、記憶構造の可塑性について報告を行った。
「記憶とは、個人の“時間”である。
それを改変するということは、その人間の“存在の連続性”を断ち切る行為に他ならない。
……だが、その代償を測る指標が、当時は存在しなかった」
会議では反対意見も出たが、最終的に“緊急事態対応としての実証実験”という名目で、研究は進められた。
改変実験は地下施設で行われ、記録は厳重に秘匿された。
■ 内側の後悔
堀内は机に置かれたペンを取り上げると、手紙を書き始めた。宛先は《記録室》編集部。差出人は明かさない。
ただ一言だけ、署名の代わりに記した。
「H-127/責任者より」
彼の筆は震えながらも、まっすぐだった。
私たちは、「消す」ことに酔っていた。
それが人間にどれだけの喪失を与えるか、測る術がなかったからだ。
政府も、我々も、言い訳をした。国家安全、精神衛生、社会秩序……
だが、消された記憶の“痕跡”は消えなかった。
それが“副作用”として戻ってきた。
私は、生きている限りそれを背負う。
そして、可能な限りの記録を託す。
封筒には、数枚の資料コピーが添えられていた。
そこには被験者の個人記録と、堀内の手書きメモが重ねられていた。
■ 狙われる器
同時刻、記録室の仮設編集室では、赤松と高瀬が焦りを見せていた。
「サーバーが狙われています。DDoS攻撃……かなり本格的です」
沙耶の声がわずかに震える。
「ただの個人じゃありません。これは、組織的な妨害です」
赤松は黙ってキーボードを叩き、ログを確認した。
IPアドレスの複数が、官公庁系ネットワークからのものだった。
「奴ら、“中から”仕掛けてきたか。だが、これが“効果的”ということでもある」
彼はUSBから緊急用バックアップを起動し、新たなドメインへサイトを分散。
「器が破壊されるなら、器を複数にするだけだ」
■ ふたつの火種
夜、三雲翔平は郡山のアパートに戻ると、一通の封筒が郵便受けに挟まっているのに気づいた。
差出人なし。だが、中の文面は一目でそれと分かった。
堀内からの告白だった。
三雲は顔をしかめた。彼の名は、栗原医師のノートにも何度か登場していた“中核関係者”だった。
「この人が、ついに……」
内容は一言では要約できない重さを持っていたが、記録室にとっては重大な一次情報だった。
三雲は手紙をデータ化し、編集部に送った後、そっと机の上に封筒を戻した。
封筒の裏には、小さなメモがあった。
「記憶の代価は、必ず回収される。だが、それを“記録”する者だけが、未来を語れる」
■ 別の地図を持つ者
その翌日。
都内のある高校教員が、《記録室》に長文の証言を投稿した。
彼はかつて、改変実験の“教育現場モニター”として協力していたと語った。
生徒の意欲低下、人格変調、記憶の飛躍的減退……それらが意図された“教育的抑制”として処理されていたという。
教育まで改変対象となっていた事実は、さらなる波紋を呼んだ。
赤松は、証言を見つめてつぶやいた。
「ここまで来れば、もう“終息”はない。“終わり方”があるだけだ」
■ 壁の裂け目
その夜、《記録室》のメインページに堀内の証言全文がアップされた。
投稿はわずか数時間で12万以上の閲覧を記録し、SNSでは“内部責任者が名乗り出た”という報が急拡散。
そして深夜0時。
ついに、ある在京テレビ局の報道番組が、《記録室》について言及した。
「ネット上で今、国家記憶改変に関する複数の証言が公開されています……」
それはわずか30秒の短い報道だったが、報道規制の“壁”に最初の亀裂が入った瞬間でもあった。
■ つづく目撃者たち
一連の流れに呼応するように、翌日には元刑事、元精神科医、元裁判所職員などの証言が続々と寄せられる。
それぞれが小さなピースだったが、確かに“全体像”を浮かび上がらせ始めていた。
地下施設、F帳簿、人格解離、教育現場、薬理補助、行政の統計操作……
それらはばらばらな線に見えて、確実に同一の円周に向かっていた。
■ 静かな結論
夜更けの記録室。赤松がひとり、古い万年筆で原稿を綴っていた。
歴史は語られなければ、存在しない。
だが、語られた記憶もまた、容易に“改変”され得る。
記録とは、いわば“人間の自衛”である。
声なき証言者たちへ。私たちは、あなたを“記録”する。
記録こそ、沈黙に対する最大の抗いである。
原稿の一節を、彼はサイトのトップへ掲示する準備をした。
そして静かに、画面に呟いた。
「“声”は、もう止まらない」
第六十六章 棺の中の地図
八月も末日を迎え、都内には残暑が滲むようにまとわりついていた。
赤松達の手に渡った堀内祐一の証言は、衝撃的であると同時に、ある種の静けさを孕んでいた。
それは、狂気の断面というより、理性によって封印された暴力の設計図だった。
記録室の仮設編集室では、沙耶が資料をスキャンしながら口を開いた。
「これ……堀内が書いた“人格誘導プログラム”の原案です。
言語的暗示を通じて、記憶と行動をセットで再編成する。
