第六十三章 冷たい手
霞が関の空は、梅雨入り前の湿った曇天だった。
経産省旧庁舎の最上階。冷房の効いた会議室に、内閣情報調査室の職員をはじめ、警察庁、総務省、外務省の一部局から集められた六人の男たちがいた。壁には「統合対策会議」と書かれた仮の札。だが実態は、監視と対処の非公式打ち合わせだった。
中心に座るのは、情報調査室の室長・西園寺悟。
五十代後半。メタルフレームの眼鏡越しに相手を見据える視線は、冷静を装いつつも獣のような警戒を宿していた。
「《記録室》の影響が、予想よりも早い。公開された資料の一部は我々の“補完ファイル”と一致する」
静寂が落ちる。
総務省から来た男が重い口を開いた。
「……当該情報は、いずれも一九七〇年代から八〇年代前半のもので、現政権との直接関係は希薄です。旧機密とみなせば処理は容易かと」
「問題はそこじゃない」
西園寺が手元の資料を指で叩いた。
「拡散元だ。旧メディア関係者、記者崩れの自主運営、そして……三雲翔平。彼は“栗原ノート”の所持者だ。我々が追いきれなかった“第一期記録”の生き証人と言っていい」
警察庁の男が前屈みになった。
「身辺監視はすでに始めておりますが、彼は動かない。まるで“待っている”ように見える」
「いや、違う」
西園寺の声が低くなる。
「“託している”のだ。自分ではなく、“記録室”に。それが不気味なんだ」
会議室の奥で、小さく咳払いをしたのは外務省出身の老幹部――元情報官僚の重鎮、川島邦彦だった。
「諸君、我々は何を守ってきたのか?」
誰も答えなかった。
「記憶は、時に国家の武器となり、時に毒となる。だが、それを統制する術を我々は持っていた。問題は、その術がいま、民間に渡りつつあるということだ」
川島の言葉に、誰もが沈黙した。
やがて西園寺が、重く口を開いた。
「……《記録室》へのアクセスは、まだログ的には匿名化されている。だが、特定は時間の問題だ。現在、DNSの再構成とルートログの逆引きを実施中」
「削除か?」
「否。削除ではない。奴らは“記録の価値”を信じている。ならば、記録を“別の意味”で塗り替えるしかない」
総務省の男が眉をひそめた。
「つまり……偽情報を紛れ込ませると?」
「そうだ」
西園寺は一枚のスライドを提示した。
そこには、いくつかの“フェイク・ドキュメント”案が並んでいた。
一見本物に見える、だが要所で改竄された帳簿。
匿名証言に混じる“作り物”の改変記録。
栗原ノートの“第二版”とされる、捏造された補足資料。
「真実の中に、嘘を混ぜる。これが“記録の破壊”において最も有効だ。全体の信用を揺るがせば、情報は再び霧に包まれる」
だがその瞬間、誰もが忘れていたひとつの事実が、背後で静かに息をしていた。
《記録室》の管理者たちは、すでにそれを想定していた。
その夜。
赤松大吾は、仮設編集室で新たな資料をチェックしていた。
高瀬沙耶が端末を操作しながら、モニターに映し出す一連の文書に、彼はある“違和感”を覚えた。
「この文書……不自然だ。“機密”の扱いにしては、構成が粗い」
沙耶が言った。
「はい、気づきました。これは“フェイク”です。意図的に記録室のフォーマットに似せた文体。でも、クロスリファレンスの挙動がおかしい。照合しても整合性が取れません」
「つまり……こちらに“嘘”を送り込んできたというわけか」
赤松は立ち上がった。
「奴らは、手段を変えてきた。記録を破壊せず、汚染する。だが、俺たちには“本物”がある。三雲が持っている、栗原ノート。あれを軸に、真贋の識別アルゴリズムを組む」
「デジタルで、“記録の鑑定”を?」
「そうだ。“記録の中の声”を守るには、機械的信頼の壁を作るしかない。信仰ではなく、仕組みで守る」
沙耶は頷き、即座に作業を始めた。
そしてその夜、記録室のサイトには新たなセクションが追加された。
《真贋照合機能》
投稿された文書が、栗原ノートとの照合により“整合性あり”かどうかを自動判別する仕組みだった。
ネット上でその機能が紹介されると、「記録室」の信用度は逆に高まり始めた。
敵の攻撃が、そのまま防御の壁になった瞬間だった。
その翌朝。
とある病院の談話室。
一人の初老の男性が、タブレットを開き、記録室のサイトを眺めていた。表示された“整合”マークに、彼は静かに頷いた。
彼の名は、佐伯功。かつて“記憶改変プロジェクト”に関与していた元・厚労省技官。すでに病気で余命わずかと宣告されていた。
だが、彼は決意していた。
「……俺も、話そう。過去を……いや、“記録”を」
彼が記録室の匿名投稿フォームに打ち込んだその内容は、後に「改変実務者の証言」として、大きな波紋を呼ぶことになる。
その声は、静かに、しかし確かに、沈黙を破り始めていた。
