第十九章 傍聴の檻
梅雨の雨脚が永田町の舗道を濡らし、路面に溜まった薄汚れた水たまりに、国会議事堂の逆さの姿がゆらゆらと揺れていた。
その中心、警備が最も厳重な国会議事堂本館。その“第九セクション”という聞き慣れぬ部屋を指す手がかりが、岩城真澄のノートの片隅に記されていた。――「K9=議事堂の第九セクション。鍵は“傍聴”にあり」
公安庁の矢代雅史と香西誠二は、記録にも図面にも存在しないその“幻の部屋”の実在を確かめるべく、独自の手段で国会の内部へと接近しようとしていた。
「国会内部の機密施設は、かつて防空壕や秘密通路として設計された構造がそのまま流用されている。古い議事録に“第九セクション”と呼ばれる区域があった痕跡がある。戦前の委員会記録にほんの一度だけ登場する」
香西は古びた赤表紙の「昭和21年・臨時委員会記録抄」を机上に置いた。
「議員傍聴制度が再構築される以前の時代、“傍聴”は統制の象徴だった。監視ではなく、観測される側を選ぶための制度として存在していた。つまり……“誰が見るか”が問題だった」
「“鍵は傍聴にあり”というのは、制度そのものではなく、“特定の傍聴者”を意味する可能性があるな」
「あるいは、傍聴席からアクセスできる“何か”だ」
二人は動いた。議事堂の傍聴手続きを偽装し、一般に開かれた傍聴席から建物内部へ潜入する計画は、リスクを伴うが唯一の現実的手段だった。
*
その日、矢代と香西はスーツに身を包み、秘書に偽装した部下を伴って国会の正門を通過した。議員と随行者に扮したその姿は、傍目には不審には見えなかった。
本会議の傍聴が始まる直前、二人は傍聴席の最上段へと案内された。広々とした大理石の回廊、重厚な木製のベンチに腰掛けた彼らの視線の先では、議長が開会を宣言していた。
香西が囁いた。
「このフロアに非常通路がある。戦後の改築以前には、皇族用の隠し導線として使われていた。図面には記載されていないが、現存する可能性が高い」
「どこだ?」
「東壁の装飾柱の背後。議長席の直上だ」
二人は静かに傍聴席を離れ、わずかな死角を縫って装飾壁の背後へと回った。そこには確かに、目立たぬ細い鉄の取っ手があった。香西がそっと押し込むと、鈍い音を立てて扉が内側へと開いた。
薄暗い螺旋階段が、地下へと続いていた。
*
地下二層。照明はなく、二人は懐中電灯で足元を照らしながら、コンクリートの通路を進んでいった。壁には風化した銘板がいくつも打ち込まれ、“記録室”“待機所”“管理区”といった名が読み取れた。
そして、突き当たりにひとつのプレートがあった。
「第九セクション――立法予備行動観測室」
矢代は凍りついたように動きを止めた。
「ここだ……!」
香西がコード付きのパネルを調べ始めた。岩城のノートに記された暗号――“0614/0407/E3/R4/K9”――その中にあった“0407”が、ここで使える可能性があった。
「4月7日……“0407”か。試すしかない」
4・0・7の順に数字を入力し、解除ボタンを押すと――パネルが緑に変わり、扉が滑るように開いた。
眼前に現れた空間は、議会とは思えぬ、まるで監視センターのような異様な場所だった。
壁には何十本ものモニターケーブルが走り、中央には議事堂内部を全方向から捉えるモニター群が鎮座していた。集音マイク、資料棚、そして“傍聴者名簿”と記された古い台帳。
「……これは、“傍聴する者”ではない。“傍聴を統制する者”の部屋だ」
香西が呟いた。
棚には戦前から続く“非公開会議記録”が保管されており、その多くに“GANKI”のスタンプが押されていた。
「“雁木”……ここが中枢か」
矢代は震える手でノートを開き、岩城の走り書きを照らし合わせる。
そこに記されていた最後の行――
「“見る者”を見よ。秩序とは、誰が“傍聴”しているかで決まる」
