松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第七十一章・第七十二章

目次

第七十一章 影の継承者

夜の霞が新橋の街を包み込んでいた。

その夜、赤松惣一郎は、ホテルニューオータニのロビーにいた。

「まるで昭和の遺影のような空気だな……」

装飾がやや古めかしいロビーの片隅で、赤松は窓の外を見つめていた。

かつては政治の密談の場であったこの地に、いま再び、目に見えぬ取引が持ち込まれようとしていた。

「失礼します、赤松様ですね」

声をかけてきたのは、長身で痩躯の男。

顔に特徴はない。いや、あまりに平凡すぎて記憶に残らない顔だった。

それこそが、彼の“仕事”を物語っていた。

「公安調査庁・特別分析課、松枝と申します」

赤松は眉をわずかに上げた。

「分析課が、こんなところに? 国家記録の問題を?」

松枝は静かに笑った。

「ええ。分析、というのは、事象ではなく人間の深層を読むことです。あなた方の“記録室”に集まった声──我々はそれを、戦後最大級の“擬似テロ構造”とみなしている」

赤松は座り直した。

「あなた方にとって、都合の悪い記憶はすべて“構造的陰謀”というわけだ」

松枝は答えず、スーツの内ポケットから封筒を差し出した。

「これは何だ?」

「一枚の名簿です。“記録室”に匿名で証言を送った一部の人物たちの、過去の所属と監視歴。つまり、あなた方の“証人”が、どこまで政府と関わっていたかの記録です」

赤松は息を呑み、封を開いた。

数名の名がそこに並び、それぞれの欄には「元警備公安」、「元厚労省特別調査班」、「CIE文書解析班」などとあった。

「……脅しか?」

「いえ。事実の確認です。あなた方が“真実”と呼ぶものの中に、国家が組み込んだ誘導の種子が紛れている。それに気づいた方がいい」

松枝の言葉は、冷たく、だがどこか哀しげだった。


■ 翌朝、記録室の衝撃

翌日、記録室の作業場では、沙耶が名簿のコピーを手に呆然としていた。

「これ、本物……?」

「複数の出自に照らし合わせたが、少なくともデータの信頼性は高い。公安が長年追っていた記録の一部だ」

赤松の声には、どこか諦めにも似た重さがあった。

「つまり、私たちが正義と思っていた告発のいくつかは、“国家の演出”だった可能性もある?」

「否定はできない。だが、だからといって、すべてを無にするつもりはない」

沙耶は、自らの手が震えているのを感じた。

言葉を重ねようとしたが、胸の内から出るのは、微かな吐息だけだった。


■ “継承者”の正体

午後。

東中野の廃ビル街にある、地下の喫茶室。

そこに、三雲翔平が呼び出された。

約束の時刻。

扉を開けると、煙草の匂いが漂う空間に、ただ一人の老人がいた。

「待っていたよ、三雲記者」

その声には、どこか“懐かしさ”と“威圧”が共存していた。

「あなたは……?」

「元・内閣安全保障局──そして、“継承者”の一人だ」

三雲は息を飲んだ。

眼前の老人は、過去に一度だけ名前を聞いたことがある。大塚誠吾(おおつか せいご)。

内閣情報調査室が非公式に運用していた“記憶管理計画”の元責任者だ。

「私が死んだことにされてから、もう十年以上になる。今も私は“いない”人間として記録されている」

大塚は、書類の束を差し出した。

「これは……?」

「“記憶補正技術”の過去の報告書。政府が公式には存在しないとする計画の設計図だ。そこに、お前の父親の名もある。三雲道哉(みちや)。彼は補正プログラムの初期実験の責任者だった」

