第四十九章 《特別監視区域》
霞が関の一角。旧建設省庁舎の地下三階にある機密会議室には、冷気のような沈黙が支配していた。
長方形のテーブルを囲むのは、内閣官房副長官補、内閣情報調査室室長、防衛省参事官、公安調査庁次長、そして国家安全保障局の情報統括官。
その中央に、男が一人立っていた。黒のスーツ、無地のネクタイ、身分証すら提示していない。だが、誰一人彼に名を問わなかった。
「“プロジェクトN”は、漏洩しました」
室内に緊張が走る。
「正確には、外郭団体が用いたプログラムコードと、化学特異作戦の実施手順。加えて、芦田良造の実名証言。これらが、今、ネット上に拡散している」
「……対応は?」
「すでに、情報庁を通じて“ネガティブSEO”と“高密度情報拡散”を実施中です。つまり、事実と陰謀論の境界を曖昧にする手法です」
「それで十分か?」
「いずれは“真鍋信也”を無力化する必要がある」
情報統括官の言葉に、全員が無言のままうなずいた。
やがて、公安調査庁次長が口を開いた。
「問題は、彼が単独犯でないことです。“杉村雅春”という旧警察庁出身者が接触しており、背景にあるのは、昭和末期に解体された“対共工作部”の残党と見られます」
沈黙がまた訪れた。
「とにかく、早急に“非公的領域”での対応を始める。――この会議は、記録に残さない」
一方、真鍋信也は渋谷の小さな貸し会議室にいた。集まったのは、大学の法学部教授、元厚生省官僚、ITエンジニア、そして二人の学生。
「『螺旋計画』の資料は真実です。けれど、あまりにも多くの“事実”が隠されています」
そう語るのは、元厚生省官僚の小田嶋だった。彼は、1990年代初頭に「感染症対策特別調査室」に所属していたという。
「1993年春、霞が関に回った一枚のペーパーがありました。“都市封鎖実験”と題された報告書です。その中に、空気感染性有毒ガスによる交通機能の遮断テストが記されていた。対象地域は“新宿―霞が関―六本木”」
参加者たちは息を飲んだ。
「それが、後の地下鉄サリン事件の“予行”だった……と?」
「断定はできません。ただ、厚生省の一部では“避難誘導データ”を実地で取っていた節があります」
真鍋は、その場で新たな特設サイト《螺旋49》を立ち上げた。
目的は一つ。「事件の構造」を多角的に掘り起こすこと。そして、国家の“設計ミス”がいかにして宗教団体という媒介を得て、暴走したかを検証するためだった。
その日の深夜、杉村雅春のマンションに私服の男が二人、無言で入ってきた。鍵のこじ開けもなければ、物音一つ立てなかった。
居間のソファに置かれたスマートフォンには、「杉村の発信履歴」が写され、ノートパソコンは“複製中”の文字を表示していた。
男たちは、すべてを終えると手短に報告を入れた。
「対象宅、データ複製完了。バックアップ回収なし。継続監視に移行」
翌朝、杉村が気づいたのは“置かれたままの違和感”だった。パソコンのタッチパッドには指紋が付いていない。コーヒーカップの位置がずれていた。そして、寝室のクローゼットの扉が、1ミリだけ開いていた。
「……入ったな」
彼は、ただちに真鍋に連絡した。
数日後、警視庁記者クラブに投げ込まれた一枚のFAXが話題を呼んだ。
> 『霞が関には“計画”が存在していた。その証拠は、すでに世に出た。問題は、その“裏側”にある』
差出人は“R”とだけ記されていた。
この文面に、かつての芦田良造の署名と酷似した筆跡が認められたことで、報道各社は再び騒然となる。
同時期、国会では内閣委員会が開催されていた。立憲民主党の若手議員・木島倫太郎が、資料を掲げて質した。
「総理、これは旧厚生省資料にあった“化学特異作戦に関する参考文書”です。1993年から1994年にかけて、都市交通機関を対象とした“実地調査”が行われていた可能性について、政府は把握していますか?」
総理は顔色を変えなかった。ただ、一言だけ答えた。
「そうした文書の存在は、政府として確認しておりません」
議場にざわめきが起こる。
その後、内閣官房副長官が記者会見を開き、“陰謀論に基づく無責任な言説が国民の不安を煽っている”と述べた。
だが、もはや世論は止まらなかった。
真鍋は、次のステージへと動き出していた。
彼が目指すのは、国際メディアへの資料提出。ニューヨーク・タイムズ、ル・モンド、BBC――いずれかが取り上げれば、日本政府は否応なしに反応せざるを得ない。
杉村は問いかけた。
「本当にやるのか。国外に出せば、もう戻れないぞ」
「俺は、“戻る場所”なんて、最初からなかった」
その夜、真鍋は成田空港から深夜便でソウル経由のアムステルダム行きに搭乗した。
だが、搭乗手続き直後、空港内で見覚えのある顔を目撃する。背広姿の男、かすかに動いた手には、あの時の「非通知電話」と同じ着信画面。
「……追ってきたな」
真鍋は背筋を伸ばし、手荷物だけを持って搭乗ゲートをくぐった。
第五十章 《境界線の夜》
アムステルダム・スキポール空港は、冬の湿った風に包まれていた。真鍋信也は、ホテルの一室に荷物を置いたまま、街の外れにある小さな書店に身を潜めていた。
