第十三章 旧友の影
深夜一時過ぎ、雨は小康状態にあった。舗道に灯る街灯の光が濡れたアスファルトに反射して、不規則な幾何学模様を浮かび上がらせている。そんな道を、新聞記者の矢代雅史は濡れたコートの裾をひるがえしながら足早に歩いていた。
彼の手には一通の封筒があった。差出人の名はないが、活版印刷のような機械的な文字で「銀座六丁目、文栄ビル三階、深山探偵事務所」と記されていた。中には、ある男の顔写真と、数行の短い走り書きが添えられていた。
──「三島俊彦。旧統一教会系の活動家。1990年代、地下鉄沿線で目撃。高橋克也と接触記録あり」
矢代はこの情報を見て、肌が粟立つのを感じた。三島俊彦──名前に覚えはあった。かつて大学時代に、学内の政治団体で顔を合わせたことのある男だ。もっとも、その頃はごく温厚な印象しか残っていなかった。彼がテロ組織と接点を持つとは想像だにしなかった。
ビルに入ると、階段を静かに上った。エレベーターの音が妙に耳につくような夜だった。三階に着くと、探偵事務所のドアが少しだけ開いていた。中には、年配の男が一人、古びた革張りの椅子に腰かけて煙草をくゆらせていた。
「矢代さんか。遅かったな」
それが深山だった。元刑事で、今は私立探偵を営むこの男は、元同僚からの裏情報を仕入れることに長けていた。
「三島俊彦の件だが──おそらく彼はまだ東京にいる。潜伏先は大田区の六郷。宗教団体の関連施設で、いわゆる『転生の家』というやつだ」
「宗教団体の施設……?」
「表向きは福祉施設。だが、実態は信者たちの“再教育所”に近い。公安のマークもついてるが、決定的な証拠はない」
矢代は唇を噛んだ。記事にするにはまだ材料が足りない。しかし、核心に近づいている予感がした。
「高橋克也との接触記録というのは?」
深山はデスクの引き出しから一枚のコピーを差し出した。公安内部の調査記録らしきそれには、1994年に高橋克也が三島の名前で旅券を取得しようとした形跡があること、及びその後の足取りが一時的に途絶えていることが記されていた。
「おそらく、偽名を使って出国しようとした。高橋の足が完全に消えたのがその頃だ。三島の名は、身代わりか、あるいは共犯として利用された」
事務所を出た矢代は、そのままタクシーに乗って六郷へと向かった。車窓から見える夜の街は、どこか息苦しさを孕んでいた。鉄筋の建物が並ぶ灰色の街並みは、まるで現代都市そのものが生気を失っているようだった。
*
六郷の住宅街に入ると、タクシーはスピードを緩めた。目指す施設は、地元でも異彩を放つコンクリート造の三階建てだった。看板には「光明福祉センター」と記されていたが、鉄格子の嵌められた窓や監視カメラが、そこが単なる福祉施設でないことを示していた。
矢代は裏手の路地に回り込み、脇の物置の陰に身を潜めた。時折、施設の中から微かな祈りの声のようなものが漏れ聞こえてきた。それは仏教ともキリスト教とも違う、どこか呪術的な抑揚を持っていた。
そのとき──。
鉄の扉が軋みながら開いた。中から、ロングコートを着た男が一人、足早に出てきた。帽子を目深に被っていたが、その輪郭には見覚えがあった。
三島俊彦。
彼は辺りを見回すと、足早に駅の方角へと向かった。
矢代はその背を追った。一定の距離を保ちながら、音を立てずに歩く。六郷土手駅の改札を抜けると、三島は京急線に乗り込んだ。行先表示は「泉岳寺」。
その行先に、不吉な記憶が蘇った。かつてオウムの幹部たちが利用していた麻布の拠点──地下鉄サリン事件の“出発点”となった場所の一つだ。
*
泉岳寺駅で下車した三島は、細い路地を抜けて一軒の古アパートに入った。矢代はその様子を目で追いながら、ポケットからメモ帳を取り出し、住所を記す。
──港区高輪一丁目三番地、昭和荘。
建物の外観は時代の遺物のようだった。外壁は黒ずみ、木製の手すりは朽ちかけていた。だが、それだけに人目を避けるには格好の隠れ場所でもあった。
矢代は通りの向かいにあるコインパーキングの隅で夜を明かす決意をした。明け方までには何か動きがあるかもしれない。あるいは、誰か別の人間が三島を訪ねてくるかもしれない──。
それが、彼の職業的直感だった。
夜が明ける頃、雨は再び降り出した。だがその時、通りの向こうに一台の白いバンが停まった。運転席から降りてきたのは、サングラスをかけた長身の男。三島のアパートのインターホンを押し、数分後、彼は三島とともに姿を現した。
矢代は急いでカメラを構えた。その瞬間、男がこちらに視線を送った。何かに気づいたようだった。
その後の数十秒は、夢の中のようだった。
男が何かを叫び、三島が身を翻した。バンの扉が開き、何か黒い物体が投げられた。
──次の瞬間、白煙が爆ぜた。
目と鼻を突く刺激臭。矢代は手で顔を覆い、よろめいた。煙の向こうで三島と男が車に乗り込むのが見えた。エンジンの唸りとともにバンは走り去る。
矢代は、そこで膝をついた。
サリンではない。催涙弾か、あるいはそれに似た何か。
しかし、彼の脳裏には一つの確信が刻まれていた。
三島俊彦は──今も“あの連中”と繋がっている。
そして、地下鉄サリン事件は、いまだに終わっていない。
第十四章 公安の影
