松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第四十七章・第四十八章

目次

第四十七章 《報せ人》

その夜、九段下の地下壕から一人の男が運び出された。意識はなく、胸元にはかすかに温もりが残っていた。

 搬送されたのは都心の某医療施設。表向きは一般の総合病院であるが、政治家や官僚の秘密裏な治療にも使われる“灰色の施設”であった。杉村拓海は、そこで三日三晩、眠り続けた。

 四日目の朝。彼は、ゆっくりと目を覚ました。白い天井が視界に広がり、遠くで電子音が脈打つ。体を動かそうとしたが、腕に重い麻酔の名残が残っていた。

 「……ここは……?」

 病室のドアが静かに開いた。現れたのは、黒縁眼鏡の女だった。細身のスーツに身を包み、無機質な書類バインダーを持っている。

 「杉村さんですね。私たちは、あなたの安全を確保するために動いています」

 「“私たち”? あんた……どこの人間だ」

 女は軽く微笑んだ。だが、その笑みには血の気がなかった。

 「名称はお答えできません。ただ、あなたが知ってしまった“あのこと”――螺旋計画について、少しだけお話ししたくて」

 「螺旋計画……あれは現実なんだな……」

 彼の呟きに、女は頷いた。

 「はい。あれは戦後から続く国家の“裏歴史”です。だが、それを“今さら”暴露しても、世界は変わらない。私たちは、歴史の歯車を無理に戻すよりも、“今を維持する”ことを選ぶ」

 「……それでも、俺は……知ったからには黙っていられない」

 「あなたが選択を誤れば、これから多くの“巻き添え”が出るでしょう」

 「だから黙れ、というのか?」

 女は、無言で一枚の紙を差し出した。それは「国家保全法」第34条の写しだった。内容は簡潔だが冷徹だった――国家の秘密を著しく毀損する情報を故意に流布した者は、十年以上の懲役または特別拘束の対象となる、と。


 翌朝、杉村は退院を申し出た。脇腹にまだ疼痛が残るが、彼の足取りには迷いがなかった。あの“地下”で見た記録――“オペレーション・螺旋”の全容は、既に彼の記憶に深く刻まれている。

 「証拠がなければ暴露にならない。だが、俺にはある」

 彼は、地下壕で密かに撮影していた映像データを記録したSDカードを、靴底の内部に隠していた。それは、命を賭してでも公表すべきものだと、直感していた。

 だが、敵は想像以上に近くにいた。

 その日、彼が訪れたのは、信濃町の老舗新聞社「東京日朝」の資料部。大学時代からの旧知である社会部デスク・矢島恵介に会うためだった。

 「……これは本物か?」

 SDカードの映像を見終えた矢島は、コーヒーをすすりながら低く呟いた。

 「ああ。地下三十メートルの記録室だ。信じるか?」

 「信じたくはないが……事実は事実だな。ただ、これを表に出したら、君の命は保証できない」

 「もうその覚悟はできてる」

 「よし……だが公開前に、裏取りが必要だ」


 二人は、映像に映っていた記録文書のファイル名――「螺旋-9433-GB-再改」――に注目した。

 「9433ってのは、昭和94年3月3日。つまり、平成6年3月3日……あの事件の、ちょうど1年前じゃないか」

 「そうだ。つまり、オウムによるサリン事件の“予行演習”が国家主導であったことを示唆してる」

 「その裏を取るには、当時の厚労省官僚……あるいは、防衛庁にいた“観測員”に当たる必要があるな」


 杉村はその足で、世田谷区のとある住宅街を訪れた。かつて防衛庁・科学技術本部に所属していた男――芦田良造。すでに八十を越える高齢だが、彼の名は記録文書に“評価官”として明記されていた。

