第六十一章 沈黙の地図
福島県西白河郡矢吹町――。
小雨に濡れる田畑の向こう、山裾にぽつりと建つ廃校舎があった。鉄筋コンクリートの二階建て、かつては地元の中学校だったが、平成初期に統廃合されて以降、地元でも忘れられた存在となっていた。
だがそこに、今、ひとりの男が足を踏み入れようとしていた。
伊佐山了司――内閣情報調査室、通称“内調”の元高官。五年前に退官して以降、表舞台から完全に姿を消していたが、“黒衣の会”の実働部隊における指揮系統の構築と記録の抹消工作に深く関与していた人物である。
彼の名が、上條省吾が残した原稿の末尾に、さりげなく記されていたのだった。
《参照:伊佐山了司の2003年指示書・別冊ファイルα/F帳簿 No.3111》
――そして今、その名の通り、彼は“自らの墓標”を確かめに来ていた。
校舎内は、風が吹き抜けるたびに軋む音が響いた。職員室の札だけが残る廊下を進むと、一番奥の理科準備室の扉に、紙が貼られていた。
《来るな ここは 記憶のない者に毒だ》
伊佐山は無言で扉を開けた。
埃とカビの匂いが立ち込める中、錆びたロッカーと朽ちた棚の間に、一台だけ異様に新しいスチールケースがあった。南京錠がかけられ、そこに貼られたラベルにはこうあった。
【観測点3/記録保管用パスワード:320201-KAIKOKU】
彼は黙って鍵を壊し、蓋を開けた。中には三冊のファイルと、USBドライブが入っていた。
手に取ると、それらは全て“黒衣の会”の中でも最も内奥に位置する記録群だった。曰く《第7期消去事案》、曰く《心理操作応用班報告書》、曰く《最終対策フローチャート》。
だがその下に、伊佐山は想定外の文書を見つけた。
【機密補助文書:KAIKOKU計画】
そこには、戦後から現在に至る“国家的記憶整理計画”の全貌が記されていた。単なる諜報工作ではなく、「国民の感情的記憶」を設計し、誘導し、あるべき“国民像”を作り上げていくという構想だった。
伊佐山の眉が動く。
「……やはり、ここまで来たか」
かつて、自分が“技術補佐官”として関与したはずの計画が、今や制御不能な怪物に変貌していたことを、彼は静かに悟った。
そのとき、背後で微かな音がした。
伊佐山は即座に身を翻した。
廊下の奥、校庭側の窓越しに、黒い人影がこちらを見ていた。視線を感じた。プロの殺気だった。
“まだ監視されている”
彼はすぐさまUSBを内ポケットに収め、紙のファイルを一冊ずつ破り、部屋の石油ストーブに火を点けた。
ファイルが燃え上がるその光の中で、彼は独りごちた。
「この国は、“真実”が陽に当たることを許さない。だが、記録を消せば……痕跡が残る」
火の粉が天井に舞い、黒煙が広がる。
廊下の足音がこちらに向かって来ていた。重く、確実に近づく。
伊佐山は、ストーブの傍に立ち尽くしたまま、ポケットから小型の通信端末を取り出した。
そこには、ただひとつの宛先が入力されていた。
《三雲翔平》
メッセージは短かった。
「矢吹の廃校にて“核心”を確認。USBに残し、北へ向かう。間に合えば、会えるだろう。――I.R.」
送信ボタンを押した瞬間、扉が開いた。
黒衣の男たちが、無言で部屋に入ってきた。
そして、何も問わず、何も責めず、伊佐山を取り囲んだ。
彼はただ、目を閉じた。
「これが、私の“消去”か……」
外の雨が、さらに強まった。
東京・永田町、某政党本部地下三階。
会議室では、数名の官僚と、民間から出向している情報アナリストが、無言でモニターを見つめていた。
画面には、上條省吾の原稿を報じた《SEAR》の画面。政府による強制削除は未遂に終わり、世界中に内容が拡散していることが示されていた。
そのなかの一人、内閣副官房長の男が口を開いた。
「……削除が間に合わなかった。だが、国内メディアは静観を決め込んでいる。民意の拡散力がどこまで続くかが鍵だ」
もう一人の男が言う。
「伊佐山了司は?」
「“処理”された模様です。ただし、USBの所在が確認できていない」
