第四十一章 転位の座標
世田谷の一角、古い地層の上に建つ民家の地下に、その書斎はあった。昭和初期の造りを保ちつつ、床下には耐震改修を施された隠し部屋が存在する。望月良治が神原秋人の遺品から導き出した「転位の座標」は、この家を指していた。
堂本奈々は静かに古い書架の奥を探っていた。煤けた百科事典の裏に、密かに仕掛けられたスライド板があり、それを横にずらすと、奥からひとつの箱が現れた。鉄製の重たい箱。鍵はないが、封蝋の痕跡がまだ生々しい。
「見つけた」
その中には、手書きの文書とともに、8ミリフィルム、カセットテープ、1987年製のソニー製ハンディカムが収められていた。
奈々はそれらを慎重にテーブルに並べ、カセットテープを再生した。
かすれた音声が、再生機から漏れた。
「――これは、誰に向けた遺言でもない。だが、後世の誰かが“歴史を確認する”ための軌跡だ。
1989年4月、初めて“L-17”が立ち上がった。目的は、国家安全保障下における群衆制御技術の実証だった。
対象は、信仰の名を借りた集団心理。技術の名を借りた薬理操作。
私は当時、それを“歯車の調整”としか思わなかった――」
奈々は録音に耳を傾けながら、当時の“錯綜”を理解し始めていた。神原は決して英雄ではなかった。だが、ある時点から確実に“後悔”し、すべてを明かすために動いていた。
望月が手に取ったのは、フィルム缶の中の8ミリ映像だった。
港区の小さな映写室を借り、二人はその映像を再生した。
暗い画面に映るのは、白衣の男たちと、ガスマスクをつけた若者たち。明らかに一般人ではなかった。何かに操られるように前進し、咳き込み、倒れる者の姿――
その一コマの中に、見覚えのある顔があった。
「……これ……母……?」
奈々は絶句した。映像の一角に、堂本澄子が映っていた。監視員として、立っていたのだ。冷ややかな眼差しで、被験者たちを見つめていた。
「彼女は……参加していた?」
望月は冷静に言った。
「否、あの視線は“見届ける者”のものだ。実行者でも、加担者でもない。だが止められなかった、という自責に満ちている」
奈々は膝に手を置いたまま、うつむいた。
「母は、私にすべてを託そうとしたのかもしれない。でも……でも、どうすれば、これを世に問える?」
その問いに答えたのは、突然現れた影だった。
男は灰色のトレンチコートを羽織っていた。眼鏡の奥の目は静かに奈々を見ていた。
「あなたが、堂本澄子の娘さんですか。初めまして。私は神原のかつての同僚、上月啓吾です」
望月が即座に立ち上がる。
「上月? 国家安全保障局の元技官……まだ生きていたのか」
上月はうっすら笑いながら、椅子に腰を下ろした。
「私は逃げ延びた“だけ”です。だが、そろそろ私も責任を果たさねばならない。L-17は、完全には終わっていない。いまなお、その派生系が、別の形で生きている」
「派生系……?」
「SOP計画と呼ばれている。現代に適応した新しい群衆心理制御プロジェクト。SNSを通じて個人を操作する、“第二のL-17”です」
沈黙。
その一言が、この30年の時を一気に現在へ引き寄せた。
奈々は震える手で拳を握った。
「じゃあ、事件はまだ“続いている”?」
上月は頷いた。
「ええ、かたちは違えど、今も“曇天”の下で、人々の意志は操られている。あなたたちが今持つ情報が、もし正しく使われれば――」
望月が遮った。
「それは、戦争になる可能性もあるということだ。諸外国との情報戦に巻き込まれる。奈々さん、あなたにその覚悟はあるか?」
奈々は答えなかった。ただ、一枚の封筒を取り出した。
中には、母・澄子が最期に遺した手紙が入っていた。
「この国には、まだ“信じるべき記憶”が残っている。あなたがそれを守って――」
その夜。
映写室を後にした三人は、外苑前の小さな教会の地下に向かった。そこはかつてL-17の中継点のひとつとして使用されていた場所だった。
今はすでに閉鎖されているが、壁面には今もマジックで書かれた言葉が残っていた。
「この螺旋に、出口なし。ただし、見上げれば空はある」
奈々は、初めて泣いた。
母がどれだけのものを背負い、沈黙して生きたか、その重みを全身で受け止めたからだった。
望月が彼女の肩を支えた。
「ここからは、我々の戦いだ。国家ではなく、個人としての戦いを――」
一方、霞ヶ関では、あるファイルがシュレッダーにかけられていた。
プロジェクト名「白磁」。その下には、かすれた朱印があった。
「極秘転送済:外部認識層βへ」
L-17は、まだ終わっていなかった。
第四十二章 影の連絡線
