第四十五章 《曇天の余白》
その日、朝から新宿は霧雨に包まれていた。濡れたアスファルトの上を足早に行き交う人々は、誰もが何かに追われるような面持ちで、傘を傾け、肩をすぼめて歩いていた。杉村の足も、その流れのなかにあった。
「……坂上ビル、か」
地図を確かめるまでもなかった。かつて公安調査庁の下請け業務に従事していた調査会社「宏進企画」が入居していたその雑居ビルは、今では看板も外され、ガラス戸の内側には「貸物件」の札が虚しくぶら下がっている。
杉村はポケットから一枚の写真を取り出した。そこには、十数年前に撮影されたと思しき一枚の集合写真。真ん中に立っているのは、当時公安庁から派遣された調査官・松野清隆。周囲には、宏進企画の面々と見られる人物が数名写っている。
だが、その写真には、一つだけ明らかに不自然な点があった。右端に立っている人物の顔だけが、意図的に塗りつぶされていたのである。
「誰が……そして、何のために」
考え込む間もなく、背後から声がかかった。
「……杉村さんですね」
男の声だった。低く、抑えた声音。振り向くと、そこには黒のトレンチコートに身を包んだ初老の男が立っていた。片手には古びたステッキ、もう一方の手はコートのポケットに入っている。
「あなたは?」
「私は……かつて宏進企画に関わっていた者です」
杉村は警戒心を緩めぬまま、そっと距離を詰めた。
「あなたが“右端の男”ですか」
男はしばらく沈黙したあと、うなずいた。
「我々は――ただ命じられた通りに動いていたに過ぎません。あなたが追っている“地下鉄サリン事件”の背後には、公安、警察、民間、それらすべてが複雑に絡み合っていた。我々のような末端の者が真相を知ることは、許されなかったのです」
「では、なぜあなたは今、姿を現した?」
「……後悔ですよ、杉村さん。あの日、私が渡した“箱”の中身が何であったかを、知ることができたのは事件の三日後でした。だが、もう遅かった。私は――私は、ただの運び屋だったはずなんだ」
男はふらりと体を揺らし、傘を落としかけた。
「“箱”とは?」
「液体状の化学物質。オウムではなく、どこか別の場所で製造された。……あなたは“九段下の地下室”をご存知ですか?」
杉村の呼吸が止まった。九段下――それは、戦後まもなく建設された地下指令壕の跡地と言われ、民間にはその存在さえ伏せられてきた場所だった。過去、何人かのジャーナリストがそこに踏み込もうとして行方不明になっている。
「まさか、そこが……」
「ええ。地下鉄サリン事件は、オウムによる単独犯行などではなかった。あれは、試験だったのです。極秘裏に作られた新型化学兵器のテスト。オウムは、その“カバー”として使われただけ」
杉村はその場に立ち尽くした。霧雨が頬を打っていた。
「証拠は……あるのですか?」
男はポケットから一枚の名刺大のメモリカードを取り出した。
「これは、かつて“右端の男”だった私の最後の贖罪です。これを解析すれば、九段下に何があったのか、分かるはずです。だが、気をつけてください……あなたを監視している目は、既に複数ある」
その瞬間、背後でタイヤがスリップする音がした。振り返ると、白のクラウンが急停車し、スモークガラスの後部座席から誰かが降りようとしていた。
「逃げてください、杉村さん。彼らは、あなたを……」
言い終える前に、男の身体がよろめき、左胸を押さえた。小さな乾いた音。銃声だった。杉村は反射的に男を抱きかかえ、背後の車に背を向けながらビルの陰へと走った。
「しっかりしてください!」
「……遅すぎた……あなたが……“記録室”に辿り着ければ……」
男はそう言い残し、こと切れた。
暗い雨のなか、男の死に顔はどこか安らかだった。
その夜、杉村は渋谷のネットカフェの一室に身を隠していた。メモリカードの中身は、軍事用の高い暗号化が施されており、解析には時間がかかる。
それでも、いくつかのフォルダ名だけは確認できた。
「試験区画」「搬送経路B」「制御中枢」
そして、最後のフォルダの名は――
「螺旋」
その瞬間、杉村の背筋に冷たいものが走った。それは、彼が十年以上前から追ってきた記録と完全に一致していた。
「“螺旋”……やはり、すべてはそこに繋がるのか」
その言葉を呟いたとき、部屋の外で足音が止まった。
誰かが、確実に、彼の背後まで来ていた。
第四十六章 《九段下地下壕》
午後九時、九段下。都心の喧騒が徐々に沈静し、霞ヶ関と皇居のあいだに広がる夜の闇は、一種独特の重苦しさを帯びていた。杉村は、かつて国の要所として機能していた官庁街の裏手にある、小さな公園の植え込みの奥に身を潜めていた。
彼の視線の先にあるのは、一見すると平凡なメンテナンス用の鉄扉。だがその扉は、戦後まもなく建設されたとされる「旧・防衛指令壕」への入り口であり、限られた政府関係者のみが立ち入ることを許された“禁忌”の空間であった。