重苦しい沈黙が流れた。
その時、一人の若い女性官僚が言った。
「――記録は、もう完全には消えません。むしろ、“声”として流通し始めています」
副官房長がその女を睨んだ。
「何が言いたい?」
「“黒衣の会”が隠してきたものは、“国家の輪郭”そのものです。それが今、可視化されてしまった。……記録が、記憶になろうとしています」
「……ならば、記憶そのものを変えるしかない」
その言葉に、誰も反論しなかった。
会議室の空調音だけが、規則的に響いていた。
その夜、三雲翔平は郡山市のビジネスホテルにいた。
伊佐山から届いたメッセージを何度も読み返しながら、彼は北へ向かう準備を進めていた。
“間に合えば、会えるだろう”
その言葉の意味が、現実の重さを持って彼にのしかかる。
隣室のテレビからは、どこかの地方議会の汚職報道が流れていた。ワイドショーでは“芸能人の薬物使用疑惑”が大きく取り上げられていた。
“本当のこと”は、まだどこにも報じられていない。
彼はUSB受信用のデバイスを確認し、バックアップを複数作成し始めた。
一つは暗号化してアイスランドのジャーナリストに送信。
もう一つは、国内の信頼できる記者――かつて上條と同じ部署にいた「真壁」宛てに送る予定だった。
「これは、誰かが受け取らなければならない」
そう呟いたとき、ふいにスマートフォンが鳴った。
着信表示は、《非通知》。
三雲は深く息を吸い、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「――君は、父親の名前の意味を知っているか」
抑えた、老いた男の声だった。
「三雲“翔平”――空を翔ける者。だが、本当は“火口に飛び込む鳥”という意味が込められていたのだ」
「あなたは……?」
だが、電話はそれきり、切れた。
彼はすぐに発信元を追おうとしたが、すべてのログが白紙だった。
そしてその瞬間、彼は気づいた。
“これは、国家そのものが動き出している兆しだ”
夜が深まるにつれ、日本列島のどこかで、また一つ、沈黙の地図が広がっていった。
地図にない場所。記録にない声。だが、確かにそこにあった“証拠”。
「記憶は、地図には記されない。だが、地図の下にはいつも、記憶が埋まっている」
その言葉を、三雲は胸に刻んだ。
そして彼は、USBを握りしめ、北へ向かう列車に乗った。
第六十二章 沈黙の器
午前四時、東京。
新聞配達のバイクが、まだ夜の気配をまとった都心の路地を音もなく走っていた。どのビルの窓も閉ざされ、電灯すら灯っていない。都市が目を閉じる、唯一の時間帯だった。
築地の中央通り沿いにある旧新聞社の一角――そこは、もはや「報道」ではなく、情報の物流拠点と化していた。編集局は二十四時間稼働しているはずだが、いまやその大半の机には人影がない。
赤松大吾。かつては政治部のエースと呼ばれた男が、モニターを睨んでいた。
前夜、ある「匿名記事」が海外メディアを通じてネットに流れた。タイトルは「F帳簿――国家が消した記憶の記録」。その文体に、彼は既視感を覚えていた。
「……これは、上條だな」
かつて同じ時期に都庁クラブで活動し、数少ない“本物”として認めていた後輩。その名は二年前、姿を消したはずだった。だが記事は、まぎれもなく彼の言葉だった。
内容は衝撃的だった。国家による“記憶の改変”実験。F帳簿。地下の研究施設。改ざんされた人間の人生。
赤松はマウスを握ったまま、身動きを止めた。
事実だろう。しかし、国内メディアは沈黙していた。それは、単なる怯えではない。
「報道しない自由」ではなく、「報道できない事情」だった。
数時間後、早朝の編集会議でその記事の扱いが議題に上がることはない。触れれば、炎上では済まない。社の存続すら危うくなる可能性がある。
それを赤松は知っていた。
そして、知っているがゆえに、悩んでいた。
そのとき、背後で小さな足音がした。
「……読まれましたか?」
女性の声だった。
