第五十五章 密約の残像
上條省吾が第三庁舎を脱出したのは、午前2時12分。深夜の霞が関は、霧雨にけぶっていた。地下から地上へ出る非常口は、通用門の裏手に設けられた狭隘な通風口だった。錆びた金網を外し、膝をついて泥にまみれながら彼は這い出した。
帳簿は胸元のコートに固く抱え込んでいる。濡れることなどどうでもよかった。指先は泥と汗でふやけていたが、頭は異様に冴えていた。
「逃げることじゃない。伝えることだ」
心の中でそう繰り返しながら、彼は新橋方面へと歩を進めた。タクシーを拾うのは危険だった。どこかで監視されている、尾行がついている、そんな妄想が現実味を帯びてくる。霞が関から離れるほど、背中に感じる追跡の気配は、皮膚の裏にまで染み込んでいくようだった。
――六本木のホテルまで、歩いて1時間半。
雑居ビルの谷間にあるビジネスホテルの一室。ここは児玉正太郎が生前、使っていた“隠れ家”の一つだった。名義は架空法人。予約は事前にネットで済ませていた。
部屋に入ると、まず帳簿を濡れたシャツで丁寧に拭き取った。手袋をはめ、カメラの三脚を立てる。机の上に帳簿を広げ、一枚ずつ写真に収めていく。
「誰かが記録を手にすればいい。たとえ俺が消されても、記録が残れば、誰かが続きをやる」
そう呟いたとき、ふと机の上に置いた帳簿のページが風にめくられた。
そこには、ひとつの異様な記録があった。
案件:K-70-零
対象:内閣官房 秘密通信網構築計画
実行部:外務省・警察庁協同調整班
備考:米国NSAとの協定に基づく
実施日:1970.8.18
付記:日本国政府は協定内容の存在自体を否認するものとする(密約第7項)
「……NSA?」
上條の口から、初めて声が漏れた。
NSA――米国国家安全保障局。サイバー監視の総本山とも呼ばれる組織。その名がこの“F帳簿”に記されている。しかも日付は1970年、冷戦の只中。日米安保条約改定の20年目を目前にした時期だ。
彼は指先を止め、もう一度そのページを見つめ直した。文書の構成は、どれも他の案件と同じ。事務的で、冷たく、目的以外の感情は排除されている。
だが、その備考欄の一文にだけ、異様な熱があった。
「本協定に基づく記録媒体は、実行後50年を経過するまでは永久機密とする」
つまり、この密約は2020年を超えてなお、機密のままだ。
「まさか……今の監視網の根幹が、これなのか……?」
彼はかつて、メディア関係者として総務省の“通信の秘密”問題を取材していた。その中で、法の隙間を突いて設置された“特殊傍受装置”の存在を耳にしたことがある。
携帯電話の音声データが、特定のルートを通じてフィルターにかけられ、キーワードに反応した会話が抽出されている――という、眉唾ものの噂。
「まさか、その基盤が1970年から……?」
上條の背筋に冷たいものが走った。
再びページを繰る。すると、もうひとつ、さらに根源的な項目が目に入る。
案件:K-45-χ
対象:昭和天皇特命案件・GHQ覚書再整理
実行部:内閣府 機密文書室
実施年:1945.12〜1946.3
備考:皇室財産・戦犯裁定対象外財団法人一覧作成
削除対象:財団法人N、K、O(略称)
「……これは……!」
一気に血が頭に上った。戦後、GHQ占領下において何が“裁かれ”、何が“残された”のか。上條が学生時代に歴史学を専攻していたとき、その問いを発端に研究論文を志したことがあった。
皇室財産――多くが“戦後民主主義の一環”として国に帰属されたとされているが、裏では秘密裏に再編されたという噂は絶えなかった。
そして“財団法人O”――。
児玉正太郎が残した文書にも、度々“財団O”という記号が登場していた。終戦直後、軍需物資の海外移送や密貿易の拠点となったと言われる“影の物流網”。
それが、ここに記録として存在している。
上條は、思わずページを閉じた。
「これは……この国の記憶そのものじゃないか……」
窓の外では、夜がわずかに明け始めていた。雨は止み、霞んだ光が東京のビル群を照らしている。
そのとき、携帯が震えた。
「……非通知?」
恐る恐る通話ボタンを押す。
「……君は、まだ生きていたか」
懐かしい声だった。児玉正太郎の後を追って調査を進めていたジャーナリスト、宇津木静馬だった。
「上條。お前が見ているのは、まだ断片に過ぎない。だが、それだけでも十分すぎる。すぐに俺のところへ来い。……場所は、例の“浅草の蔵”だ」
「まだ、あそこが?」
「長谷部たちはそっちを抑える気はない。奴らの目は“人間”ではなく“記録”に向いてる。だから、お前は急げ」
通話が切れた。
上條は、帳簿とカメラをバッグに詰めると、立ち上がった。目には血がにじんでいた。夜明けの浅草へ。歴史の裏側で渦巻く“もうひとつの国家”へ――。