――“記録室”に辿り着け。
右端の男が残した最後の言葉。その意味を解く鍵は、彼が渡してくれた暗号化メモリにあった。「制御中枢」「試験区画」と並んで記録された「螺旋」のフォルダ名。そしてそれは、過去の公安資料に執拗に現れるコードネームと一致する。
「螺旋」――表向きには存在しないとされた非公式の特殊研究班。それは公安庁、防衛省、厚労省、そして時に内閣情報調査室をも巻き込んだ、戦後最大の対内オペレーションだった。
杉村は重い鉄扉に近づいた。キーボード型のセキュリティパネルが設けられていたが、彼はあらかじめメモリ内から抽出したコード――1945REQUIEM――を入力した。
「……ピッ」
沈黙ののち、錆びついた機構がゆっくりと回転し、扉は内側から開いた。濃密な地下の空気が、まるで旧軍の亡霊を引き連れるかのように噴き出してきた。
階段を降りるごとに、空気の質が変わっていく。杉村は懐中電灯を手に、慎重に一歩一歩を踏みしめて進んだ。地下三十メートル付近まで来たところで、長く伸びるコンクリートの通路が現れた。通路の両側には分厚い鋼鉄のドアが並んでいる。ほとんどは錆びて開かなくなっていたが、一つだけ、まだ電気錠が生きている部屋があった。
パネルには、「記録室第二保管庫」と刻印されている。
彼は再びメモリの中からコードを検索し、電気錠を開いた。扉が開いたとき、室内の蛍光灯が自動的に点灯した。
そこは、まるで時間が凍りついたまま保存されているかのような空間だった。古びた書類棚、黄ばんだファイル、リール式のテープレコーダー、そして、壁一面に設置された映写用スクリーン。
中央のデスクには、政府の紋章が入った赤表紙のバインダーが置かれていた。その表紙にはただ一言――
「オペレーション・螺旋」
杉村は震える手でページを捲った。
それは、戦後間もない昭和23年に始まり、平成初期に極秘裏に完了した、日本政府による「内戦型化学兵器」の研究開発記録だった。米軍から提供された神経ガス「GB」を元に、国内での独自改良が行われた。動機は、冷戦下の内乱対策、そして「思想的暴徒」に対する抑止力であった。
資料には、以下のような記述があった。
> 本計画の目的は、都市部における無差別的散布ではなく、極めて局所的かつ制御された化学剤散布の実証である。これにより、仮想敵国による“内部扇動”への対応が可能となる。
オウム真理教による事件は、その「試験環境」に利用されたに過ぎなかった。捜査機関の一部は事前にその危険性を察知していたが、計画の“完遂”が優先され、故意に見逃された。
「……そんな……!」
杉村は声を出していた。これはもう、宗教やカルトの問題ではない。国家の名のもとに、罪なき市民がモルモットにされたという事実――それは、彼の記者としての矜持を打ち砕くと同時に、新たな覚悟を迫っていた。
そのとき、背後で足音がした。
「……やはりここにいたか」
振り向くと、そこには見覚えのある男が立っていた。薄い灰色のスーツ、無表情な顔、そして冷たい瞳――内閣情報調査室・特別分析官の三枝和臣だった。
「なぜ、お前がここに」
三枝はゆっくりと部屋に入ってきた。
「君は真相に辿り着いた。それは賞賛に値する。ただ……残念だが、君がそれを“公表”することは許されない」
「それが国家の意志か?」
三枝は肩をすくめて笑った。
「国家というものは、常に“汚れ”を内包している。それが安全保障の現実だ。君には理解できまい。理想を抱いても、人は真実の前に沈黙せざるを得ない」
「俺は黙らない。たとえ命を失っても――この記録を公開する」
三枝はしばし沈黙したのち、小さく頷いた。
「そう言うと思った。だから、選ばせよう。君自身が、“螺旋”の一部になる道もある。君の頭脳と記憶力は、今の我々にとって極めて有益だ。記者という仮面を捨て、“内側”に入れ。そうすれば、命は保証しよう」
「……悪魔に魂を売れと?」
「魂など、誰も気にしないさ。今の時代は、事実よりも“操作された真実”が支配する」
杉村は、答えなかった。
答えず、ただ一歩、スクリーンに向かって歩いた。
「三枝。俺は、お前が考えているほど、賢くも、従順でもない。ただ……俺は、知ってしまった。だから、報せなければならない。これは、俺の“贖罪”だ」
三枝の顔から、微かな笑みが消えた。
「……ならば、ここで終わるな」
その瞬間、部屋の照明が落ちた。
銃声が響く。光のない闇のなか、何かが倒れる音がした。
数分後、九段下の地下壕の入り口がひっそりと閉じられた。
地上では、再び霧雨が降り始めていた。
(第四十七章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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