赤松が振り返ると、そこには社会部の若手記者・高瀬沙耶が立っていた。二年前、赤松が現場から退くきっかけとなった「内部告発記事」で騒動を追っていた記者の一人だ。
「……読んだよ。お前も、気づいたんだな。あれが上條の記事だと」
沙耶は頷いた。
「彼は、まだ“書いてる”んですね。私たちが捨ててしまったものを、まだ信じて」
赤松はため息をついた。
「信じて、書いた。だがそれだけでは足りない。今の世の中、真実だけでは人は動かない。必要なのは“連鎖”だ。信じる人間が、繋がることだ」
沙耶はカバンから、ある封筒を取り出した。
「これ……数日前に、匿名で送られてきました。“上條省吾の意志を繋げ”とだけ書かれていた。中には、F帳簿の抜粋コピーが」
赤松が封筒の中身を確認すると、それは精密にコピーされた帳簿の一部だった。企業名、個人名、改変率、処理年月日……。それらはどれも、新聞社の内部資料や過去の人事記録と符合していた。
「まさか……社内にも“処理”された者がいたのか?」
赤松は静かに息を呑んだ。
沙耶は小さくうなずいた。
「私の父も、かつてこの社にいた記者でした。ある時を境に、全く別人のようになった。退職後、家庭を崩壊させ……今は所在も分かりません」
赤松は、長い沈黙ののち、立ち上がった。
「……動こうか」
「え?」
「この記事を、紙には載せられない。だが、“声”にはできる。俺たちの言葉で、俺たちの手で」
彼は、自身が長年溜めてきた“非掲載原稿”を保管しているUSBを取り出した。そこには、消された事件、握り潰された内部告発、改変された記録の断片が眠っている。
「今の報道にできることは、“器”になることだ。声を受け止める、静かな器。それが俺たちにできる最後の誠実だ」
沙耶はうなずいた。
「では、その器に、私もなります」
その日の午後。
都内某所にあるシェアオフィスに、ひとつの仮設編集室が生まれた。
そこには赤松、高瀬、そして数名の元新聞関係者、退職ジャーナリストが集まっていた。かつて“記録”を守ろうとした者たちの末裔である。
集められたのは、上條の記事、F帳簿の一部写し、三雲翔平が提供した地下施設の記録、栗原医師のノートのコピー……そして、声にならなかった人々の証言だった。
彼らは、それらをもとに、ひとつのプロジェクトを立ち上げた。
名前は《記録室》。
誰もが読めるウェブベースのアーカイブ。だが単なる暴露ではない。確証を持った記録のみを扱い、匿名証言を裏付け資料と共に提示する。炎上でもなく、煽動でもない。
“沈黙”の精密な記録。それを、人に託す作業。
「これは報道ではない。ただの記録の保存だ」
赤松はそう語った。
だがそれは、彼らにとって“再び声を上げること”と同義だった。
数日後。
《記録室》は、SNSで静かに拡散を始めた。
最初は大学関係者、次に研究者、元官僚、退役自衛官……。
やがて、かつて改変された記憶の“副作用”に苦しんでいた一般人たちが集まり始めた。
ある投稿には、こう書かれていた。
《数年前から夢に見る男の顔がある。だが現実には、その男を知らないはずだった。F帳簿にその名が載っていた。俺は、“忘れさせられていた”のかもしれない》
それは、やがて群れとなり、潮流になった。
静かに、だが確かに、“沈黙の壁”に亀裂が走り始めていた。
その頃。
とある古書店の裏手。長い年月で風化したアパートの一室に、三雲翔平の姿があった。
彼は机の上に置いたノートをじっと見つめていた。栗原医師から託された、第一期記録。
ふと、PCのメール通知が点滅した。
差出人は《記録室》。添付されていたのは、ノートと同じ記述のPDF。
そして一言だけ、書かれていた。
「声を、器に収めました。いつか、誰かが読みます」
三雲は、静かに目を閉じた。
これが、「記録された沈黙」の再生であることを、確信しながら。
(第六十三章につづく)
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