 インターホン越しに事情を話すと、しばらくして、老いた男が玄関先に現れた。

 「あなたが……記者さんか」

 「“螺旋”について、話を聞かせてほしい」

 芦田は黙って彼を玄関に通した。応接間に通されると、老いた男は一冊の古いノートを取り出した。

 「もう、俺は長くない。だから、これを渡しておく。君が“真実”を伝えるつもりなら……止めはしない」

 ノートには、戦後の化学兵器研究の推移、各省庁間の連携、そしてオウム事件直前の「黙認指令」の存在が詳細に綴られていた。

 「政府は“報せ人”が現れることを想定していた。だからこそ、全てを消そうとするだろう」


 その夜、杉村はマンションに戻った。手元には、SDカードと芦田のノート。これさえあれば、どの報道機関でも記事にできる。

 しかし、玄関を開けた瞬間、異変に気づいた。部屋の照明がついていた。窓はわずかに開き、カーテンが風に揺れている。

 「……誰か、いるのか」

 リビングの奥から、ゆっくりと足音が近づいてくる。現れたのは、数日前に病室で会った“女”だった。

 「やはり、あなたは動きましたね」

 「追ってきたのか……!」

 女は銃を構えていた。無音のまま、杉村の胸元に照準が向けられる。

 だが――その瞬間、部屋の窓が破られ、黒装束の男たちが飛び込んできた。

 「公安調査庁だ! 全員動くな!」


 事態は急変した。内閣情報調査室と公安庁の内部抗争は、ついに“実力行使”の段階に突入したのだ。

 部屋の一角に倒れた女の銃が転がり、杉村はただ呆然と立ち尽くしていた。

 「……いま、何が起きてるんだ……?」

 現場責任者とおぼしき男が杉村に言った。

 「あなたは“報せ人”だ。だが、それと同時に“証人”でもある。これからしばらく、あなたには政府の保護下で動いてもらう」

 「保護……という名の監視だろ?」

 男は肩をすくめて言った。

 「監視は“国家の関心”の裏返しだ。だが、もし本当に報せたいなら――まだ方法はある」


 翌日、杉村はフリーランス記者として活動する旧友・真鍋にすべてを託す決意をする。

 「真鍋。これはお前にしか頼めない。これを使って、“物語”ではなく“現実”として書いてくれ」

 SDカードとノートを渡したそのとき、彼の胸に奇妙な静けさが広がっていた。

 真実を語ることは、死を招くことかもしれない。

 だがそれでも、報せねばならない――

 それが、自らが生き残った“意味”だと信じて。


第四十八章 《声なき告発》

深夜、神楽坂の一角にある古い木造アパート。その二階の一室で、真鍋信也は机に向かっていた。畳に散らばる数十枚のコピー用紙、開かれたノートパソコン、そして録音機の中からは、芦田良造のかすれた証言音声が流れ続けている。

 「“化学特異作戦”、すなわち、SOP(Spiral Operation Program)……それは、冷戦期から続いていた対中ソフトパワー政策の一環だった……」

 杉村から託された証拠は、予想以上に重かった。ノートには、1993年2月から94年3月にかけての政府内機密会議の議事概要が記されている。化学兵器の“研究黙認”と“宗教団体の擬装的利用”……表向きには狂気としか見えぬ政策が、緻密な戦略として政府内で推進されていたというのだ。

 「……書くしかない」

 真鍋は苦悶の末、原稿執筆に着手した。

 題名は決めていた。

 『螺旋計画 ―国家の黙約と偽装宗教の裏面史―』


 三日後、原稿は完成した。45,000字のルポルタージュ、12本のインタビュー記録、計8点の画像資料。

 だが、その公開は容易ではなかった。

 「申し訳ない、真鍋さん。これは……社としては危険すぎる」

 都内大手週刊誌編集長は、資料をざっと見たあと、原稿を静かに閉じた。

 「リスクは承知の上です。それでも出すべき内容です」

 「わかってます。だが、相手は霞が関だけじゃない。公安、情報庁、場合によっては米軍まで絡む」

 真鍋は黙った。だが、編集長の言葉には覚えがあった。今回のルポが示す「計画」には、在日米軍による“化学兵器運用の実証場”としての日本利用という一節すら含まれていた。