第六十四章 告白の列車
夏の暑気が残る、北東北の夜。
盛岡駅のホームには、最終列車の発車を待つ人影がまばらに点在していた。プラットフォームの蛍光灯が白く揺れ、ホームの端には、薄汚れたベンチに一人の男が座っていた。
佐伯功(さえき いさお)、元厚生労働省技官。
記録室に匿名証言を投稿した直後のことだった。
男は時折、タブレットの画面を見つめ、そして指を止めた。
「もう、止められない……」
彼の手がわずかに震え、瞳が潤んでいた。
やがて、列車の接近を知らせる警告音が鳴る。
ホームを縦断する構内アナウンス。「終列車、まもなく発車いたします。」
列車のライトが闇に浮かび上がる。
男は立ち上がると、ゆっくりと戸惑いながらホームへ向かった。
■ 列車の車中、告白は続く
座席に腰を下ろすと、アイスコーヒーの紙カップをそっと置いた。
タブレットを開く。
そこには、自分の投稿がすでに反響を呼んでいるさまが映し出されていた。
「#記録室」「#佐伯証言」「#国家記憶操作」などのハッシュタグ。
彼は深呼吸をひとつして、キーボードを叩き始めた。
佐伯証言・第二弾
私は改変の“補助技術”を設計した。
対象者を覚醒させるための音響パターン、暗示的映像…
これらは、記録のように精密に準備された。しかし、失敗もあった。
対象者の人格が崩壊し、精神病院へ送られた者たちがいた。
私は、それを“適応障害”と報告させた。
私も、そのひとりだ。今、はじめて、それを認める。
彼は指を止め、息を整えた。
そして、送信ボタンを押した。
■ 北国の黙示録
列車が鶯沢駅(架空)の無人ホームへと滑り込む。
男は降車する代わりに、窓越しに暗い田園風景を見つめた。
「事実は闇の中にあるとは限らない。ただ、闇で語られてきただけだ」
彼の言葉は、夜風にかき消える。
■ 記録室、静かなる反響
翌朝、記録室の仮設編集チームには驚きが広がっていた。
沙耶が赤松に話す。
「すごい数です。初動は数万件ですが、今は十万を超えました」
赤松は画面を見つめた。そこには匿名投稿が続々と並んでいる。
その中には、佐伯功の“告白・第二弾”。
読者は重く、だが共感をもって、その文末を受け止めた。
「これは……“内部告白”の連鎖だ。国家側の当事者が語り始める」
沙耶の声に、赤松は低く言った。
「我々は今、歴史の目撃者ではなく、記録の術者になろうとしている」
■ 暗部からの連絡
その昼下がり、沙耶のスマートフォンに非通知着信。
画面には「…」とだけ表示された。
通話ボタンを押すと、低い男の声が。
「記録室が、本当になる兆しが見えた。だが、注意しろ。奴らは“破壊”を諦めていない。次は、“人格攻撃”が来る」
「誰が?」
「名前を出すな。ただ……私たちもターゲットにされ始めている」
通話は切れた。
沙耶は顔を青ざめさせた。
赤松が顔をあげた。
「なるほどね。“声”を守ろうとすれば、発信者自身を狙われる。弱点は“器”と“中身”だけじゃない。人も脅かされる。だが……止められるか?」
■ 翼ある者の選択
夜、三雲翔平は郡山の古書店前で、出会った男性と再会を果たした。
その男、仮に“松田”と呼ばれる元自衛官だった。
「君の記事、読んだ。自分もやられた。記憶を戻す薬の実験。だが、警察に脅されたんだ」
三雲は静かに頷いた。
「“記録室”がある限り、声は消せない。だから……私も証言する」
松田は深呼吸し、証言内容を語り始めた。
だが、その背後には、ずっと三雲を見つめる古書店主がいた。
彼もまた、“記録の担い手”だった。
■ 記録される記録と、人間の記録者
その夜、松田の証言が加えられ、記録室のドキュメントはさらに深まった。
赤松と高瀬はその素材をまとめながら、ある“宣言文”を起草した。
「記録された沈黙が解かれるとき、日本は記憶の再構築を迫られるだろう。しかし、それは恐怖ではなく、覚醒の始まりである」
深夜。
その宣言は、ウェブサイトのトップに掲示された。
■ 静かなる地殻変動
翌朝、SNSや掲示板には“#覚醒”が飛び交った。
論客や研究者も参入し、ネット上の議論は白熱している。
一方で、政府系筋から情報操作の疑惑も浮上し、リアルとオンラインの両面で緊張が高まっていた。
記録室の閲覧数は昨日の五倍。
非公式だが、大学の研究室やメディア関係者からのアクセスも増えていた。
誰かの声に、誰かが耳を傾け始めている――
静かだが、確かな地殻変動が始まっていた。
(第六十五章に続く)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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