松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第十五章・第十六章

目次

第十五章 再演の予兆

 霞が関の一角にある公安調査庁庁舎、その地下にある応接室は窓もなく、空調の音さえ微かにしか聞こえない密閉された空間であった。照明は控えめで、資料とタブレット端末が並ぶテーブルを囲んで、矢代雅史と香西誠二、そして若い調査官数名が沈黙の中に座っていた。

 矢代が持ち帰ったスケッチブックには、異常なまでに精緻な地下鉄の構造が描かれていた。単なる模写ではなく、実際に現場に何度も足を運び、作業員の視点から得た情報であることが明らかだった。しかも、書き込まれていたのは「六本木一丁目駅」──それも1995年には未使用だった新しい地下通路に関する記述もあった。

 香西が言った。

「この構造は内部資料そのものです。市販の路線図とは精度が段違いです。……これは、元職員の手引きなしには不可能だ」

 矢代は、スケッチブックのページをめくりながら言葉を探した。

「香西さん。私はこのスケッチを見て思いました。これは“再現”ではない。あの事件を、まったく新しい“形式”でなぞろうとしている。より巧妙に、より致死的に」

 香西はゆっくりと頷いた。

「我々も、その可能性を視野に入れています。1995年の地下鉄サリン事件は、サリンを液体のまま使ったがゆえに、想定より拡散力が低かった。だが、もし現在の連中が“気化”装置を持っていれば……。地下鉄の一駅で、千人単位の死者が出ることもありうる」

 その言葉に、室内の空気が一瞬凍りついた。

 若い調査官の一人が資料を差し出す。

「これをご覧ください。三島俊彦が頻繁に出入りしていた工学系の研究施設。名目は“都市インフラ研究会”という民間シンクタンクですが、そこで作られていた実験装置の一つに、気体拡散用の噴霧器があったことが判明しています」

 矢代はその写真を見て、嫌な汗が背中を伝った。装置は一般的な空気清浄機のような外見だったが、説明書きには「微細粒子の均一散布」と記されている。

「これを使えば……地下鉄内で“何か”を放出しても気づかれない」

 香西は、重々しくうなずいた。

「いま、我々が警戒しているのは、テロの“実行”だけではない。矢代さん、あなたは“模倣犯”という言葉をご存知のはずだ」

「もちろんです。だが、これは模倣ではなく、ある種の“信仰”です。彼らにとって地下鉄サリン事件は、宗教的な啓示だった。罪もなく死んでいった乗客すらも、殉教者のように見ている連中です」

「……あなたの見方は正しい」

 香西は、矢代の言葉に力を込めて応じた。

「我々は情報を絞り込んでいます。標的は六本木一丁目駅、日時は3月24日午前8時45分──都内の通勤ラッシュのピーク。だが、それだけでは止められない。装置を運び入れる手段、実行犯の特定、そして何よりも指揮者の存在が見えない」

「三島俊彦はその“指揮者”ではないのか?」

「違う。彼は動いている。現場に出ている。計画者は他にいる──“理論家”だ。過去のオウム事件でも、常に裏にいたのは実行犯ではなく、全体を構成する頭脳だった。……今回も同じ構図を感じる」

 矢代は身を乗り出した。

「その“理論家”──心当たりはあるのですか?」

 香西は一枚の写真を差し出した。60代半ば、細面の男が古びた教会の前で立っている。どこか思索的で、眼差しは虚空を見ていた。

「名前は岩城真澄。元・東大医学部助手。1990年代後半、オウムの“麻原帰依”を否定し、組織を離れたが、その後消息不明。公安の情報では、現在“都市浄化論”なる思想のもと、いくつかの地下ネットワークを形成していると言われています」

「都市浄化論……?」

「人口の密集した都市を一度“破壊”しなければ、真の浄化は生まれない。感染、毒素、情報の過剰。すべてを“無”に還すことで、都市の魂は再生する。──彼の言う“都市破壊”とは、まさにテロの論理化です」

