第五十一章 記憶の檻
昭和の終わりに建てられた集合住宅の一角で、上條省吾は久方ぶりに懐かしい空気を吸っていた。壁紙は黄ばんで剥がれ、畳の縁は擦り切れ、台所の換気扇には長年の油が染みついていた。だが、この荒れた空間が彼には妙に心地よかった。かつて事件の臭いを追ってこの町の裏路地を歩き回った日々が、微かに蘇る。
だが、今回の訪問は郷愁のためではない。旧知の記者、児玉善次から連絡を受けたのが三日前。児玉は病を患っており、寝たきりの状態で、余命も幾ばくもないと語った。最後に「君にだけは話しておきたいことがある」と言って、上條をこの古びたアパートに呼び寄せたのだった。
布団の上に横たわる児玉は、かつての剛胆な姿とは似ても似つかぬ骨ばった男に成り果てていた。だが、その目だけは鋭さを失っておらず、言葉を発するたびに、彼がまだ記者としての本能を保っていることを示していた。
「省吾……あのとき、君が追っていた地下鉄サリンの線……結局、打ち切りになったんだよな」
「上からの命令だった。組織に逆らってまで、ひとりで真相を掘り起こすことはできなかった。お前も知ってるだろ」
児玉は力なく笑った。そして、震える手で古びた封筒を渡した。
「これはな……事件直後に、俺が取材して掘り当てたものだ。警察も国も表沙汰にすることを極端に恐れて、握り潰した。だが、これは紛れもない“第二の関与者”の痕跡だ」
上條は封筒を開けた。中には、古びたカセットテープと数枚の写真、そして手書きのメモが挟まれていた。写真には、地下鉄車両の清掃員が写っていた。顔にモザイク処理がされているものの、服装や腕に刻まれた刺青の意匠に、上條の記憶が揺さぶられた。
「この男……まさか、被疑者リストから外された“鈴木”か?」
児玉は静かにうなずいた。
「オウムの信者じゃない。だが、あの宗教団体と別の利権構造で繋がっていた。国鉄民営化に伴う下請け構造の中で、人知れず流れ込んだ闇金。そしてその先にいたのが、ある公安の協力者だ。鈴木はそいつの手駒だった」
上條は無言でカセットを手に取った。ラベルには「95.3.20 朝 日比谷線」とだけ書かれていた。児玉は続ける。
「あの朝、日比谷線に乗った一人の男が、発作的に車内で咳き込み、その後崩れ落ちた。その様子が偶然録音されていたんだ。この音声は、事件の直後、某週刊誌の記者から俺のもとに流れてきた。だが、その記者は半年後、不審死を遂げた。事故として処理されたが、警察内部では“公安案件”として扱われていたと聞いた」
児玉の話が真実だとすれば、この事件には未解明の黒幕がいる可能性がある。上條の心臓がざわついた。
「君があのとき、あのまま捜査を続けていたら……俺たち二人とも、今頃この世にいなかっただろうな」
児玉は弱々しく笑い、天井を見つめながら目を閉じた。やがて、呼吸の間隔が徐々に広がり、そのまま眠りに落ちるように動かなくなった。
通夜の席では、児玉の元同僚たちが集まっていた。彼の死に感傷的になる者は少なかったが、皆、彼の仕事ぶりには一目置いていた。
上條はその中の一人、週刊誌「時局ジャーナル」の元編集者・三宅に近づいた。
「児玉の残した資料、君も知っていたのか?」
三宅は驚いたような顔をした後、微かにうなずいた。
「あの資料は……確かにあった。でも、当時は上から『国家機密の可能性がある』と圧力がかかった。それに逆らえば、編集部ごと潰されかねなかった」
「今なら話せるだろう? あの録音、そしてあの写真の意味……その後の追跡調査は?」
三宅は一枚の名刺を差し出した。
「この人物を訪ねてみろ。“高梨裕介”――元公安調査庁の調査官だったが、三年前に退官して、今は都内で法律事務所を構えている。児玉が最後まで接触を図ろうとしていた相手だ」
高梨裕介の事務所は、港区の高層ビルの一角にあった。エレベーターを降りると、重厚なドアの向こうに応接室が広がり、そこには初老の男が待っていた。端整な顔立ちに不釣り合いなほど深い皺が、かつての“闇”を物語っていた。
「君が上條さんか。児玉から話は聞いていた」
「あなたはかつて公安調査庁で、オウムの情報部門を担当していた……そうですね」
高梨は肯定も否定もしなかった。
「児玉の残した録音……それが本物なら、ある人物の存在が裏付けられる」
「誰です?」
高梨は長い沈黙の後、低い声で答えた。
「“織部”というコードネームの男だ。公安調査庁の協力者として活動していたが、彼は独自に情報収集を進め、最終的にオウムとの密約を図った。その密約の中に、地下鉄サリン事件に関する“予告”も含まれていたという……だが、その事実を知る者は、皆不審死している」
上條の手が震えた。
「あなたは、それを見過ごしたのか」
「見過ごしたのではない。止めることができなかった。いや、むしろ、止めるべきだと知ったときには、もう誰も逆らえなかったんだ。組織の中に“もう一つの組織”があった。公安の仮面を被った、別の力……」
高梨は机の引き出しから一枚の紙を取り出し、差し出した。
そこには、ある収監中の人物の名前と、接見可能な日付が記されていた。
「すべてを知るには、彼に会うしかない。君がその覚悟を持っているならな」
上條は黙って紙を受け取った。
事件の渦は、再び彼を引き寄せようとしていた。