警視庁公安部の資料室――その最奥に位置する“第七収蔵庫”は、通常の捜査官ですら立ち入ることを許されぬ空間だった。戦後、GHQによって封印された旧日本陸軍の文書から、極秘裏に持ち込まれた冷戦期の対策ファイルまで、この国の“裏面史”が静かに沈んでいる場所である。
その棚の一角に、一冊の赤い背表紙のバインダーがあった。そこには「L-17補足文書」とだけ記されていたが、何度目かの分類整理を経て、既に“該当資料なし”と扱われていた。だが今、そのバインダーは不自然なほど丁寧に磨かれ、まるで何者かが直近で触れた形跡を残していた。
そして、その資料室の外で、ひとりの男が腕時計を見た。
五反田署から異動してきたばかりの若手刑事・大橋啓太は、まだこの公安の空気に馴染みきれていなかった。
だが今日、彼はある“極秘通達”を上層から命じられていた。
「堂本奈々の尾行を中止し、ただちに保護対象に切り替えよ。
併せて、元公安部員・望月良治、及び元NSC技官・上月啓吾に対しても、監視から協力要請へ移行せよ」
その内容に、若き刑事は唖然とした。
三人とも、過去に公安の“要注意人物”としてマークされていた人物だ。とりわけ上月啓吾は、2012年の“西新宿機密漏洩事件”の黒幕とも言われた。
だが上層部は、今回に限って命令を覆した。
それは、裏を返せば、堂本奈々たちが握った情報が、“国家を揺るがす価値”を持っているということだった。
一方その頃、堂本奈々は都内の古い印刷所にいた。母・澄子がかつて信頼していた業者であり、戦前から続く地下出版のルートのひとつだった。
彼女が頼んだのは、現存する「L-17」の一次資料、および神原秋人が遺したテープの文字起こしの小冊子化だった。出版社を通すことなく、ネットにも載せることなく、手渡しだけで流通させる形――いわゆる“影の連絡線”としての出版だった。
「五百部だけでいいんです。それ以上は、意味が変わる」
印刷所の老人は頷きながら、目を細めた。
「君の母親も、同じことを言っていたよ。――『知らせたいのは、大声じゃなくて、届くべき耳にだけだ』ってね」
奈々はその言葉に静かに頷いた。
その夜、彼女たちは中野坂上の一室に集まっていた。望月、上月、そして公安内部から密かに接触してきた大橋刑事が加わっていた。
「この文書、印刷前にひとつ確認させてくれ」
大橋が手に取ったのは、L-17の末期段階に関する報告書だった。そこには、1995年3月以前に、“特別実施計画”として“空間制圧訓練”が行われたと記されていた。
「これは……地下鉄サリン事件に“極めて類似した状況下での模擬演習”だ」
その言葉に、室内は凍りついた。
上月がぽつりと呟く。
「つまり、事件は“想定されていた”どころか、一部は事前に“シミュレート”されていた可能性がある」
奈々が震えながら口を開いた。
「じゃあ、あれは――“起きてしまった事故”じゃない。最初から、“起こるべくして起こされた”?」
望月が、かすれた声で言った。
「実験台にされたんだよ、この国の地下鉄と、そこを行き交う“市民”がな」
会議が終わった後、奈々はひとりで夜の路地に出た。風が強く、都心とは思えないほど冷たい。
ふと、彼女の背後で足音が止まった。
振り向くと、スーツ姿の女性が立っていた。眼光は鋭く、だが敵意はない。
「あなたが、堂本奈々さんですね」
「あなたは?」
「私は内閣調査室の新藤と言います。これ以上のことは名乗れません。ただ……あなたがいま手にしている情報の一部は、“あらかじめ保全”されたものです」
「保全?」
「つまり――“あなたたちが真相にたどり着くよう、仕組まれていた”とも言えるのです」
奈々は言葉を失った。
新藤はポケットから一枚のメモを差し出した。
「“蛇の尾”を辿れ。そこが最後の扉だ」
同じ頃、霞ヶ関では一枚の文書が閣議決定されようとしていた。
【極秘案件】
「対情報攪乱措置に関する緊急特別法案」
施行予定日:未定
施行対象:不特定だが、高度機密文書を扱う“第三者による調査活動”を含む。
この法案が通れば、堂本奈々たちの活動は、“国家の秩序を乱す行為”として処罰対象となる。
時間は、確実に彼女たちの敵となりつつあった。
その深夜、上月は旧都電跡地に足を運んだ。彼がたどり着いたのは、今は廃墟となった印刷局の地下資料庫だった。
そこには、最後の“鍵”が眠っていた。
L-17の設計思想、資金提供者、実行系統、そして“蛇の尾”――“第三部門”と呼ばれた謎の部局の存在。
すべてが、最終章へ向かって、静かに結びつこうとしていた。
(第四十三章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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