第七章 生の残響
ある朝、私は思いがけず泣いた。
理由は分からなかった。枕に顔を押しつけていたわけでもない。ただ、朝日が障子を透かして差し込み、まだ覚めきらぬ夢の残り香が部屋に漂っていたその瞬間、私の眼からは、涙が流れていた。
何かが終わり、何かが始まったのだ。
それはおそらく、私の中の“太宰治”が、完全に死んだ朝だったのだと思う。
かつて私が憧れ、また憎んだ作家は、私の中で無音の崩壊を遂げた。彼の死体は二度目の腐敗を経て、もう臭気すら放たなかった。私はようやく、彼から離れることができたのだ。
そして、私は生まれた。
だがこの“再誕”は、なにも祝福に満ちた儀式ではなかった。むしろそれは、産声なき出産のようであり、己自身に対する過酷な手術のようでもあった。
鏡の中の私は、老いていた。
書くことの重みを知った者の顔をしていた。かつてのように、「文学とは何か」などと悦に入る青年ではなかった。今や私は、言葉が人を殺し、同時に生かすものであることを、体の芯で理解していた。
初夏のある日、私は編集部からの依頼で、ある無名の新人作家の原稿に目を通すことになった。
タイトルは『斜光』。
少し嫌な名だと思った。「斜陽」を思わせる。模倣の臭いがした。しかし、読まずに断ずるのは卑怯だ。私は机に原稿を置き、冷えた麦茶をすすりながら、読み始めた。
一行目から、私は凍った。
「私は、うまく死ねなかった」
何という、絶妙な冒頭だ。技巧ではない。押し付けでもない。ましてや衒学もない。ただ一つの事実だけが、無惨に、しかし美しく投げ出されている。それは太宰の呪縛を受けつつも、もはや彼の文体をなぞる必要すら感じていない、本物の模倣者による言葉だった。
模倣とは、忠実さではない。それは“内面の断絶”である。
太宰に似るのではなく、太宰に裏切られた者だけが持つ声音でしか書けない、その深淵の気配が、この新人の文章にはあった。
私は嫉妬した。
強烈に、赤裸々に、そして惨めに。
私がようやく辿り着いたと思っていた“自分の声”が、他人の筆先にも宿っているのを見せつけられたのだ。私の声は、私だけのものではなかった。誰もが似たような苦悩を抱え、似たような絶望を舐め、それでもなお、書き続けていたのだ。
つまり私は、特別ではなかった。
この事実は、かつての私であれば耐えがたかったに違いない。だが今の私は、ただ静かにその事実を抱きしめた。なぜなら、それこそが“生きて書く”ということの真実だからだ。
その日、私は編集部への返信を送らず、かわりにある人間に会いに行った。
――かつての恋人である。
もう五年は会っていなかった。手紙も送っていない。彼女も今では結婚しているという話を、共通の知人から聞いていた。にもかかわらず、私は行かねばならない気がした。
“私を最もよく知っていた他者”に会うことで、自分が何者になったのかを、誰かに証明してもらいたかったのだ。
彼女の家の近くの小さな公園で、私は彼女を待った。
午後四時、六月の光はやや湿っていた。ベンチに座っていると、彼女が現れた。ほとんど変わっていなかった。いや、変わったのかもしれないが、私の目にはかつてのままに見えた。
「久しぶりね」
その声は、私の胸に優しく突き刺さった。
私は訊ねた。「俺は、変わったと思うか?」
彼女は少し黙ったあとで言った。
「変わったわ。でも、それが“良くなった”のか“悪くなった”のかは、私には分からない。あなたが、“自分”を好きになれたかどうか、それだけよ」
その言葉は、私にとっての最後の審判だった。
帰宅後、私は何も書けなかった。
ただ、部屋の隅に立っていた古いタイプライターに手を置き、しばらく沈黙していた。
“自分を好きになる”。
それは文学が最も苦手とする命題だ。なぜなら文学は、つねに自分の“醜さ”を描くからだ。自己嫌悪を、自己分析を、自己破壊を通して、しかるのちに読者との関係が成立する。
だが彼女の言葉は、それすらも“他者への許可”に過ぎないと告げていた。
私は、“自分を赦すため”に書かねばならなかったのだ。
夜半、雨が降り出した。
窓を開けると、街の灯が濡れ、遠くに雷鳴が響いた。その音は、どこか懐かしかった。太宰の『走れメロス』の冒頭にも雷が鳴っていたことを思い出す。
私は、筆を取った。
次の原稿のタイトルは、こうした。
『私を赦す』
誰のためでもなく、名誉のためでもなく、そして太宰を超えるためでもない。
私は、ようやく“生きる文学”を始める。
第八章 他者の皮膚
書くということは、誰かの命を盗むことだ。
自分の痛みを書けば、それは自己の内部に対する掘削である。しかし、他者を描くとき、それはすでに“侵犯”である。許可を得たとしても、赦されることはない。なぜなら、他者はつねに“書かれざる権利”を持っているからだ。
