第五十九章 記録者の終端(しゅうたん)
神田神保町。雨上がりの午後、古書の匂いが通りの石畳に染み込んでいた。
上條省吾は、濡れたブーツの裏を気にしながら、細い裏路地にある喫茶店へと入っていった。店の名は「白樺」。戦後まもなく開業し、数多の出版社と学者が集ったとされる老舗だ。
今、そこには彼の新たな協力者となる男がいる。
三雲翔平――代々木靖雄から“黒衣の記録”のUSBを託された、かつて記憶改変実験の被験者だった男の息子。
席に着くと、すでに三雲はアイスコーヒーを前に、記憶帳と見紛うような厚いノートを広げていた。
「来るとは思わなかった」
「お前が記事を上げたからだ。……俺も、逃げていられなくなった」
三雲はノートを指差した。その中には、父・謙二が断片的に語っていた記憶の再構成が記されていた。まるで誰かの頭の中を地図のように描いたような、無秩序で、それでいて鋭利な言葉たち。
「“女の声がした”“病院の地下”“番号のない病室”“白い壁が、内側から血で染まった”……」
上條は息を飲んだ。
「それは、F帳簿の末尾に記されていた実験施設の描写と一致する。おそらく、千葉県内の旧軍医学校跡地だ。戦後、アメリカ軍が接収したが、その後の所在が不明になっていた」
「父はそこに収容されていたと、晩年になって思い出した。だが誰も、信じなかった」
三雲は苦笑した。
「母でさえ、“ストレスによる妄想”としてしか扱わなかった。……でもな、俺には分かったんだよ。あれは、嘘をついてる人間の眼じゃなかった」
「……記憶を、部分的に消された被験者たちは、“断片だけ”が残る。その断片が、夜中に蘇る」
上條は、宇津木静馬から聞かされた話を思い出していた。
「代々木靖雄は、自殺した」
三雲はうなずいた。
「俺の目の前でな。黙って、何も言わずに。それが、あの男の答えだったんだろう」
「――じゃあ、君の答えは?」
静寂が、机の上に落ちた。
店内のラジオが、淡々とクラシック音楽を流していた。チャイコフスキー。だが旋律はどこか重く、裏切られた過去を思わせる。
「俺は、記録者にはならない」
意外な言葉だった。
「え?」
「そんな資格はない。父を信じきれなかった。俺は傍観者だった。最後の一線を、踏み越えられなかった」
「それでも、今ここにいる」
上條の声は、静かだった。
「……お前のような人間が、“書く”んだ。清廉潔白じゃない。正義の使徒でもない。ただ、目の前の狂気に立ちすくんだまま、筆を握るしかなかった人間が」
「……それがお前か」
「ああ」
一瞬の沈黙ののち、三雲はゆっくりとUSBを取り出した。代々木靖雄が命を賭して渡した、それは、影の履歴書だった。
「なら、使ってくれ」
「君は?」
「俺は――地下へ行く」
上條の目が細められた。
「旧施設の跡地を探す。父が過ごした“空白”を、自分の足でたどる。もう、誰かの言葉を待つのはやめた」
⸻
上條省吾は、受け取ったUSBを手に、ホテルの一室へと戻った。
ファイルの中身は、膨大だった。
時系列順に並べられた“処理リスト”、関与者、使用された心理誘導手法、政治家との非公式会談記録、そして複数の“削除対象者”の映像断片。無数の顔が、画面の中にあった。
泣き叫ぶ者。記憶を失って茫然とする者。無表情でサインをする者。
これが、“戦後日本の影の光景”だった。
上條は、原稿ファイルを開いた。
「記録は、沈黙のために存在する」
それが、章の冒頭に記した言葉だった。
“記録”とは、本来、後世に伝えるためのものだ。だが日本という国家は、それを“沈黙の道具”に使ってきた。存在を記録することで、逆に“忘却”を制度化してきた。
父・上條隆正もまた、その制度の歯車だった。
彼は、改変実験の成功者であり、最終的にはその存在を“抹消”された人間だった。
上條は、意を決して書いた。
「この記録は、沈黙のためにではなく、告発のために存在する」
彼は、“黒衣の会”のメンバーをすべて実名で挙げた。
元官僚、元報道関係者、そして各政権に“助言”をしていたブレーン。公的な場には一切登場しない、“政治を動かす人間たち”の名が、そこにはあった。
そして最後にこう記した。
「日本という国は、個人に罪を問うことを避けてきた。だが今、我々は国家に問う。
なぜ、こんなにも多くの“声”を、消してきたのか。
なぜ、“記憶”を恐れたのか。
そして、なぜ、“記録”を殺してきたのか。」
原稿のタイトルは、こうだった。
「沈黙の共和国――影の政府と記憶の廃墟」
アップロードの直前、彼のスマートフォンが鳴った。表示は「非通知」。
「……もしもし?」
無言。
だが、わずかに女の声が聞こえた。息を潜めるように、細く、震えていた。
「見てます……あなたの文章、読んでます……」
その瞬間、彼は確信した。
誰かが、沈黙を破ろうとしている。
“読む者”が現れたのだ。
⸻
画面の隅で、アップロードの進行バーが100%を示した。
その瞬間、彼は静かに立ち上がった。
「記録は、誰かが読むことで、命になる」
そう呟きながら、彼は部屋の灯りを消した。
闇の中、外からは再び雨の音が聞こえていた。
だが、それはもう、単なる“沈黙”ではなかった。
それは――終焉と再生の予兆だった。
第六十章 廃墟の声
千葉県市原市、旧帝国陸軍医療研究所跡地。