 やがて、編集長はため息をつきながら言った。

 「ウェブだ。まずは“独立系ニュースメディア”で流せ。拡散すれば、どこかの局も動くだろう。紙媒体が動くには、世論の圧力が要る」


 真鍋は、自身が立ち上げた小規模メディア《CoreNexus(コア・ネクサス)》のサーバーに、特設ページを開設した。

 6月1日深夜2時、「記事」は公開された。

 タイトルは伏せたまま、「ある記者が、国家の暗部を暴くまでの記録」として、PDF形式の全文資料と映像の一部がアップロードされた。

 最初の12時間は、ほとんどアクセスがなかった。だが、深夜のTwitter(現X)上で、ある政治系アカウントが投稿した。

「ヤバい記事見つけた。オウム事件の裏に政府と防衛庁? RTで拡散希望」

 翌朝9時には、サイトは接続不能に陥るほどのトラフィックに見舞われていた。大学生、フリーライター、陰謀論者、元官僚……さまざまな層が、“真鍋の記事”に群がった。


 だが、動いたのは世論だけではなかった。

 午後、杉村のスマートフォンに“非通知”の番号から着信があった。

 「……はい、杉村です」

 「君はまだ、生きているつもりか」

 聞き覚えのない、男の声。低く、抑揚のない語り口だった。

 「この件は、国家機密だ。今からでも遅くない。あの記事を削除しろ。でなければ、次は“君の周囲”が危険に晒される」

 「……脅しか」

 「これは“通告”だ。警告ではない」

 電話は、それきり切れた。

 その夜、真鍋のアパート前に不審なワゴン車が停車したまま、朝まで動かなかったという。


 一方、都内某テレビ局では、緊急編集会議が開かれていた。社会部デスクの女性記者が、会議で声を上げた。

 「この資料、本物です。芦田良造の署名も、照合済みです。これは報道すべき“国の歪み”です」

 「だが、確認されていない記述も多い。もし誤報であれば、局が潰れる」

 「すでにネットでは火がついています。“情報の不在”は、それ自体が暴力です」

 会議は深夜まで続いた。


 翌日午後、ついに最初のテレビ報道がなされた。

「オウム事件の裏にあった国家機関との接触――民間メディアが内部資料を公開。政府は“捏造”と反論」

 NHKや大手紙も追従しはじめる。だが、そのどれもが“断定”は避け、“可能性”や“疑惑”として報じた。

 それでも、状況は確実に動いていた。野党の一部議員が、国会で「螺旋計画」について質疑を予定し、アメリカ大使館は異例のコメントを出した。

 「報道については注視しているが、我が国政府は関与を一切否定する」


 その頃、真鍋の元に一通の封筒が届いた。差出人不明の封筒の中には、写真が三枚。

 一枚目には、真鍋が妻と撮った写真。二枚目は、通っていた喫茶店の店内。三枚目は、見知らぬ人物の後ろ姿――だが、その人物の背後には、尾行者の影があった。

 「……来たか」

 真鍋は、杉村に連絡を取った。

 「杉村。お前に一つだけ伝えたい。“真実”は生き延びる。しかし、伝える者がいなければ、意味がない」

 「だからこそ、お前が必要だ」

 その夜、真鍋は地下鉄の線路沿いのベンチに座っていた。雨が降っていた。傘も差さず、ノートPCに打ち込む指先だけが、静かに動いていた。

 その画面には、次の連載記事のタイトルが表示されていた。

『霞が関螺旋――失われた国家倫理を問う』第一回


 一方、国の対応も始動した。内閣官房は、情報管理庁を通じて「国家保全上の重大な偽情報の拡散」として、複数メディアへの“注意”を喚起し、動画配信サイトは一部映像の削除を行った。

 だが、それに呼応するように、市民グループや大学教授、有志ジャーナリストが「螺旋計画検証委員会(仮)」を結成。

 物語は、いよいよ国家と個人、情報と記憶の“最終的な交差点”へと進み始めていた。

(第四十九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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