三雲は、その名を聞いて椅子に背をもたれた。

「父が……?」

「君が“記録室”に入ったのは、偶然ではない。血の記録が、君を呼び寄せた」

老人の声は、崩れそうな廃墟のように重かった。


■ 告白と真実の裏面

「なぜ、いまそれを話す?」

三雲が問うと、大塚は口の端をわずかに歪めた。

「私は、すでに“整理”された存在だ。だが、君にはまだ“生きる記録者”の資格がある。これは私の遺言でもある」

書類の中には、かつて三雲の父が参加した“個体記憶操作”の試験報告、対象者の崩壊過程、改変済み記録の分析──

そのすべてが、冷ややかに並んでいた。

「お前は、事実を記録し、同時に人間の記憶がいかに歪められるかを知ることになるだろう」

「父は、それを受け入れていたのか?」

「いや、彼は途中で抵抗を始めた。そして、事故に見せかけて……」

老人の声は、そこから先を言葉にせず、静かに口を閉じた。


■ 政府筋の“最終選択”

同じころ、永田町の地下会議室では、首相直轄の情報戦略会議が開かれていた。

「“記録室”はもはや国家の信用問題に直結する。情報公開に名を借りた“心理操作”に近い」

そう語ったのは、現・内閣情報局の次官、渡瀬。

「我々は“抹消”よりも、“吸収”を選択すべきだ。赤松惣一郎を内閣参与に迎え、記録室を国家アーカイブに組み入れる」

静まり返る会議室。

「その案には、政治的爆発力が伴う。慎重すぎて間に合わん」

そう異を唱えたのは、公安庁の重鎮だった。

「我々の手で、“記録者”たちを静かに排除すべきだ」

日本の夜に、またひとつ見えざる決断が下されようとしていた。


■ 赤松の選択

その夜、赤松のもとに一本の手紙が届いた。

差出人はなかったが、封筒の中に一枚の紙と、USBが同封されていた。

紙には、ただ一言。

「君は“中間”にはいられない。記録者でいるか、操作者となるか」

USBには、未公開の実験映像が含まれていた。

過去に行われた“感情パターン書き換え”の実験で、対象者が何度も同じ“感動”を体験するよう編集された記録だった。

赤松は顔をゆがめた。

「これが、“記憶の編集”の最終形か……」


■ 沈黙のうねり

翌朝、記録室には一つの新しい映像がアップロードされた。

それは、三雲が密かに録音していた大塚の告白だった。

「記憶とは、水槽に落ちる滴だ。濁るのも、澄むのも、注がれる水しだいだ」

その声は、夜のように深く、誰かの記憶を呼び起こすようだった。

その日以降、“#水槽の記憶”という言葉が、SNSのトレンドを支配し始めた。


第七十二章 破壊指令

永田町の午後は、どこか蒸したような熱を孕んでいた。

外気とは異なる、目に見えない圧力が空間に立ちこめている──

そう感じる者は、ほんのわずかだった。

内閣情報局第八室、通称「抑止ユニット」。

ここは、法の網をすり抜けた“指令”だけが生きる場所である。

その地下ブースで、課長職にある**秋月仁志(あきづき ひとし)**は、黙って一枚の命令書を見つめていた。

対象:赤松惣一郎・三雲翔平・高瀬沙耶

方法:信用破壊および人格失墜処置

実行時期:即時

「始まったな……」

秋月は、何かを押し殺すように呟いた。

背後から若い補佐官が声をかける。

「三雲と高瀬に関しては、学生時代のSNS、サークル関係、報道機関との交友から潰し口を探れます。が……赤松は手強い。民間時代の情報が極端に少ない」

「彼は“記録者”ではなく、“書き換えられた者”かもしれん」

秋月の言葉に、補佐官は目を見開いた。

「まさか……あの“再生者理論”が本当だと?」

秋月は答えなかった。

ただ机の奥から、ある小型端末を取り出し、起動した。

そこには、赤松の過去映像──いや、“補正後”の映像が表示されていた。


■ 沙耶、標的となる

そのころ。

記録室の沙耶は、突然の報道に息を呑んでいた。

「高瀬沙耶氏に大学時代、政治活動団体との関与疑惑」

「極左団体との“交流画像”が流出」

画面には、大学の構内らしき場面で、ビラを配る彼女の若き日の姿が晒されていた。