地図には記されていない森の中に、その施設はあった。コンクリートの残骸が苔むし、入り口をふさぐ柵には「関係者以外立入禁止」と赤字で書かれた古い札が風に揺れている。だが、その下に誰かが付け足したような紙片がセロテープで貼られていた。
《ここには声がある 聞く覚悟がある者だけ 進め》
三雲翔平は、その紙を見上げながら、一歩を踏み出した。
父・謙二が「最後まで語れなかった記憶」を辿る旅。
それは、過去の亡霊と向き合う“証明”でもあった。
彼はヘッドランプを点け、金属製のハッチをこじ開けた。地下へ続く錆びた階段。照明のない闇。足音が鈍く、湿った空間に響く。
三雲が辿り着いたのは、幅2メートルほどのコンクリート通路だった。両側には崩れた金属扉。剥がれたペンキ。かつてここが病棟として使われていたことは、壁面の表記からも明らかだった。
「第3処置室」「観察区」「Aブロック実験室」
彼は息を呑みながら歩を進めた。
やがて、通路の奥にひとつだけ、まだ電気が点く部屋があった。
蛍光灯がジリ……ジリ……と鈍い音を立てながら、室内をかすかに照らしていた。
その中央に、ひとりの老人が座っていた。
白衣を着たまま、無言で、何かを待つように。
「……あなたが、“処理”を担っていた男ですね」
老人は、顔をゆっくりと上げた。深い皺。眼鏡の奥で、澄んだが空虚な目がこちらを見据えていた。
「代々木靖雄の息子か。……君が、来るとは思っていたよ」
その声には、悲哀と皮肉がないまぜになっていた。
「私は、栗原医師。元・心理戦技術研究部主任。かつて、“黒衣の会”の“観察者”として、この施設にいた」
三雲の喉が詰まった。
「……父を、あなたが?」
「私が直接“処理”したわけではない。だが彼の記録には、すべて目を通した。記憶の削除、人格の再構成、そして……社会復帰のための“偽装”。」
栗原は立ち上がり、壁のスイッチを入れた。すると部屋の一角に設けられたガラス張りの観察室が明るくなり、中に椅子と拘束具が設置されているのが見えた。
「ここで、我々は“記憶の漂白”を行った。薬物投与と音響刺激、そして“記述的再教育”。簡単に言えば、個人の過去を削除し、国家のための記憶を上書きする手法だ」
「そんなことが……人間に許されると?」
「許されるなどと思っていない。だが、戦後の混乱と米軍の指導のもと、“実験”は合法的に進められた。我々は“防衛”という名のもとに、倫理を捨てた」
栗原は棚から、一冊の黒いファイルを取り出した。
「これは、“記憶改変リスト”の原本だ。全て、手書きだ。電子化もされていない。……国家がそれを電子に移せば、“存在”になる。我々はそれを恐れた」
三雲はページを開いた。
記されていたのは、番号、氏名、被験内容、処理時刻、結果。
そしてそこに、確かに――
《No.0784 三雲 謙二 対象:公務員(中央省庁技術職)/改変率:73%》
「……父は、被験者として“成功例”だったんですね」
栗原はうなずいた。
「彼は、強靭だった。最後まで、人格の断絶に抵抗し続けた。最終的には処分保留となり、一般社会に放たれた。だが記憶は戻らなかった……はずだった」
「戻った。……断片的に。でも、確かに」
三雲の声が震える。
「……あなた方は、なぜこんなことを?」
栗原は沈黙し、やがて口を開いた。
「国家とは、“忘却”によって成り立つ。敗戦、占領、独立、冷戦、オイルショック、バブル――そのすべての転換点で、政府は“記憶の整形”を必要とした。語られてはいけない真実がある。だが、それを隠す者もまた、人間だった」
栗原の手が震えていた。
「我々は、“記録”を抹消するのではなく、“記憶”を編集した。人の脳に直接。……だが結局、それは我々自身を蝕んだ」
彼はふいに胸を押さえ、よろめいた。
「……心臓が、もう長くない。ここに留まり、記録と共に死ぬつもりだ」
「それで、すべてを終わらせる気ですか?」
「違う。私は、“受け継がせたい”。罪ではなく、記録を」
栗原はガラス室の奥、床下に設けられた金属製の箱を開け、中から一冊のノートを差し出した。
「これが、“第一期記録”だ。GHQの監視下で記された、最初の被験記録。日本が、“沈黙の共和国”になる前の胎動だ」
三雲はそれを受け取った。冷たい。だが確かに、重かった。
「君は、“声”を持っている。父を信じた“声”だ。それが、次の記録になる」
栗原はそのまま、椅子に腰かけた。
照明が落ち、再び闇が戻る。
三雲はノートを抱きしめ、地下施設を後にした。
その夜。
上條省吾の原稿が、海外ジャーナリズム誌で全文公開された。
掲載されたのは、アイスランドのサーバーを経由した電子雑誌《SEAR》。
閲覧数は数時間で百万を超え、SNSでは「記憶操作」「記録抹消」「日本政府の影構造」といったキーワードが急速に拡散した。
朝刊は、静かだった。どの新聞社も、一行たりとも取り上げなかった。
だが、ネットは沸いていた。
あるツイートが、特に注目された。
「見た。読み終えた。これが“日本の底”なんだな。……俺は、忘れない」
その投稿者の名前は、ただ《廃墟の声》とだけ記されていた。
上條は、それを見て微笑んだ。
「ようやく……“声”が返ってきた」
彼の原稿は、ただの暴露ではない。
それは、“記録された沈黙”の回復だった。
(第六十一章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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