その書店の地下には、国際ジャーナリズムに身を投じた亡命者たちの簡易編集室がある。元ニューヨーク・タイムズの記者、ロシア国営通信から逃れた女性ジャーナリスト、香港で公安に追われた映像作家――多国籍の亡命者たちが、喧騒から離れた地下室で“真実”の断片を繋ぎ合わせていた。
真鍋が持ち込んだ資料を前に、一人の男が声を上げた。
「これは……都市型神経ガス散布の実地検証……それも、オウムの犯行より一年早く、国家によって計画されていたと?」
「断言はしない。だが、“そう解釈できる余地”がある文書だ」
真鍋はあくまで冷静に答えた。ロジックに依存し、センセーショナルには振れない。それが彼の流儀だった。
「この記録の真贋は?」
「厚労省の文書開示請求に基づく一次資料。内容は“感染症パニックを想定した都市封鎖の予行”。ただし、記述の多くは化学兵器に言及しており、公共機関、地下鉄網、警察機構の“想定反応時間”まで記録されている」
「つまり……“使われることを知っていた”可能性がある?」
「その通りだ」
編集室の中に、冷気のような沈黙が降りた。
一方その頃、東京・南麻布。杉村雅春は、公安関係者から“内密の警告”を受けていた。
「……逃げろ、杉村。今のお前は“対象者リスト”の五番目に入っている」
「一番は?」
「当然、真鍋信也さ。次が小田嶋。三番は“内閣情報調査室の出身者”で、今は京都に潜伏している男。……四番目は誰か、俺も知らん。ただ、お前が五番目なのは確かだ」
「……理由は?」
「言論だよ。裏側にいる連中にとって、“言葉”は弾丸より恐ろしい。お前が動けば、いずれ記者が、野党が、海外メディアが“点と点をつなぐ”。――それだけの話だ」
杉村は沈黙した。
彼が警察官僚だった時代、情報の破壊力を熟知していた。だが、退職後の十数年、彼は一切口を閉ざしていた。すべてが芦田の死で変わった。今や、口を閉じる理由もなければ、守るべき機関もない。
その夜、真鍋はスキポール空港近くのホテルに戻ると、一通のメールを開いた。差出人は、数年前に取材で知り合ったドイツの国際刑事弁護士。
> 「私たちの協力者がブリュッセルにいます。あなたの持つ文書と証言を、欧州連合の人権委員会に提出するには、一定の手続きが必要です。だが、急げば数週間で公的記録に変えられる」
真鍋は即座に返信した。
> 「協力する。ただし、送付は暗号化ファイル形式とし、受け手の署名が必要」
> 「了解。念のため、物理的コピーを持参のうえ、対面で手渡しを」
そこまで入力して、真鍋はふと考えた。
――どこまでが真実で、どこまでが信仰なのか。
螺旋計画に群がる情報の数々は、既に宗教的構造すら孕んでいた。陰謀論と事実、歪んだ証言と隠された記録。それらすべてが、一つの“構造”に絡めとられている。
この構造自体が、もはや“サリン事件”を超えていた。
東京・霞が関。
警視庁公安部の一室で、幹部会議が開かれていた。テーマは一つ、「螺旋計画の世論化阻止」。
「真鍋の資料が欧州に渡れば、“国内での封じ込め”は不可能になる」
「既にBBCが内部調査チームを動かしている。ドイツ公共放送も接触済み。ここ数日のうちに何らかの動きが出る」
「つまり、時間がない」
「杉村を押さえろ。奴を制すれば、真鍋の裏付けが崩れる」
「しかし、それには物理的対応が必要になる」
「構わん。今夜、“第二種手段”で処理する」
その言葉が、室内の温度を一段と下げた。
その深夜、杉村のアパートの前に一台の白いワンボックスが止まった。降りてきたのは三人の男。いずれもフードを被り、無線で連携を取り合っている。
アパートの外階段を静かに上がり、ドアノブに手をかける――その瞬間、杉村は玄関内側で待ち構えていた。
パチン、と静電式のスタンガンが唸った。
一人が叫び声をあげ、よろめいた隙に杉村はドアを叩きつけて開け、もう一人の腕を掴んで壁に押し当てた。
「誰の指示だ。公安か、内調か、それとも……」
「……もう無理だ、お前もすぐ消される」
その言葉に、杉村の目が細くなる。
「消されるのは……お前らのほうだ」
杉村はすぐに119番ではなく、新聞社の“深夜緊急ライン”に通報した。
午前三時。大手紙のカメラマンが到着したとき、すでに男たちは失神していた。
翌朝、“杉村襲撃事件”はSNSを通じて一気に拡散された。
しかも、杉村は襲撃者の無線記録を録音していた。その内容がネット上に公開されると、「国家関係者による襲撃」「公安の越権活動」「螺旋計画への報復」という言葉が踊った。
それは、もはや一記者の手を離れ、“世論の渦”になっていった。
アムステルダムの朝、真鍋の元に一本の電話が届く。
「杉村が襲撃された。だが、やつは無事だ。そして、……世論が、動き出した」
真鍋は静かに息を吐いた。
「ならば、俺も動く」
彼はジャケットを羽織り、編集室へ向かう。
螺旋の先端が、ついに可視化され始めた。
(第五十一章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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