第五十三章 冷たい帳簿
――黒いコートの男が残した言葉、「君は、開けてはならない扉を開けた」。
あの瞬間から、上條省吾は時間の流れに亀裂が入ったような錯覚に陥った。
照明が消え、暗闇に沈んだ資料保管室で、背後の足音と衣擦れの音が遠ざかっていく。それは走り去る音ではない。冷静で、まるで舞台から立ち去る俳優のような沈着さだった。追うべきか、隠れるべきか。その判断すら、身体の奥で鈍くなっていた。足は地に縫い付けられたように動かなかった。
非常灯が、緑色の朧な光を壁に投げかける。朽ちかけた文書棚が浮かび上がり、現実がわずかに戻ってくる。
――誰だったのか。
――何者だったのか。
――“鷹見貞男”か。それとも、“黒衣の会”の残党か。
上條は震える手で落としたファイルを拾い上げた。黒い手帳のようなノートの裏には、薄く鉛筆でこう記されていた。
【F-239案件】
案件名:「交差点の光」
備考:S課 長谷部を通じて消去指令。物証未回収。
“交差点の光”――事件名か、それとも暗号か。S課、長谷部。その名に、上條は微かな既視感を覚えた。
長谷部辰雄――警視庁警備部公安一課のベテラン捜査官であり、かつて児玉と共に「赤坂方面極秘案件」を担当していた男。
その長谷部が、この作戦文書の破棄を指示していたということは――。
「まだ内部に生きている」
口に出して、背筋が冷たくなった。
翌日。赤坂の事務所には帰らず、上條は旧知の新聞記者・大友浩司に会うために、築地の喫茶店に向かった。大友は元・朝日新聞社会部の敏腕記者であり、オウム関連の報道を担当していたが、ある時期から急に退職し、現在はフリーで調査記事を執筆していた。
「……あの文書、まだ手元にあるのか?」
開口一番、大友は低い声で聞いた。彼の目は血走っていた。
「ある。ただ、見せられるのは部分的だ。理由は……生き延びるためだ」
冗談めかして言ったつもりだったが、大友は笑わなかった。
「“交差点の光”って言葉に聞き覚えは?」
しばしの沈黙の後、大友は紙ナプキンに文字を書いた。
六本木交差点・平成7年3月7日・未解決交通事故
「オウムの幹部・岡崎光彦が、事故死した日だ。いや、事故とされた日。だが、実際には警察の誰かが先回りして彼の移動ルートを変更させたという話がある」
上條は膝に置いた手が汗ばむのを感じた。
「つまり、殺された」
「そう思ってる。だが、決定的な証拠はない。岡崎は、例の“VX実験”の全容を知る唯一の存在だった。彼が死んだことで、複数の経路が断たれた。……それを“黒衣の会”が消した、という噂は根強い」
大友の声がさらに落ちた。
「それから、長谷部辰雄。今は警察庁のOB会に所属しながら、外郭団体の顧問として暗躍してる。内閣府の危機管理室とも繋がってるという話だ」
「つまり、未だ現役と変わらんということだな」
上條は、コーヒーの冷たさが舌にすら届かないことに気づいた。
数日後、上條は東京駅近くにある地下カフェの一角で、公安の内部情報を漏らしてくれると噂の元捜査官・名和慎吾と会った。名和は50代半ばの男で、左耳に軽い火傷の跡がある。言葉少なに、しかし正確に語る男だった。
「“黒衣の会”の最終会合は、1996年の4月、山梨県の“清水荘”で行われた。参加者は10名。鷹見もその場にいた。だが、その後の記録はない。全員が“影”に沈んだ」
「その時点で消されたのか、それとも……潜ったのか?」
「それを知るのが、“F帳簿”と呼ばれた記録簿だった。Fは“Final”のF。全ての“処理記録”を記したファイルブックだ。閲覧できるのは、公安庁の中でも一握り。保管場所は……恐らく霞が関第三庁舎の地下、第三封鎖庫だ」
「第三封鎖庫……」
それは都市伝説のような場所だった。政府の重要文書の中でも、永久機密とされたものだけが眠るとされる“鍵の無い金庫”。
名和は言う。
「そこに行くなら、覚悟しろ。過去だけでなく、未来までが変わる可能性がある」
その夜、上條は一冊のノートを開いた。児玉から預かっていた未開封の封筒の中に、それはあった。
「霞が関地下連絡通路 第六扉裏口 コード:19450226」
敗戦の年の日付。それは、この国の暗部が始まった日を意味していた。
そしてノートの最後のページには、こう書かれていた。
“螺旋の中心には、すでに答えが存在している。
それを見ようとするかどうかは、己の胆力次第である。”
――児玉正太郎
上條は、最後の戦いが始まることを悟った。
次は、“螺旋の核”そのものに向かうことになる。
第五十四章 封鎖庫
霞が関。日比谷通りに面した政府庁舎群の一角に、第三庁舎は佇んでいる。築四十年以上の建物は、改修と補強を幾度となく繰り返しながら、その“中身”だけを肥大させていた。
