第五十七章 火口の声
外は、雨だった。
浅草観音裏の蔵の中で、上條省吾と宇津木静馬は無言のまま作業を続けていた。手元のスキャナが、昭和中期の褪せた紙を一枚一枚データに変換し、外部ドライブに転送されていく。
機械音だけが響く空間で、二人の間に交わされる言葉は最小限だった。余計な雑談は許されない。外の世界では、“黒衣の会”がこちらの動きを察知する時を待っている。
――そしてそれは、時間の問題だった。
午後一時を過ぎた頃、宇津木がつぶやくように言った。
「昔な、俺の恩師が言っていた。“日本の中枢は火口だ”と」
「火口?」
「見た目には整っている。ルールも制度もある。だが一枚皮を剥がせば、そこには焼け爛れた熔岩が流れてる。法律や民主主義なんてのは、火口の蓋に過ぎないってな」
上條はスキャナを止め、顔を上げた。
「それでも、誰かが覗き込まなきゃならない。火口の底を、見届けるために」
宇津木は小さくうなずいた。
「……だからお前は記者をやってるんだろうな」
窓の外に一台の車が止まったのは、その直後だった。
白いセダン。ナンバープレートは都内ではありえない地名。降りてきたのは黒スーツの男たち三人。そのうち一人は、かつて上條が取材で会った元防衛庁の職員・堀内弘和だった。
「……見つかったな」
宇津木はすぐに蔵の奥に回り、古い棚の裏側に仕掛けられた地下通路の扉を開いた。そこから先は、戦前の防空壕を改造した逃走路だった。
「このルートは、まだ使えるのか?」
「使える。だが途中で地上に出る。そこからは……運だ」
パソコンからデータの入ったSSDを外し、防水パックに収める。帳簿原本は古い木箱に戻され、床下の隠し隔壁に封印された。
「ここは囮に使う。お前は先に行け」
「……お前は?」
「俺はここに残って、奴らの気を引く」
上條は一瞬ためらったが、宇津木の目を見て、うなずいた。
「……生きてくれ」
「お前もな」
それだけ言い残すと、上條は狭い地下通路へと滑り込んだ。湿った土とコンクリートの匂い。何度も屈みながら、闇を手探りで進む。
上で物音が響いた。扉が破られ、複数の足音が床を踏み鳴らしていた。
それは、音の暴力だった。国家が個人を押し潰す、その最も原始的な象徴。
⸻
三十分後、上條は台東区元浅草の下町に出た。
出口は、個人宅の庭の物置だった。誰にも見られぬよう慎重に外へ出て、帽子を深く被って歩き出す。もう姿を隠す必要はなかった。
――いや、むしろ見せつけるべきだ。
彼は、その足で吾妻橋近くのとあるビジネスホテルに向かった。数日前から、念のために部屋を予約していた。そこに自分専用のノートPCと、外部接続用のモバイルWi-Fiが用意されている。
午後三時半。雨が止み始める。
室内に入るとすぐに、彼はノートPCを起動させ、SSDの中身を確認した。
スキャンしたF帳簿のデータは全て無事だった。だが、ネットに繋いだ瞬間、ウイルス検知ソフトが赤く点滅した。
「……やっぱりか」
誰かが、既にこのPCのIPを追跡していた。だが、想定内だ。
上條は、VPNとプロキシを何重にも使いながら、二つのジャーナリズム系サーバーに同時アップロードを開始した。
一つはアメリカ、もう一つはアイスランド。
ファイル名は、“memory-protocol-alpha.zip”
パスワードは、19450226――児玉が遺した暗号だった。
その後、彼は記者としての最後の仕事に取り掛かった。
文書ファイルを開き、記事のタイトルを打ち込む。
「F帳簿――国家が消した記憶の記録」
冒頭に、こう書いた。
日本という国は、記憶を憎む。
歴史の歪みを人災として処理し、個人の死を統計として無化する。その過程で、我々は無数の“記録”を消してきた。
だが今、この帳簿がそれを証明する。
見よ。これは、国家という名の火口から噴き出した、記憶の熔岩だ。
記事は淡々と、具体的な案件を羅列していく。誰が、なぜ、どうやって消されたのか。どこまでが事実で、どこからが偽装だったのか。
そしてその中に、上條隆正――自らの父の名も記した。
記者としての中立性は、この時ばかりは捨てた。
だが、書かなければならなかった。
その死は、国家によって仕組まれた“記憶の操作”であることを、誰かに知ってもらうために。
アップロードの完了は午後四時十七分。
その時、ホテルのドアがノックされた。
「上條省吾さんですね?」
男の声。静かで丁寧だったが、背後に複数の気配がある。窓の外には、同じ白いセダンが止まっていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、鞄に手をかけた。
――だが、逃げはしない。
すでに、全ては送った。
あとは、誰かが読むかどうかだ。
ドアノブが回る寸前、彼は最後に原稿のファイルを保存し、ひとつ呟いた。
「ようやく……火口の底が見えたな」
そして、ドアが開いた。
第五十八章 影の履歴書
東京・市ヶ谷。かつて防衛庁があった丘の裏手に、地図には載らない低層の庁舎がひっそりと存在していた。国土地理院の航空写真ですら、その建物は樹木の陰に覆われ、まるで“存在しない”かのように加工されている。