彼の歩みが再び、東京という密室の都市に刻まれ始めた。
第五十六章 浅草の蔵
上條省吾が浅草に着いたのは午前五時を少し回った頃だった。山谷の簡易宿泊所に背を向けながら、雨に濡れた国際通りを足早に渡る。観光客の姿など当然なく、ただ自転車を漕ぐ新聞配達の男と、鳩の群れだけが目についた。
向かう先は、観音裏の古い町家。その奥まった路地の突き当たりに、小さな木造の蔵があった。漆喰の壁は剥がれ、屋根瓦はところどころ欠けているが、入り口には頑丈な南京錠が掛けられていた。
鍵は不要だった。
南京錠は飾りに過ぎないと、児玉がかつて語っていた。見せかけの封印こそが最良の保護だというのが、児玉の流儀だった。
蔵の脇にある梅の木の根元を掘ると、小さな鉄製の箱が出てくる。そこに、電子式の解錠キーが格納されている。上條は、泥だらけのままその箱を開き、内部のスロットに自身のIDカードを差し込んだ。
“ピッ”
微かな電子音とともに、木製の引き戸がわずかに軋みを上げて開いた。
蔵の中は冷たい空気が支配していた。夏の名残など感じられない。床には分厚い防音シート、壁には古い書棚が並び、天井からは蛍光灯がぶら下がっていた。
奥のデスクに、すでに誰かがいた。
「……久しぶりだな、上條」
椅子を軋ませながら振り返ったのは、宇津木静馬だった。
五年前に見たきりの顔は、想像以上に老け込んでいた。白髪が増え、頬は痩せこけ、目の奥には諦念と怒りが交錯していた。
「君がここにたどり着いたということは、帳簿を見たな?」
「……全部じゃないがな」
上條は鞄から帳簿とカメラを取り出した。それを見ると、宇津木は深く息を吐きながら、古い木箱を開いた。中から出てきたのは、黄ばんだ封筒だった。
「これが“F帳簿”の前身だ。正式には『M記録簿』と呼ばれていた。終戦直後、GHQと協働して一部の日本人官僚が作成した“協力者名簿”……そして、その管理下で起きた“消去事件”の一覧だ」
上條は目を見開いた。帳簿の存在だけでも衝撃だったが、さらにその“祖先”とも言うべき文書がここにあるというのか。
「……どうやってこれを?」
「児玉だ。奴が死の直前、俺に託した。だがな……」
宇津木は、眼鏡を外し、目を細めた。
「この資料を持っている限り、俺たちは常に命を狙われる。それでも君は、それを公開したいと思うのか?」
「……当たり前だろう」
その言葉に、宇津木はわずかに笑った。
「君は変わらんな。正義感が強いんじゃない。怒ってるんだ、ずっと。なあ上條、君の父親……上條隆正がどうなったか、知らないわけじゃないだろ?」
その名前に、心臓が跳ねた。
「父のことは関係ない……あれは、事故だ」
「本当にそう思ってるか? 1991年、科学技術庁の地下資料室で、資料閲覧中に心筋梗塞で死亡。だが死因の診断書は出なかった。君も気づいてるはずだ。あれは“処理”だ」
上條の呼吸が浅くなった。父は寡黙な官僚だった。家庭ではほとんど口を開かず、ただ毎朝決まった時間に出勤し、決まった酒を飲んで寝る。その彼が、ある晩突然“死んだ”。
「帳簿を読み進めれば、出てくるはずだ。“K-91-θ”……君の父の名前が記されている」
宇津木の言葉に、上條は帳簿を再び開いた。緊張で指先が震える。
案の定、そこにあった。
案件:K-91-θ
対象:上條隆正(科学技術庁 資料課)
理由:M記録簿の閲覧履歴に関し、不審動向あり
実行部:公安特殊第七班
処理形態:心疾患偽装
実施日:1991.10.4
最終確認:良
「……そんな……父さんが……」
その瞬間、全身の血が凍るような感覚が襲った。上條は帳簿を床に落とし、無言で立ち尽くした。頭の中に浮かんできたのは、葬式のときの母の顔。どこか放心したような表情の裏に、彼女が何を知っていたのか、何を黙っていたのか――すべてが霧の中に溶け込んでいく。
「君の父も、記録を残そうとした。だがそれは叶わなかった。だからこそ君がここにいる。選ばれたわけじゃない。残されたんだ」
宇津木の言葉が、重く蔵の中に響いた。
「我々には三日ある。その間に、これらの記録をすべて複製し、海外の複数サーバーにアップロードする。公にするか否かは、その後だ。だが、最悪の場合、俺たちのどちらかは生き残れないと思ってくれ」
上條は、ようやく顔を上げた。その目にはもう迷いはなかった。
「やろう。……記憶は消せても、記録は消せない」
二人の男が、黙々と動き出す。
日本という国が塗り隠してきた“闇の輪郭”が、少しずつ、確かに浮かび上がりつつあった。
第五十七章につづく
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
コメント