上條省吾は、ネクタイを締め直しながら地下二階への通用口を見上げた。雨が降っていた。コートの襟を立て、左手にはセキュリティカードに偽装されたアクセスキーを握りしめていた。それは児玉正太郎が遺したコード、“19450226”の数列によって生成された暗号だった。
エレベーターは存在しない。使用を許されるのは、特定の者に限られていた。
地下階段の鉄製の扉を開けると、重い湿気が襲った。コンクリートの壁はわずかに黒ずみ、カビと埃の匂いが入り混じっている。人の気配はない。
「……第六扉、裏口」
児玉のメモにあったその言葉通りに進んでいくと、古びた鋼鉄製の扉が現れた。鍵穴はない。ただ、小さな操作パネルが埋め込まれている。指先でコードを打ち込むと、ほんのわずかな間をおいて“カチリ”と内部のロックが外れる音がした。
扉がゆっくりと開くと、そこにはまるで遺跡のような空間が広がっていた。電球がひとつだけ、天井からぶら下がっていた。
部屋の中央に、旧式の金属製キャビネットが4台並んでいる。そのうちのひとつに、大きくラベルが貼られていた。
【F-帳簿 保管A】
上條の手が、自然と震え始めた。
F帳簿。
それは“国家によって記録された、決して明かされない事実”の記録簿だった。公安、内調、自衛隊、内閣情報室――名目上は別々の部署が取り扱っているとされてきた“極秘工作”が、すべてこの帳簿に集約されていた。
1ページ目。淡々とした活字の羅列。年月日、対象、実行部隊、処理形態、最終結果、消去日。どれも簡潔で、機械的だ。だがそのひとつひとつが、命を消し、記憶を塗り替え、事実を歪ませてきた証拠だった。
1995年3月、地下鉄サリン事件の翌日。
案件:K-95-Ω
対象:斉藤誠一(厚労省薬事課 主任)
理由:サリン前週の内通通達記録を保持
実行部:C-班(公安)
処理形態:自死偽装
実施日:1995.3.21
最終確認:良
消去日:1995.4.12
上條は思わず舌打ちした。
「自死偽装……あれか」
斉藤誠一は、事件直後に“過労自殺”として報道されたが、当時一部メディアでは「死因に不自然な点がある」と報じられた記憶がある。しかしその後、一切の報道は打ち切られた。
2ページ目以降も、それは続く。
案件:S-96-β
対象:岡崎光彦(元オウム幹部・逃走中)
実行部:内調 特殊班
処理形態:交通事故偽装
実施日:1996.3.7 六本木交差点
最終確認:中
備考:黒衣の会 立会確認
「やはり……!」
上條は唇を噛んだ。
“黒衣の会”という名前が、正式文書に記載されている。この事実だけでも、報道価値は十分にある。だが、それを誰が、どう運用していたのか。それがわからなければ、絵は完成しない。
さらにページをめくると、異常な記述が現れた。
案件:F-000
対象:国家記憶処理記録プロトコル
内容:F帳簿の存在に関するすべての記憶は、関係者に対し“再構成型記憶処理”を実施済
担当:外務省 特命班+防衛研究所
実施年:1989年〜1996年継続
注意:この帳簿の存在は、認識された時点で対象者を“処理対象”と見なすこと
上條は、ページをめくる手を止めた。
「これは……記憶処理……? 国が?」
国家が記憶を操作する。そうした陰謀論めいた話は、インターネットの海に腐るほど転がっている。だが、今ここに、それが“記録”として存在している。
背筋が凍った。見た者すべてが“処理対象”とされる。
つまり――自分も、もう逃れられない。
その時だった。金属音。背後から、重く、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
反射的に身を翻し、ライトを手に取ると、黒い影が扉の向こうに立っていた。
「……やはり君だったか」
沈んだ声が、暗闇に滲んだ。
「長谷部……」
コートを着た初老の男が、懐から銃のようなものを取り出す。上條は咄嗟に帳簿を抱え、背を向けて駆け出した。廊下を、階段を、壁際をなぞるように逃げる。
銃声はない。代わりに、無線のような音声が聞こえた。
「上條省吾、第三庁舎地下区域、F帳簿保管室にて確認。封鎖準備」
……やはり罠だったのか。児玉が仕組んだ道か、それとも黒衣の会の策略か。
廊下の端にある非常口から、上條は身体をねじ込むようにして脱出した。背後で警報が鳴り響き、赤いランプが点滅する。
その光の中で、彼はひとつの覚悟を固めた。
「俺が書く。このすべてを――文字にして暴く」
たとえ命を落とすとしても、“記録”という形で、誰かに繋げる。
螺旋の中心に踏み込んだ上條の足音が、東京の地下に響いていた。
(第五十五章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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