その地下に、“黒衣の会”の戦後最後の会合が開かれていた。
会議室には七名の男がいた。
全員が七十代から八十代。既に公的な肩書を持たず、表舞台からは消えた人物たちだった。元陸幕調査部、元公安調査庁幹部、旧通産省の審議官、NHK報道局の編集主幹経験者、内閣情報調査室の室長代理経験者――
彼らはかつて、政府の命令ではなく、“国体”の維持を名目に動いた者たちである。
そしてその背後で、“処理”を担っていたのが、別室に控える“実行班”の男たちだった。
そのひとり――代々木靖雄、通称《影斬(えいざん)》は、静かに旧式の書類ファイルをめくっていた。
元陸幕出身。昭和四十年代に“非戦略的処理要員”として配置され、以後二十年にわたって、国家の“汚れ仕事”に従事してきた。
暗殺とは言わない。あくまで“任意的戦略的撤去”。
彼が関与したものの中には、地方議員の突然死、地方紙記者の転落事故、自衛隊員の“失踪”など、いずれも新聞の片隅にしか載らない死があった。
そのどれもが、“記録の抹消”に関わっていた。
だが今、彼の手元にはそれら全てを列挙した“黒衣名簿”があった。
「……最後に、これを開くことになるとはな」
代々木は呟いた。
「記録者が現れた。上條省吾……その名前には、見覚えがある」
隣の席の男――《煙草屋》と呼ばれていた元公安の植草喜一が、眼鏡を直しながら言う。
「父親の件だろう。上條隆正。例の“記憶改変プロトコル”の副査だった男だ」
「……あれは、完全な実験だった。脳の中の記憶を、催眠と薬物と電気刺激で部分的に改変する。だが――」
代々木は言葉を切った。
「本当に改変できたかどうかは、今も分からない。あの実験に関わった職員は、全員別部署に異動、あるいは行方不明になった」
「省吾の父親も、“行方不明”とされた一人だった。だが実際は、我々の手で“口封じ”されている」
部屋の空気が一瞬、鈍く沈んだ。
それが、この会議の本質だった。
“記憶”を消す。それは、物理的な情報だけでなく、証言者そのものをも消すことを意味した。まるで、国家が自らの過去を“手術”するかのように。
「だが……」
植草は立ち上がり、モニターに最新の画像を映した。
そこには、各地のネットカフェやホテルを移動しながら活動を続ける上條の姿があった。灰鴉の一部メンバーとも接触し、すでにデータの一部は海外に拡散されている。
「もはや処理は間に合わない」
「……処理ではなく、“終結”の段階に来ている」
代々木は再び立ち上がった。
「我々は、戦後日本という“物語”を維持するために生きてきた。だが、物語に終わりが来たのだとすれば、それを見届けるのもまた、我々の役目だろう」
その言葉に、誰も反論しなかった。
――沈黙。
それが、最後の会議の議決だった。
⸻
その日の夜、旧防衛庁の裏手にある一軒家で、代々木は一人の来客を迎えていた。
若い男だった。三十代。名を、三雲翔平という。
「……父の名前は?」
「三雲謙二。あんたの父親は、“記憶改変プロトコル”の第一被験者だ。元は海自の情報分析官だったが、精神的変調を理由に退官させられた」
三雲翔平の眼に、静かな怒りが滲んでいた。
「父は晩年、何度も夢を見たと言っていた。“誰かを殺したかもしれない”って。だが、何の記憶も残っていない。俺がそれを調べ始めた時、国会図書館で妙な警告を受けた」
「“その話題に触れると、人生が変わるぞ”――か?」
「……知っていたのか」
代々木は苦笑した。
「俺が言ったからな。その警告を、図書館員に渡すように。記憶を消すよりも、“触れるな”と暗示を与えるほうが効果的だからな」
「お前たちは、何人殺した?」
「数えていない。だが、守ったものもある。戦後の“均衡”という、名もなき虚構だ」
「……それで、眠れるのか?」
代々木はゆっくりと立ち上がり、古い引き出しからUSBメモリを一つ差し出した。
「これは、“黒衣の記録”だ。我々が行ったすべてがここにある。だが、これを公開するかどうかは、お前の自由だ」
「なぜ俺に?」
「お前が“息子”だからだ。記憶を消された父親の、な。お前にはその資格がある」
三雲はメモリを受け取りながら言った。
「……誰も信じないだろうな。こんな話」
「それでも、誰か一人が信じればいい。お前が“記録者”になれ」
代々木の眼には、静かな終焉の光が灯っていた。
それは、罪と沈黙と責任を引き受けた者だけが持つ光だった。
⸻
深夜、代々木靖雄は自宅の書斎で、静かに拳銃を取り出した。
旧式のコルトガバメント。かつて“処理”に用いた最後の一丁。
銃口を口元に当て、目を閉じた。
最後に思い出したのは、初めて任務を果たしたとき、相手が泣きながら言った言葉だった。
「俺は……何を、知らされたんだ……?」
その声が、今でも耳に残っていた。
――パン。
乾いた音が、夜の闇に吸い込まれていった。
部屋の窓には、明け方の雨が静かに降り始めていた。
(第五十九章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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