 矢代はその名前に覚えがあった。十数年前、雑誌記事で読んだ記憶がある。オウムから脱退後も“アングラ思想家”としてインターネット上に影響を持ち、“新たなオウム”の種を撒いている存在として警戒されていた。

「……岩城が“指揮者”だとしたら?」

「三島俊彦や松嶋優は、その“信徒”に過ぎません。問題は、岩城がどこにいるか、です。都内なのか、それとも地方に潜んでいるのか。我々も、そこは未だに掴めていない」

 矢代は椅子から立ち上がった。

「……ならば、私が探ります。三島が次に動くのは、爆破計画の“前夜”のはずだ。その動線を追えば、岩城への接触もあるかもしれない」

 香西は沈黙ののち、厳かに言った。

「命を賭けることになりますよ、矢代さん。……覚悟はありますか?」

「25年前の3月20日。あの日、私の兄は丸ノ内線の車両で亡くなりました。……命を賭ける理由なら、既に持っています」

 香西の目が、かすかに細められた。

「では、我々も総力を挙げて動きましょう」

 その夜。矢代は単独で“都市再生と精神性の会”の元会員を探し出し、蒲田の場末のバーで接触した。

 元会員の男は、矢代の録音機を前に、最初は頑なだったが、酒が進むにつれ、ぽつりぽつりと語り始めた。

「三島さん……あの人は、ただの実行者じゃないよ。自分の意志で動いてた。『再演は始まりだ』って言ってた。……“先生”が呼ぶ日まで、“舞台”を整えるのが俺たちの仕事だって……」

「“先生”とは誰だ?」

「知らねぇよ。名前も、顔も、俺らには見せない。でも、連絡は……“灯台”って名前のチャットに来る。ダークウェブの“灯台”。それが指示のすべてだった……」

 矢代の胸に、また新たな疑念が生まれた。

 “灯台”──かつて、岩城真澄が開設していた思想ブログの名前と同じだった。

 闇の奥で、かつて消えたはずの亡霊が、再び火を灯している──。

第十六章 決行の朝

 3月24日午前4時30分。

 東京都心はまだ夜の底に沈んでいた。雨は上がっていたが、路面は濡れて鈍く光っており、街路樹の枝先から雫が落ちるたび、わずかな音が暗闇に吸い込まれていた。

 六本木一丁目駅構内では、始発前の地下作業が淡々と進んでいた。照明は点いておらず、作業員たちのヘルメットにつけられたライトが、トンネルの壁面に斑な影を踊らせている。その一人が、何気なく壁際に置かれた白いスーツケースに気づいた。

 「おい、これ、誰のだ?」

 声をかけても返答はない。通路の端、点検口の奥まったスペースに、異物のようにそのケースは佇んでいた。鉄道会社の規定では、こうした“持ち主不明物”の放置は即時通報の対象である。作業員は無線を手に取ったが、その直後、背後で誰かが歩み寄る気配がした。

 「……そのままにしておいてください」

 不自然なほど静かな声だった。振り返った作業員は、その人物が鉄道関係者の制服を着ていないことに気づいた。薄暗がりの中、男は黒いパーカーとマスクで顔を隠していた。

 「お、おい、君は……」

 声が言い終わるより早く、男の手が伸びた。何か光るものが閃いた直後、作業員は仰向けに倒れ、そのまま微動だにしなくなった。

 男は手際よく作業員の制服を剥ぎ取り、自らに着せると、スーツケースの隣に腰を下ろした。タイマー付きのスイッチが、カチリと静かな音を立てて作動する。

 その時刻、午前4時52分。

 一方、公安調査庁では最後の対策会議が開かれていた。

 矢代雅史は、ホワイトボードに映し出された地下鉄路線図を睨んでいた。六本木一丁目、溜池山王、神谷町──いずれも、東京の官庁街と企業オフィスが集中する地点であり、朝の通勤ラッシュには地獄のような混雑を見せる。25年前のサリン事件と酷似した地理的条件だった。