朝焼けが街を染め始めたころ、矢代雅史はまだ震える手で煙草に火を点けていた。あの白煙が目に沁みたのか、それとも事実に迫る高揚のせいか、自分でもわからなかった。警察に通報すべきか迷ったが、彼は携帯を握りしめたまま、ひとまず動向を整理するため、赤坂の新聞社に戻る決意をした。
しかし、社に戻る途中、彼のスマートフォンが震えた。見知らぬ番号だったが、彼は直感的に応答した。
「矢代さんですね。……あなた、尾行されてますよ」
低く押し殺したような声。無機質な響きに、矢代は背筋を正した。
「どなたですか?」
「公安調査庁の者です。あなたが昨夜、六郷と高輪で接触した人物──三島俊彦。彼の動向を追っているのは、あなただけではありません。我々もです」
「だったら、なぜ彼を泳がせている?」
「“泳がせている”のではない。掴みかけては消える。奴らは今も、有機的に地下で繋がっている。あなたの動きも把握しています。記事を書くなら、くれぐれも早まらぬように」
矢代は、わずかに沈黙した。
「それが“警告”なら、私は受けない。私は記者です。真実を書かずして、何が報道ですか」
「……では、こちらも覚悟を決めましょう」
そのまま電話は切れた。
赤坂の編集部に戻ると、社内にはすでに幾人かの記者が来ていた。誰も彼の顔をまともに見ようとはせず、パソコンに向かって指を走らせている。昨夜の件を編集デスクに報告するかどうか迷ったが、矢代は口を閉ざした。
午後三時、社のロビーに一人の男が現れた。スーツ姿に薄いメガネ。どこか官僚的な身なりだが、立ち姿に威圧感があった。受付の女性が戸惑いながら彼の名を呼ぶ。
「公安調査庁の香西と申します。矢代雅史さんにお伝えください」
矢代は心を落ち着け、応接室へと向かった。
「……香西さんでしたか」
香西は、かすかに頷いた。
「昨夜、あなたが撮影した写真──三島俊彦と接触した男の顔。確認できました。名前は“立石隼人”。元自衛官。現在、反国家的宗教団体の警備担当」
「彼も“オウムの残滓”か?」
「厳密には違う。だが、彼は地下鉄サリン事件の記憶を“正義の反動”として利用しようとしている。すなわち、事件を暴力的な“再現”として訴える連中です」
矢代の脳裏を、煙に包まれた地下鉄の構内が過った。25年の歳月が経とうとも、地下に染みついたサリンの記憶は消えなかった。
「我々は今、再び事件の“再演”を画策する一派の存在を掴みつつあります。そして三島俊彦は──その橋渡しをしている」
香西は、懐からタブレットを取り出した。画面には、防犯カメラの映像らしき画像が映し出された。都営浅草線のとある駅。数日前に撮影されたというその映像には、三島と、もう一人──薄い青い作業着姿の男が並んでホームに立つ姿が捉えられていた。
「この男……誰だ?」
「“松嶋優”──元オウムの信徒であり、1995年に未遂に終わった“都営線爆破計画”に関与したとされる人物だ。逮捕状は出ていないが、公安の中では“未処理案件”として監視されている」
矢代は息をのんだ。未遂だったとはいえ、都営地下鉄への第二波攻撃が存在したという噂は、過去にも幾度か聞いたことがあった。それが実際に存在し、いま再燃の兆しを見せているとすれば──。
「なぜそれを、我々マスコミに知らせない?」
香西は苦い顔をした。
「もし報道すれば、奴らは潜る。痕跡を消し、二度と浮上しない。それでは、あの事件の“核心”に迫れなくなる。……あなたには、内密に協力してほしい」
矢代は応接室の窓の外に視線を投げた。霞んだ空に、巨大なビル群が無言でそびえ立っている。その静けさがかえって、何かが足元で蠢いていることを証明しているようだった。
「……協力はする。ただし、私も記者です。筆を止める気はない」
香西は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「それでいい。ただし、報道のタイミングは、我々と相談してもらう」
*
数日後、矢代は再び六郷へ向かった。公安の提供により、かつて三島が“隠れ蓑”として使っていた民間団体の存在が明らかになった。名目は「都市再生と精神性の会」。中小企業向けの人材研修を装いながら、信者の“育成”を担っていた。
建物は区立図書館の裏にある小さな貸会議室だったが、すでに看板は外されており、内部はもぬけの殻だった。だが、建物の裏手にある物置小屋には、不可解な資料がいくつか残されていた。
一枚のスケッチブック──そこには、地下鉄の構造図が詳細に描かれていた。路線番号、換気孔の位置、非常脱出口、駅ごとの警備シフト。
そして、赤で囲まれた文字。
──「六本木一丁目 3月24日 午前8時45分」
矢代は、すぐに携帯を取り出した。
「香西さん……見つけました。次の標的がある」
静かな沈黙のあと、香西の声が響いた。
「……その日付、我々も掴んでいました。“模倣”が始まります」
矢代は、スケッチブックを胸に抱きしめるように持ち、雨に煙る六郷の街を見渡した。
曇天の空が、重く沈んでいる。
だが、その空の下で、何かが、確かに蠢いていた──。
(第十五章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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