第五十二章 赤坂拘置所
赤坂の裏手にある東京拘置所の分棟は、通常の拘置施設とは異なる異様な沈黙を纏っていた。塀の中に足を踏み入れるだけで、上條省吾の胸は微かにきしんだ。重苦しい空気。冷ややかな光。無機質なコンクリートの廊下。誰一人声を発しない警備員たちの瞳が、陰に潜む何かを物語っている。
彼の手には、高梨裕介から渡された面会申請書と、ひとつの名。
「門田圭一」――その名は、かつて公安調査庁の報告書の中でも消されたように黒塗りされていた。警察庁の内部でも、“織部”のコードネームと共に極秘扱いされた存在である。門田は現在、国に対する反逆罪とも言える未公開文書の横流し、および国家公務員法違反の容疑で服役中とされていたが、事件の詳細は謎に包まれていた。
面会室の小窓の向こうに現れた門田は、思いのほか若々しい風貌だった。五十代後半のはずだが、背筋は真っ直ぐで、眼光も鋭い。収監されているというより、ただの「観察対象」として隔離されている印象を受けた。
「上條省吾……刑事上がりの探偵崩れが、こんなところまで来るとはな。児玉も罪な奴だ」
第一声から挑発的だったが、どこか余裕すら感じさせる声音だった。
「あなたが“織部”か?」
門田は眉一つ動かさず、目を細めた。
「お前がそう思うなら、そうなんだろう。……お前の中ではな」
壁越しに響く声が、機械のように冷たい。だがその奥底に、ある種の諦念と怒りが滲んでいた。
「事件の真相を知りたい。地下鉄サリン、オウム、公安……その背後で蠢いていた“もう一つの組織”の正体を」
沈黙が訪れた。しばしの後、門田は呟くように言った。
「“何も知らなかった”という者ほど、よく知っている。“見なかった”という者ほど、よく見ている。お前も、すでにその渦の中にいる」
「渦の中心には何がある?」
門田は苦笑した。
「……国家だよ。だが、国家という言葉は曖昧すぎる。もっと正確に言えば、“統治装置”だ。オウムを利用したのは奴らだ。“狂信集団”の背後で、何が起きていたか――それを暴けば、お前もこの壁の向こうで静かに終わるだろう」
「なら、なぜ俺に話す?」
「終わりが近いからさ。誰かに遺しておかねば、意味がない。あれは一つの“実験”だった。世論操作、恐怖支配、そして情報の隠蔽。それらを一連の“宗教テロ”という仮面で被せて、実行させた。主導したのは公安の中の極秘ユニット。“黒衣の会”と呼ばれた」
上條の顔が動く。
「……聞いたことがある。児玉が遺していたノートにも、その名前があった」
門田は首を小さく振った。
「本当に存在していたんだ。主導者は複数いたが、その中でも鍵を握る人物がいた。“鷹見貞男”――元内閣情報調査室の主任分析官。表には一切出ないが、政府中枢と公安の両方を繋ぐ“橋渡し役”だった」
鷹見――上條の中で、長年霧に包まれていた名前が、唐突に輪郭を得て立ち上がった。
「今、鷹見はどこに?」
「姿は消えた。だが、彼の遺した“記録”がどこかにあるはずだ。場所は……千代田区のとある書庫の地下。かつて情報室の保管庫として使われていた場所だ。そこに辿り着けば、お前は“国が決して開けてはならない箱”を見ることになるだろう」
面会の終了を告げる警報が鳴った。門田は最後に言った。
「省吾……生きてここから出られると、思わないことだな」
雨の中、上條は千代田区の古い地図を手に、都心の一角を歩いていた。児玉のノートと、門田の証言を照らし合わせるうちに、一つの施設の存在が浮かび上がっていた。
旧・通産省外郭機関 情報通信研究センター。既に解体され、跡地には別の民間ビルが建っていたが、地下階には当時の構造が残されているという。
地図を片手に地下通路に辿り着くと、朽ちた鉄扉があった。鍵は錆びついていたが、児玉が遺した工具でこじ開けると、そこには封印されたような空気が広がっていた。
薄暗い廊下の先に、小さな部屋があった。そこには一台の旧式PCと、ロッカーが二つ。上條がロッカーを開けると、中には埃を被った文書ファイルが詰まっていた。背表紙には、すべて「1995年/極秘」と記されている。
ファイルを開いた。最初のページに、こう記されていた。
極秘指定文書
件名:オウム真理教関連事案に関する情報戦略文書
記録者:鷹見貞男
配布対象:黒衣の会 関係者のみ
そこには、信じ難い文言が続いていた。
本作戦は、国内における生物化学兵器テロの発生を“予見し得た情報”として扱い、これを利用した統制・監視モデルを構築するための予備試案である。
目的は以下の通り――
(1)治安強化を名目とする法整備の加速
(2)国民の“内的自由”に対する監視システムの検証
(3)宗教団体を媒体とした国家実験の成立可能性の測定
そのとき、背後で微かな足音がした。
上條が振り返ると、黒いコートの男が立っていた。顔は見えない。だが、その輪郭には既視感があった。男は静かに手を上げた。
「君は、開けてはならない扉を開けた」
瞬間、照明が落ち、真っ暗な闇が上條を包んだ。
(第五十三章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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