モニターのひとつが、不意に作動した。
画面には、現在進行中の国会本会議の映像が映し出された。が、それは通常の中継ではなかった。議員の発言と、その背後にある利権構造、人脈、指示元のデータがリアルタイムで表示されていた。
「これは……AI処理された情報可視化装置だ」
「すべての“発言”が、“誰のために”“何の目的で”行われたかを演算して可視化している……つまり、“政治の本音”が見えてしまう」
香西は、まるで預言者の言葉でも聴いたかのように、呆然と呟いた。
「……ここが“雁木”の脳髄なんだ」
その時、背後の通信端末が静かに点滅した。画面に、たった一行のメッセージが表示された。
「K9は通過点にすぎない。次は“F1”――政体そのものの母胎」
そして、モニター群が一斉にシャットダウンした。
*
地下通路を脱出し、地上に出た二人を迎えたのは、重苦しい曇天だった。雨は止んでいたが、空にはまだ湿気がまとわりついていた。
「“F1”……政体の母胎とは何だ?」
「考えられるのは……内閣情報調査室、もしくは……国家戦略局の予算外部門だ」
香西の表情には、言い知れぬ疲労と、恐怖がにじんでいた。
「矢代……俺たちはもう、“螺旋”の中ではなく、“渦の核”に触れてしまったのかもしれん」
矢代は目を閉じた。岩城真澄が消えた理由、三島俊彦が命を絶った理由、そして“雁木”が作ろうとする“新たな秩序”。
それらすべてが、国家の“言葉”と“沈黙”の間に潜む、巨大な意志の断片だった。
「次に進もう。“F1”の場所を探す」
その声は、小さく震えていた。だが確かに、未来へと向かっていた。
第二十章 F1コード
霞が関の霞の名にふさわしい濃霧が、首都の朝を包み込んでいた。霧は視界を遮り、時の流れを鈍らせる。地上に漂う重圧が、まるで国家そのものの沈黙を象徴するかのようだった。
矢代雅史と香西誠二は、地下鉄・桜田門駅を抜けたのち、外務省と財務省の中間にある裏路地に足を運んでいた。地図には存在しないが、旧防衛庁時代から「裏霞」と呼ばれる通路に接続する入り口がそこにあると、ある元官僚が仄めかしていた。
彼らの手には、「F1」という暗号の手がかりしかなかった。
岩城真澄の遺したノートにあった、最後の指示。
「K9を抜けた先、F1。母胎は最深部に眠る。国家の無言は、胎内に宿る」
矢代は眉間に皺を寄せたまま、小さな扉を押し開けた。そこは一般人の通行を想定していない、コンクリート打ちっぱなしの粗末な地下通路で、照明は一切なかった。
香西が呟く。
「“F1”は、単なる暗号でもあり得るが……かつて内閣情報調査室の文書コードで、“分類不能文書”に付された記号がF1だった」
「分類不能、あるいは“存在しない文書”……ならば、保存場所も記録上には存在しないことになるな」
二人は歩を進めた。コンクリートの壁面に、退色した塗料で「室F1→」とだけ記されていた。薄気味悪い沈黙の中、その矢印に従って二人はさらに奥へと潜り込む。
やがて鉄扉に行き着いた。電子ロックもなく、単純な手回し式の重厚な鍵。香西が体重をかけて扉を開くと、奥には巨大な資料室が広がっていた。
*
その空間には、電子機器の類は一切なかった。机、棚、鉄製キャビネット、すべてが昭和中期の造りで止まっていた。唯一の照明は天井の裸電球。
空気は乾き切っていた。紙が崩れないよう、空調がわずかに稼働しているようだった。
矢代が目を奪われたのは、部屋の奥にそびえる書棚だった。そこには、一冊ごとに“F1/1965”“F1/1973”といった手書きのラベルが貼られたファイルが、所狭しと並んでいた。
香西が一本のファイルを抜き取る。F1/1995と記されたそれには、地下鉄サリン事件直前の数ヶ月間に関する、いくつもの“記録されなかった記録”が収められていた。
「これを見ろ……」