“条件付き認識”と呼ばれていたもの」
高瀬が資料に目を通しながら、低く唸った。
「記憶改変って……もっと単純な、上書きだと思っていた。
でも、これは違う。“自分でそう思った”と信じ込ませる構造だ」
沙耶が頷いた。
「怖いのは、対象が“納得”してしまうこと。
記憶は消されない。“納得”されるの。つまり、過去の否定じゃなく、選び直しなのよ」
赤松が無言でパソコンに打ち込んでいた手を止めた。
「……つまりこれは、記憶の“政治化”だな。
意見を誘導するんじゃない。“過去の体験そのもの”を編集する。
一人ひとりの物語が、別の結末に改竄されていく」
■ 一通の遺書
その夜。郊外のマンションで、ある男が命を絶った。
元公安調査庁の係官、関谷慎司。年齢は五十四歳。
彼は退職後、都内の小さなセキュリティ会社で“対ネット工作”のコンサルタントを務めていた。
死因は、睡眠導入剤の過剰摂取。
彼の遺体のそばには、手書きの封筒が残されていた。
封筒には、受取人名としてこう記されていた。
《記録室 沙耶様》
その中にあった遺書の文面は、こう始まっていた。
私は、かつてある“観察対象”に介入しました。
彼の記憶を整理し、ある感情を除去するよう指示されたのです。
その感情とは“罪悪感”でした。
人間は罪悪感を失うと、驚くほど整然と行動します。
理性的で、社会的に。だが、そこに人間的“重さ”はありません。
それが我々の成果であり、同時に、最大の過ちだった。
沙耶は、読み終えると黙って立ち上がった。
赤松に封筒を差し出しながら呟いた。
「“棺の中の地図”が、また一枚、増えたわ」
赤松は問い返した。
「棺?」
「ええ……彼らが何かを隠すとき、それを“棺”に入れるのよ。
死んだ記録。葬られた真実。
でも、私たちはそれを開けている。
その中に、かつて国家が描いた“地図”がある」
■ 不可視の手紙
三雲翔平は、郡山の喫茶店で新たな証言者と面会していた。
その男、矢島孝志は、元医療情報システムの開発者。
彼の手には、古びたノートPCがあった。
「これを見てほしい」
画面には、十年以上前のデータベースのログ。
そこには、厚労省の裏付け部門からアクセスされたログイン履歴が並んでいた。
「このシステム、“自殺リスク予測AI”って名目だった。
でも実態は、“意図的記憶改変後の挙動監視”だった。
俺は開発に関わったが、途中でおかしいと思って抜けた」
三雲は身を乗り出す。
「なぜ、今話すんですか?」
矢島は、ため息混じりに答えた。
「娘が……中学で人格崩壊した。
ある時期から急に、記憶が飛んだようになって、意味のない発話を繰り返すようになった。
“言語処理”に問題が生じたって診断されたけど……
俺は、それが偶然とは思えなかった」
彼の言葉に、三雲は深く頷いた。
「それ、起きてるんです。“言葉”を編集された結果、思考そのものが分裂する。
“意味を構築できなくなる”人間が出てきている」
■ 電波の彼方で
同じ頃、記録室のサーバーに新たなアクセスがあった。
それは、極めて古いプロトコルを使っていた。
「これ……衛星電話のルートです」
高瀬が眉をしかめた。
データの送り主は不明。
だが、添付ファイルには、鮮明な文書スキャンが十数枚。
そこにはこう記されていた。
「特定人格誘導計画・案」
起案者:H.Y.(堀内祐一)
承認者:***
内容は、国民の“集団記憶”を操作し、特定の方向へ社会的合意を形成するというものであった。
すなわち――
■ 被験者集団(特定世代)に記憶パターンを植え付け、
■ 社会的に“回想”させ、
■ それが事実であったかのような“集合的記憶”として拡散する。
それは、まさに「虚構の歴史」を作る技術的マニュアルであった。
赤松は、文書の末尾を見つめて呻いた。
「……これは、“歴史の創作手段”だ。
だが、最大の問題は、それが“誰にとっての正義”だったかということだ」
■ 終章へ向かう予兆
数時間後。
政府広報が、匿名投稿の一部を“偽情報”として否定する声明を発表。
しかし、メディアの一部は慎重な論調を取り始めていた。
「真偽は不明ながら、投稿の一部は信ぴょう性がある」「過去の政策と照合可能な点も」――
その中で、記録室の読者数は百万を突破。
沙耶は疲労困憊のまま、ベンチに腰掛けながら呟いた。
「“記録”って、こんなにしんどいことだったのね……
でも、それだけの“痛み”が、今も残ってるってこと」
赤松は、彼女の隣に座りながら言った。
「記録とは、過去の供養じゃない。
これは、“未来の設計”だ。
そう思える者だけが、証言を続ける」
夜の風が窓を叩いた。
仮設編集室には、まだ明かりが灯っていた。
(第六十七章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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