私はそのことを、ある男の話を綴ろうとした夜に、初めて知った。
彼の名は村上雅志(むらかみ まさし)といった。
小説家ではない。公務員だった。もともと大学時代の文芸サークルの後輩で、私とは十年近く音信不通になっていた。ある日、彼が死んだという知らせを、唐突に受け取った。
首を吊ったらしい。自宅の押し入れの中で、静かに、誰にも告げずに。
享年三十七。家族はおらず、葬式は簡素に済まされた。
その報に触れたとき、私は驚きも悲しみも覚えなかった。ただ、不思議な使命感だけが私の胸をかすめた。「この男を書かねばならない」という、冷たくも強烈な衝動。
私にはわかっていた。これは“自分の話”ではない。しかし同時に、これは“私の物語”でもあるのだと。
村上雅志という人間は、何者にもなれなかった男だった。
才能はあった。文章も巧かった。批評眼も鋭く、感性も繊細だった。ただ一つ、彼には“運命”がなかった。いや、“運命を演じ切る意志”がなかったと言うべきかもしれない。
彼の書くものには、つねに“途中”があった。始まりはある。終わりもある。しかし“中心”がない。情熱も絶望も、中間で薄まってしまうのだ。まるで彼自身のように。
私は彼の遺品を整理した妹から、いくつかのノートとフロッピー・ディスクを譲り受けた。
そこには、未完の短編がいくつも残されていた。
『浮遊する息子』『父の声がする夜』『ラスト・ダイアローグ』。
どれも、書きかけで終わっていた。まるで、書きながら筆者が息絶えたかのように。結末を書こうとすると、彼の手は止まってしまっていた。
私は試みた。
彼の作品を読み、模倣し、続きを書こうとした。
しかし、どうしても筆が進まなかった。
彼の言葉は、彼の体温と共にしか存在できなかった。私は彼を描くために彼になろうとしたが、私は結局、“私”でしかありえなかった。
ある夜、私は独白のようにノートにこう書いた。
「他者を書くことは、他者を殺すことである」
だがすでに、村上は死んでいた。
では私は、彼の死をどう扱えばいいのか。書くという形式を通じて、彼の死に“意味”を与えてもいいのか。
この問いは、太宰の死よりも重かった。
なぜなら、太宰は“文学”に埋葬されたが、村上は誰にも読まれないまま、“無”に沈んだからだ。
ある深夜、私は村上の短編『浮遊する息子』を再読していた。
それは、父を殺した青年が、自分の存在を否定される悪夢の中で溺れていく物語だった。どこか太宰の『ヴィヨンの妻』を想起させる、陰湿な家庭の描写。だが、その心理はもっと冷ややかで、他者の不在を叫ぶような空虚があった。
読了後、私は涙を流した。
それは村上への哀悼ではなかった。
それは、自分が彼の苦悩に“気づけなかった”ことに対する、自責の涙だった。
私たちはともに、文学に恋をした。
だが彼は、恋に破れ、私は生き残った。
私はようやく、決心した。
彼の短編群をもとに、一冊の“作品”を編む。
タイトルは、『他者の皮膚』。
彼の未完の短編を一つひとつ読み込み、その声を借りながら、私は“私の声”で彼を記す。
彼の死を、私の文学で汚すことになるかもしれない。
だが、それでもいい。
私は“他者を盗む責任”を引き受けるつもりだった。
書き始めてすぐ、私は自らの変化に気づいた。
これまでの私は、自分を剥くために書いていた。
だがこの試みは、他者の皮膚を一枚ずつ剥ぎながら、自らの内臓を映す鏡を磨くような行為だった。
痛みがあった。後悔もあった。だが、そこには奇妙な“倫理”があった。
それは、美意識ではなく、生に対する共犯の倫理だった。
私はもはや、死んだ作家を崇めるだけの男ではなかった。
私は、他者の死を引き受ける、生きた作家になろうとしていた。
原稿が完成した日、私は村上の墓へ向かった。
彼の墓は市の外れの小さな共同墓地にあり、地味で、誰も花を供えていなかった。
私は原稿のコピーを封筒に入れ、墓前にそっと置いた。
「お前の言葉は、俺が生きたことで残った」
そう呟いたとき、初めて風が吹いた。
どこか遠くで蝉が鳴いていた。
私は帽子をとり、深く頭を下げた。
その行為は、文学に対する祈りでもあり、悔悟でもあった。
帰り道、私はひとつの結論に達していた。
書くという行為は、他者の死を背負うことでしか純粋たりえない。
だがそれは同時に、他者の生を信じることでもあるのだと。
私はこれからも書くだろう。
己の苦悩だけでなく、己以外の痛みと不在を刻むために。
(つづく)
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