矢代は資料を覗き込んだ。
そこには、1995年2月初旬、オウム真理教関連施設への突入計画が一度内閣官房主導で練られていたこと、だが直前で“指示系統の不在”を理由に凍結されたことが記されていた。
凍結の理由――「雁木コード適用下にある思想団体に対し、外部的実力行使は不可」と。
矢代は息を呑んだ。
「……“雁木コード”……!」
それは、岩城のノートに幾度も登場していた、国家の深部で適用される“内なる規範”だった。
香西は別の棚から“F1/1990”のファイルを引き出し、震える指で開いた。
そこには、「思想認可制度」――いわば国家が思想を黙認する基準を策定していた証拠が記されていた。科学技術、宗教、政治信条における“過激化予測モデル”と、その管理体制。
その末尾に添えられた一文。
「特定思想団体が国家秩序の一部として機能する場合、排除よりも利用が優先される。これを“調和的過激性管理モデル”と称す」
矢代の脳裏に、サリン事件直前の不可解な“政府の動きの鈍さ”が蘇った。
「まさか……あのとき、オウムの動向を黙認していた理由が、“秩序の一部としての容認”だったと……?」
香西の顔から血の気が引いていた。
「つまり、政府は、特定の“狂気”を“利用価値のある異物”と見なしていたんだ。管理可能である限りにおいて。……それが“雁木”の本質か」
*
そのとき、部屋の奥に置かれた古びた端末が、低く唸るように起動した。誰も触れていない。だが、モニターには見覚えのある画面が映し出される。
雁木の中枢――“第九セクション”で見た、議会モニタリング画面だった。
だが今回は、議会ではなく――彼ら自身の行動が、時刻とともに記録されていた。
「我々は……ずっと監視されていた」
画面に一行のテキストが現れる。
「F1の記録に触れた瞬間、君たちは観測対象から“構成要素”に変わる」
香西が端末に手を伸ばしかけた瞬間――
部屋の照明が一斉に落ちた。空調が止まり、空間から生気が失われる。わずかな時間の後、背後の扉が“ガチャン”と閉まり、内側からロックされた。
閉じ込められた。
矢代が反射的に拳銃に手をかけるが、ここは武器の意味をなさない空間だった。彼らが侵入したこの記録室は、国家が“真実に触れた者”を静かに封じるための、密室そのものだったのだ。
*
そのとき――薄暗がりのなか、別室との仕切りが音もなく開き、白髪の老人が姿を現した。スーツの襟にわずかに覗く赤いライン。それは、政府内の非常勤参与――国家戦略室の非公式顧問の証だった。
「君たちがここに来ることは、想定の範囲だったよ」
その声は、冷たく響いた。
「岩城真澄も、ここを訪れた。“真実”を暴こうとしたが……彼には、“曇り”があった。だが君たちは違う。君たちの目は“曇天”を直視している」
矢代が食い下がる。
「“雁木”とは……国家の裏側で、思想を育て、利用するための装置だったのか? それが地下鉄サリン事件の伏線だったと?」
老人は静かに頷いた。
「国家にとって、必要なのは秩序ではない。“秩序を創り続ける不確実性”だ。静止した秩序は、崩壊を早める。だが、動的な不安定性は、支配を維持するのに適している」
香西は呆然と呟いた。
「お前たちは……カオスを管理していたのか……」
老人はゆっくり歩み寄り、目の前のテーブルに一枚の書類を置いた。そこには、矢代と香西の名前が記されていた。肩書きの欄には、こう記されていた。
「雁木管理構成要素候補」
矢代は、無言のままその書類を見つめていた。
その手に、国家の“真の顔”が、静かに触れた瞬間だった。
(第二十一章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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