 香西誠二が、資料の束を配りながら言った。

 「今朝、公安が追跡していた三島俊彦の車両が、千葉県浦安市の倉庫街で発見されました。中には、微粒子散布装置と思しきパーツが残されていた。……既に“本体”は別のルートで東京に運ばれたと考えられます」

 「三島は?」

 「消息不明。ただ、昨夜23時、東京駅地下の防犯カメラに似た人物が映っています。画像解析中ですが、顔を隠しているため断定には至っていません。……だが、準備は整ったと見て間違いないでしょう」

 矢代は腕時計を見た。時刻は5時07分。

 「始発が動き出します。奴らが決行するなら、午前8時から9時の間。……動きましょう」

 午前6時半。

 矢代は六本木一丁目駅構内に潜入していた。公安が用意した偽造の作業員証と制服、無線機を携えて、地下3階の通路を巡回するフリをしながら、目を凝らして不審物の存在を探っていた。

 電光掲示板の明かりがトンネル内を照らす。乗客の姿はまだ疎らだったが、構内には既に多数の作業員が詰めかけていた──公安の特殊班である。

 「第3区画、異常なし」

 「第5出口、未確認エリアを再捜索中」

 無線が飛び交う。だが、何かがおかしい。スーツケース、またはそれに類する不審物はどこにも見当たらなかった。

 そのとき、非常口に隣接した非常用通気口の蓋が、かすかに揺れた。

 矢代はそっと近づき、通気口を覗き込んだ。薄明かりの奥に、誰かがうずくまっている。矢代はすかさず無線を握った。

 「香西、通気口C-7にて不審人物を発見。装置らしきものを所持──応援を」

 その瞬間、うずくまっていた人物が、突如立ち上がり、手に持っていた金属の箱を床に叩きつけた。甲高い音とともに煙が広がり、矢代は咄嗟にマスクを装着した。

 「散布だ!」

 煙は無臭だったが、粒子が細かい。光にかざすと、微かに青白く反射していた。

 応援部隊が突入するより早く、男は別ルートの階段を駆け下りた。矢代は追った。

 逃走劇は地下鉄通路を舞台に繰り広げられた。防犯カメラの死角、廃止された連絡口、旧設計の非常用階段──三島俊彦は、それらすべてを熟知していた。

 矢代は無線で逐一位置を伝えながら、呼吸を切らさぬよう追跡を続けた。だが、三島は走りながら振り返り、口元に何かを当てて呟いた。

 「終わりは、始まりだ」

 次の瞬間、背後で火花が散った。爆音は響かなかった。ただ、通路の照明が一斉に落ち、非常灯だけが赤く点滅した。

 香西の声が無線から飛び込んできた。

 「通気口B-4で爆破。ガスではない、電子パルス装置の可能性。監視系統が落ちた!」

 矢代は舌打ちした。三島は散布による即時殺傷ではなく、“恐怖”の構築を目的としている。煙、爆音、停電──全てが心理的効果を狙った演出だった。

 “これは、見せるためのテロだ”

 視界の先で、三島が踊るように身を翻して立った。手には、小型の拡声器があった。

 「皆、目覚めるがいい。これは“再生”だ! 都市の病を癒す儀式だ!」

 矢代は拳銃を抜いた。だが、引き金を引けなかった。

 三島の背後に、乗客が数名、取り残されていたのだ。矢代が躊躇した隙に、三島は通路の端に設置された通気パネルを蹴破り、転がるように姿を消した。

 午前9時15分。

 事態は終息した。散布装置は全て未作動の状態で発見された。煙も、ガスではなくドライアイスと発煙筒による陽動だった。

 だが、三島俊彦は逃走した。

 公安によって封鎖された六本木一丁目駅には、恐怖と混乱、そして説明不能な焦燥感だけが残った。

 香西は、矢代の隣に立って言った。

 「……これは“予告編”だ。彼らの本番は、まだこれからだ」

 矢代は言葉を返さなかった。だが、その胸の奥に、“理論家”岩城真澄の影が、今まで以上に濃く浮かび上がっていた。

(第十七章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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