「これは、捏造……いや、たしかにこれは、あの時の……でも……」

沙耶の脳裏に浮かんだのは、当時、同じゼミにいた男子学生──

公安関係の家庭の出と噂されていた**坂城真(さかしろ まこと)**の顔だった。

彼が撮っていた写真、そして不自然に親しくなった日々。

「まさか、あの時点で……?」

赤松が声をかけた。

「彼らは、記録を改竄するだけでなく、“過去の火種”を保管している。十年前の一瞬さえ、破壊の材料になる」

沙耶は唇を噛んだ。

「どうしてそこまで……」

赤松の目は、黒曜石のように冷ややかだった。

「それが、継承された支配だからだ。記憶の支配こそが、最終的な統治手段だからだよ」


■ 告発者の変節

夕刻、記録室に一本のメールが届いた。

差出人は──佐伯功。

かつて厚労省技官として、初期の“記憶補正技術”を内部告発した人物である。

その内容は、驚くべきものだった。

「この記録室の存在意義は認める。しかし、これ以上の公表は国家の混乱を招く。

よって、私は“投稿を撤回”し、過去の告白は一時的な精神錯乱によるものであったと声明を出すことにした」

沙耶は唖然とした。

「どういうこと……彼が、自分の発言を否定するなんて……」

三雲は口を固く結んだ。

「おそらく、“交渉”された」

「脅された?」

「いや、取引された。家族の安全か、恩赦か……どちらにせよ、“声”が引き戻された」

赤松は目を閉じた。

「これからは、“消される声”との戦いだ。記録を継ぐだけでなく、記録を護る者が必要になる」


■ 内部崩壊の序章

深夜0時すぎ。

新宿の雑居ビルの一室で、小規模な会合がひっそりと行われていた。

参加者は4人。いずれも元官僚、または民間諜報分析官であった。

その中の一人──眼鏡をかけた壮年の男が口を開いた。

「“抑止ユニット”が動いた。これは国家が“記録そのもの”を公文書管理から切り離し、完全に情報戦へ移行する意思の現れだ」

「つまり、官僚が記録を守る役目を捨てた?」

「いや、捨てたのではない。“改変された未来”を守ろうとしている」

男はUSBメモリをテーブルに置いた。

「ここに、“記録操作訓練”の初期教材がある。1980年代に作られた。教官名:大塚誠吾。教材名:心理遷移管理指針」

場が静まりかえる。

「これを、公開する気か?」

男は頷いた。

「すべてを晒す。今の国家は、もはや記録を守る国家ではない」


■ 三雲、覚悟の送信

翌日。

三雲は記録室の送信端末に向かっていた。

画面には、「アップロード:心理遷移管理指針(1982)」のファイル。

添付されたのは、かつての教材に記録された実践指導映像と、補正後と補正前の人格比較表。

手が震える。

これを世に出せば、自分たちは確実に“消される側”になる。

沙耶が手を添える。

「あなた一人じゃない。これは、私たち“記録されし者”すべての声でもある」

赤松が呟く。

「次は、“沈黙の代償”を問うときだ」

──送信。

画面が静かに白くなり、アップロード完了の表示が現れた。


■ 暗雲と希望のはざまで

SNSでは、「#心理遷移指針」「#記憶操作教材」というキーワードが拡散され始めていた。

一部メディアは即座にサイトを閉じ、また一部は小さく取り上げるにとどまった。

だが、学術界やジャーナリストの中には、事の本質に踏み込もうとする者たちが現れ始めた。

「これは“戦後民主主義”の根底に対する問い直しである」

「記憶とは誰のものか?」

深夜。

記録室の屋上で、三雲と沙耶、そして赤松が東京の夜景を見つめていた。

「もう戻れないね」と沙耶が呟いた。

「戻る必要などないさ」と赤松は言った。

三雲はただ、静かに夜の風を受けていた。

その目は、闇の向こうにある光を、確かに見つめていた。


(第七十三章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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